プロローグ(2)
「て、てんせいしゃ? それって何ですか?」
シェーラの戸惑った声が、ぽつりと零れ落ちる。そんな言葉なんて今まで一度も聞いたことがなくて、何を言われているのか理解できなかった。――『転生者』……一体なんだろう?
そんなシェーラを見て、少女は驚いた顔を浮かべ、独り言のように言った。
「あら……? おかしいわね。私が『転生者』だから、あなたもそうだと思ったのだけれど……。――まぁ、いいわ。ちょっと話しましょう」
少女はシェーラの返事など待たず、先程までシェーラが座っていたベンチに腰掛けた。シェーラが呆然としていると、「ほら、あなたも」と言い、隣を指差す。どうやらシェーラに決定権はないよう。
その傲慢な態度に少し苛立ちを覚えながらも、シェーラは彼女の隣に腰掛けた。――だって、気になるのだからしょうがないじゃない。『転生者』に『悪役令嬢』。もしかしたら、それらが私と王太子殿下との婚約を妨げて、お義兄様と……。
そこまで考えて、シェーラは首を振った。こんなこと、考えたらいけないわ。王太子殿下にも申し訳ない。……もちろん、お義兄様にも。お義兄様が権力を手に入れて、いずれ幸せになるために、王太子殿下に嫁ぐって決めたのだから。
だけど、それでも……。
「じゃあ、まずは自己紹介からね」
そんな声が耳朶を打つ。シェーラは慌てて隣に座る少女を見た。
「私はユリアナ。ユリアナ・イシュタールよ。今までずっと平民として暮らしていたんだけど、つい先日、イシュタール子爵家の養子になったわ。よろしく」
そう言って、ユリアナは手を差し出した。ユリアナ・イシュタール子爵令嬢。ただし養子。そう刻み込んで、シェーラはにっこりと作り笑いを浮かべると、その手を取った。
「シェーラ・アルハイムです。よろしくお願いします、ユリアナ様」
シェーラがそう言うと、「うえ」とユリアナが、まるで不味いものを食べてしまったような表情を浮かべた。気味の悪いものを見るような目をシェーラに向ける。
何故そんな顔をされるのか分からず、シェーラは小首を傾げた。もちろん、笑顔のままで。
「どうかしましたか?」
「あなた、気持ち悪いわ。そんなふうにいっつも演技しているの? やめた方がいいわよ、それ。気持ち悪い」
どういうことだろう? とシェーラは首を傾げる。演技するのは、貴族として当たり前なことだ。なのに、同じ貴族令嬢の彼女はそれを否定して……最近養子になったそうだから、まだそのことを教えてもらっていないのだろうか?
そう疑問符を浮かべるシェーラを見て、ユリアナははぁ、と大げさにため息をついた。
「誰だって、嘘をつかれるのは嫌でしょう? 演技も嘘と同じようなもの。だから私嫌いなの。……使用人たちもそう。腹の底で何を考えているのか分からないのがムカつく。正々堂々私に言いなさいよ!」
怒りを露わにしてそう叫ぶユリアナ。だけどシェーラはよく理解できず、首を捻った。――分からないわ。だって、演技するのは自然なことだし……。
そのことを察したのか、ユリアナがダメ押しのように、シェーラの方を見て告げた。
「あなた、恋したことある? それなら分かるでしょ? 好きな人には誠実でありたいし、誠実であってほしいものなのよ」
その言葉に、シェーラはなるほど、と頷く。確かに、シェーラも義兄にはあまり嘘はつきたくないし、されたくもない。つまりはそういうことだろう。
シェーラが頷いたのを見て、「でしょ?」とユリアナが言った。
「だから、演技はなし! せめて私の前だけは! ……ね、仲良くしましょう?」
そう言って、ユリアナは再び手を差し出す。ふんわりと風上から甘い、花のような香りが漂ってきた。
シェーラはその手を取り、自然な笑みを零す。
「そうね、仲良くしましょう、ユリアナ様」
「様も敬語もなし。私もシェーラって呼ぶから」
「そう。分かったわ、ユリアナ」
二人はふふ、と笑い合うと、ゆっくりとその手を離した。
「じゃあ、『悪役令嬢』や『転生者』について話すわね」
ユリアナは体の向きを戻し、空を見上げた。微かに見えたその瞳にはどこか寂しさが漂っていて、ユリアナの雰囲気がガラリと変わる。何故だかは分からない。だけど何となく、彼女がひどく脆い存在に思えて、胸が苦しくなった。
そう思うシェーラのことなんて気にせず、ユリアナは一旦目を閉じ、そして開くと、にっこりと嬉しそうな笑みを浮かべ、シェーラの方を見て話し始める。
「私、前世の記憶があるの」
「…………は?」
シェーラは思わず声を漏らした。意味が上手く理解できなくて困惑し、視線をさまよわせる。……いや、分かる。前世の記憶。前の人生の記憶。分かるけど、そんなの……。
そんなシェーラを見て、クスクスとユリアナは笑う。
「うん、その反応が普通よね。だけど事実なの。証明は……できるけどちょっと待って。まずはこの話をしなくちゃ」
そう言って、ユリアナは話し始めた。この世界は『君の指先に誓いのキスを』という『乙女ゲーム』の世界で、ユリアナはそのヒロイン、そしてシェーラは『悪役令嬢』だという。『攻略対象』は二人。王太子と、イアンで……。
「ちょ、ちょっと待って」
たまらず、シェーラはユリアナを止めた。頭がパンクしそうだ。というよりもうしている。分からないことだらけだった。
ユリアナはシェーラを見てきょとん、としている。ぱっちりとした可愛らしい瞳には、複雑な表情をしているシェーラが映っていた。……ひどい顔。だけど、それよりもユリアナの話の方が大事だ。
「ええっと、『乙女ゲーム』って……?」
「あ、そっか、説明してなかったわね。『乙女ゲーム』っていうのは……うーん…………恋愛小説ってあるでしょ? その中のヒロインに成り代わって? いやちょっと違うわね……とりあえず、そのヒロインの選択を自分で決められて、その選択の仕方によってエンディングが変わるものよ。分かる?」
「いえ、全く……」
恋愛小説のヒロイン? 選択したらストーリーが変わる? ……全く分からない。『乙女ゲーム』というのがどんなものか、全然想像がつかなかった。
シェーラのその返答を聞いて、苛立ったようにユリアナは前髪を掻いた。
「ああ、もう! 『百聞は一見に如かず』っていうことで見せたいけど、この世界には『ゲーム』もないし!」
「ゲームならカードとか……」
「そっちのゲームじゃないの!」
怒ったように叫ぶユリアナ。正直、私に言われても……としか思えない。
「とにかく!」とユリアナはずいっとシェーラに顔を寄せ、言った。
「このままじゃ、私、王太子妃にならないといけなくなるの! 私の推しはイアン様なのに!」
△▼△
苛立ちを隠すことなく、イアンは王太子の執務室へと至る道を歩いていた。王宮の中にも関わらず、その廊下に人通りはない。王太子がそう命じたからだ。隠し通路などには潜んでいるだろうが、それも王太子が真に信頼している者たちのみだろう。だったら気にはしない。どうせ苛立っている原因など知られているのだから。
ずんずんと歩いていると、目の前に小柄な人影が見えてきた。黒く短い髪。愛しい彼女のものとはどこが違う。そのことにさらに苛立ちを覚えながら、イアンは彼に呼びかけた。
「ルイス!」
「あ、イアン様。どうかなさったので?」
振り返った彼の手には、いくつかの書類があった。それを見て、イアンは歩調を速める。
「やはり殿下は執務室だな。行かせてもらう」
「え、ちょ、待ってくださいイアン様! もしかしてもう知ってしまったのですか!?」
ルイスの言葉に、イアンの心はさらに波打つ。そうか。ルイスも知っていたのか。なのにイアンだけが知らなかった理由はただ一つ。王太子が口止めをしていたのだろう。
その後も静止を促すルイスの声を振り払い、イアンは勢いよく王太子の執務室の扉を開けた。
部屋の主は窓を背にするようにして椅子に座っていた。執務机の上にペンを置き、イアンの方を見やる。彼に向かって、イアンは叫んだ。
「殿下! 一体どういうことですか!?」
「お、落ち着いてください、イアン様! ええっと……どうぞ、紅茶です!」
そう言われて差し出されたカップを手に取り、イアンは一気に飲もうとした。しかし、一口含んだところで慌てて口から離す。
――不味い。紅茶を零さず、吹き出しもしなかったのがある意味奇跡だと思うほど、劇的に不味い。ルイスが入れた紅茶だとすぐに分かった。
ルイスは十三歳ながらもしっかりと真面目に働いている王太子の侍従だ。王太子の信頼が厚く、本来の仕事ではない執務の手伝いをするほど。
しかし、――本来の仕事の方が壊滅的だった。
王太子の着替えの手伝いなど全くできず、せめて紅茶は、と思ったそうだが、この出来だ。彼は侯爵令息であるため仕方ないとは言えるが、それとこれは別。何故幼い彼が王太子の侍従に採用されたのか、イアン含め皆が疑問に思っていた。
そんな彼が練習のためにいれた紅茶が王太子の執務室には多くある。いつもなら警戒して口に入れることはないのだが、今回は見事忘れてしまっていた。
イアンは軽く悶絶しながら、吐き出すことはできないため、何とか口に入った紅茶を飲み込む。くつくつ、という笑い声がイアンの耳を打った。不機嫌そうに顔を上げると、珍しく笑っている王太子の姿が目に入る。
「……笑いすぎです」
「仕方ないだろう? 珍しくおまえが間抜けだったからな」
王太子は心底楽しそうに笑っている。珍しく気の抜けた主の様子に、イアンは口端を緩め……。
「って、そんなことはいいです! 一体どういうことですか! あの子と婚約するなんて!」
「ああ、そのことか」
何でもないように言う王太子に、ふつふつと怒りが湧き上がる。「殿下!」とイアンは叫んだ。
「あなたは、私の想いを知っておられるでしょう!?」
すると、王太子は僅かに口角を上げた。静かに目を伏せ、妖しく微笑む。そして愉しそうに言った。
「当たり前だろう。あれだけとろけるような表情で熱烈に義妹への愛を語られたら、忘れようもないな」
「でしたら!」
「無理だ」
王太子は目線を上げ、イアンを見つめる。強い光をたたえた真摯な瞳に、イアンは思わずたじろいだ。何も言われていないのに自身の短慮を責められているように感じ、居心地が悪くなる。
コツ、と王太子が人差し指で机を叩いた。
「分かっているだろう? すべて宰相の権力を削ぐためだ。その第一歩として、宰相一派のアルハイム伯爵令嬢を婚約者に据えた」
「……どういうことですか。私が、あなたの側についていますのに」
「自分で考えろ。そのうち分かる」
王太子はそれ以上答える気はないようだった。机の上に置いていたペンを取り、書類にざっと目を通すとサインを入れる。
ぎり、とイアンは唇を噛みしめた。……何も知らされず、何もできない自分が、ただ情けなかった。