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四章(4)

 翌朝、イアンはいつも通り人気ひとけのない廊下を歩き、扉を叩いて王太子の執務室へ入った。王太子が「何だ?」と問いかける視線をよこしたので、イアンは昨夜見たことを話していく。


 あの後一晩考えて、シェーラとユリアナ、そしてリウカマー侯爵は何らかの目的でこのおかしな事態を演じて(・・・)いて、シェーラのつける香水が何か関わりがあるだろう、ということは分かった。

 しかし、それ以上は分からない。香りについて調べようにも、そんな器具をイアンは持っていないし、リウカマー侯爵が関わっているのだから王太子に判断を仰ぐのだ。


 王太子はイアンの話を聞くと、考え込むように左手で口を覆った。もう片方の手は机の上にあり、トントン、と小さく叩いている。

 重たい沈黙が流れる。まず口火を切ったのはルイスだった。


「それで、殿下、どうします?」


 その言葉に、王太子は数秒目を閉じ、そして瞼を上げると口元から手を離しながら言った。


「――とりあえず香水について調べさせる。それが報酬ということは……嫌な予感がするな」


 その言葉に、ルイスは首を傾げた。「どういうことでしょう?」という質問に、王太子はしばらく拒絶の視線をルイスへ向けたが、彼が引かないのを分かるとひとつため息をこぼし、しぶしぶと答える。


「麻薬――って分かるか? 中毒性や幻覚作用のある薬物で、一度依存症になるとなかなか治らないもので、身を滅ぼすものなんだが、なんとなくそれを思い起こしてな……。実際、香水が報酬になるということは、それがシェーラ嬢やユリアナ嬢に必要なんだろう。そこが麻薬に依存している患者と似ていて……」

「『麻薬』ですか……。確かそんなような作用をする草花の話は聞いたことあるような……」


 ルイスがぽつりと呟く。イアンも王太子の話に思わず身を震わせた。確かに、香水が生活に絶対不可欠というのは、それに依存してしまっている可能性がある。だけど、それじゃあ、シェーラは――。

 そこまで考えて、イアンは首を振った。まだそうとは確定したわけではない。だから今から考えたって不安が膨らむだけだから、考えるのは無駄だ。必要ない。


 ――だけど、もしシェーラの使う香水が『麻薬』ならば……。


 イアンが不安を覚えていると、王太子が口を開いた。


「それで、イアン、その香水がついたものは持っているか?」


 それにイアンは頷くと、ポケットからハンカチを取り出した。数日前、シェーラがくれた刺繍を施されたもの。香りのついたものを持ってこようとしたとき、真っ先に思いついたのがこれだった。今でも微かにだが香りが漂ってきており、これなら大丈夫だろう。そう思って王太子に渡せば、彼も香りを嗅ぎ、頷く。


「では、ルイス、これを調べてくれ。王太子の命令だと言っていい」

「分かりました」


 ルイスは恭しくそれを受け取ると、すぐさま部屋を出て行った。おそらくどこかの機関にでも届けてくるのだろう。彼の背を見送って、王太子はふぅ、と息をついた。疲れたように、椅子に背を預ける。それでも爛々と輝く瞳ですイアンを見ると、王太子は言った。


「これで麻薬と似たようなものだと判明すれば、リウカマー侯爵邸に向かうぞ。王国法第六百九十四条に抵触しているからな」


 王国法第六百九十四条には、他人の心身を害することを禁ず、と書かれている。確かに『麻薬』もそれに該当するだろう。ただ利用する人がいなかったのか、それとも厳重に秘されていたのか今まで表に出てこなかったため、適用されたことがないだけだ。

 イアンは神妙な顔で頷く。嫌な予感がむくむくと胸の内で膨らんでいた。




 約一週間後、シェーラのつける香水にはアルーという南部でしか群生しない花が使われており、すぐさま取り寄せて成分を抽出したところ、それには王太子の危惧した通り、中毒性があることが判明した。

 その報告から二日後、王太子はイアンとルイス、そして衛兵を引き連れてリウカマー侯爵邸へと向かった。



△▼△



 リウカマー侯爵邸は侯爵位を与えられているだけ、王宮から比較的近い位置にある。権力を誇るため豪華絢爛に建築された屋敷に、王太子は宰相の屋敷に突入したときと同様、強引に押し入った。

 しかし、侯爵がいると思われた執務室には誰一人としておらず、ひと部屋ひと部屋順繰りに確認していく。

 けれど、なかなか見つからない。


「侯爵の私室は?」

「おりません。もしや、既に隠し通路から逃げたのでは……」


 王太子の問いかけに、衛兵の一人がそう答える。その予感はこの場にいる皆の心の内にあった。大きな屋敷には大抵……というより必ず隠し通路があるのは常識だ。騒動を聞きつけた侯爵がそこから逃げた可能性は大いにある。

 王太子が黙りこくって周囲の雰囲気が重くなった、そのとき。一人の衛兵が奥から駆けてきた。


「リウカマー侯爵を発見しました! アルハイム伯爵令嬢とイシュタール子爵令嬢もともに!」


 その言葉に、イアンは思わず駆け出す。王太子の静止も気にすることなく、衛兵のやって来た方向へ向けて走り出した。

 まさかこの場にシェーラもいるなんて考えていなくて、危ない目にあってはいないかと心配になったのだ。冷静に考えればそんなことないはずだが、このときのイアンは思わぬことに衝撃を受けていて、そうではいられなかった。


 当の部屋だと思われる場所へ着き、イアンは勢いよく扉を開けた。そこでは混乱しているリウカマー侯爵と大人しいユリアナ、そしてぼうっとしているシェーラがいて――。


「シェーラ!」


 駆け寄って、抱きしめる。ふんわりとあの(・・)香水が漂ってきて、思わず顔を顰めた。


「イアン、離れろ。そして落ち着け。とりあえず軽くこの場で取り調べをしたあと、ちゃんと保護するから」

「…………分かりました」


 後から追ってきた王太子の言葉にしぶしぶと頷いて、イアンはシェーラから離れる。彼女の表情は相変わらずぼんやりとしているけれど、瞳には僅かに感情が見え隠れしていた。その感情を読み解こうとする前に、王太子がリウカマー侯爵の前に立ったため、イアンは慌てて王太子の後ろに控える。


「なに、なによ、なんなの!? こんな展開、乙女ゲームにはなかったわ!」


『乙女ゲーム』。過去一度だけ耳にしたことのあるその言葉に、イアンは思わず目を細めた。この言葉を知っているということは、つまり――。

「なるほどな」と王太子が呟く。


「そうか、リウカマー侯爵、おまえも転生者だったのか」

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