三章(4)
悶々としながら、シェーラと顔を合わせることなく二日後になった。イアン自身少しだけ彼女を避けているが、明らかに見かける頻度が少なくなったことから、これは彼女の方からも避けられているに違いない。そう察して、気分が落ち込んだ。
けれど、いつまでもこのままではいけない。明らかにおかしいイアンとシェーラに、使用人たちも何かあったと勘づき始めている。シェーラがキスされたことを表沙汰にしないのは、おそらく知られる方が恥ずかしいからだろう。だからシェーラのためにも、知られる前に何とかいつも通りに戻らなければ。
(だけどせめて、今日のことが終わってから……)
そう心の中で言い訳をしながら、イアンはその日、屋敷を出た。
そして、何人もの人物にとって重要な夜が訪れる。
△▼△
王太子はイアンとルイス、そして二十人ばかりの衛兵を伴って宰相の屋敷に入った。まっすぐに宰相の執務室へ向かい、扉を叩くと、返事を待つことなく部屋に足を踏み入れる。王太子の執務室よりも質素で小さめな部屋の奥では、宰相が書類にペンを走らせていた。描きかけだったらしいサインを書き終わると、ペンを置き、ひと通りやって来た者たち全員を眺めてから立ち上がり、王太子の前でお辞儀をする。
「これはこれは、ご機嫌麗しゅう、殿下。いったい何事でしょう?」
その言葉に、王太子はピクリと片方の眉を上げながらも、冷静な表情で言葉を発した。
「ああ、久しぶりだな、宰相。聞きたいことがある」
「何なりと」
「俺を襲撃させたのは、宰相だな?」
すると、目に見えて宰相が固まった。だけどしばらくして小さく息をつき、表情を変えることなく、「何のことでしょう?」と尋ねる。どうやらあくまでもしらを切るらしい。
それを受け、王太子が「ルイス」と言う。ルイスは無表情で手に持っていたカバンの中から書類を取り出すと、王太子にそれを渡した。
一体なんだろう、と思ってイアンがよく目を凝らせば、どうやら契約書らしい。宰相の印章が押されていた。
王太子が「ここに、契約書がある」と言う。
「これにはちゃんと、宰相の印章が押されていた。そして、契約内容には『王太子を舞踏会で襲撃』……ともな。言い逃れはできんぞ」
「そうですか」
不自然なほど落ち着いた態度で、宰相はそう言う。そのことに違和感を覚え、イアンは首を傾げた。たとえやましいことがあろうとなかろうと、ここまで証拠を見せつけられては動揺するはずだ。イアン自身、何もしていないのに証拠まで出されたら絶対に抗議するに違いない。なのに、宰相は全くそんなに素振りを見せなくて……。
密かにそんなことを考えていると、宰相が「ですが」と言う。
「印章は盗むことも、貸すことも可能です。事実、私は先日から印章を貸しておりまして……」
「待て、印章を家の者以外に貸すのは犯罪行為だぞ」
「だから、家の者に貸したのです。そう――娘のラヴィニアに」
「なっ――」と王太子は声を漏らした。イアンもまさかのことに思わず目を見張る。もしそれが本当だったならば、暗殺を依頼したのはラヴィニアで、それは王太子の知る未来とは違うのではないだろうか。何しろ、王太子は『ゲーム』通りに宰相が犯人だと言っていたのだから。
しばらく静かな時間が流れる。やっとのことで衝撃から抜け出したのか、王太子が「ラヴィニア嬢を、ここへ」と衛兵に頼んだ。
やがて、ラヴィニアが部屋へやって来る。衛兵二人に両手を拘束されながら、彼女は「知らなかったの!」と甲高い声で叫んでいた。髪を振り回し、その顔は青ざめ、まるで恐ろしい怪物でも見て半狂乱となってしまった人のよう。
ラヴィニアは王太子を視界に留めると、「殿下っ!」とこれまた大声で叫んだ。王太子が何やら口を開きかけたが、ラヴィニアはそんなの気にしていないらしく、悲鳴じみた声を発した。
「私、私、知らなかったのです! ただ、舞踏会の会場でも襲撃されたら、あの女は怯えて、きっと殿下の婚約者を辞退するって思ったから! なのに、何故か殿下を襲撃して――っ!」
「ラヴィニア嬢、黙れ」
ひたすら叫ぶラヴィニアに、王太子は冷たい声でそう告げた。ピクリ、と彼女が体を震わせると、王太子は顎に手をあてて何やら考え始める。おそらく、先ほどラヴィニアが言ったことを元に、いったいどういう状況なのかを整理しているのだろう。イアンも彼女の発言を振り返る。
ラヴィニアは、王太子の婚約者――シェーラが本来の目的だと言った。しかし何か手違いがあったのか、王太子を襲撃してしまったことも。
しかし、契約書にははっきりと王太子の襲撃と書かれていて――何かがおかしい。
さらに、ラヴィニアは宰相の娘らしく、生粋の令嬢だ。買い物をするにしても屋敷に商人を呼ぶだろうから、屋敷を出る機会などそれこそ夜会くらいしかない。だが、こういう業者もまた基本、自らの拠点から出ないものだろうし――。
協力者がいるのかもしれない。そう、イアンは判断し、王太子の方を見る。ちょうど王太子がラヴィニアに何か尋ねるところだった。
「――ラヴィニア嬢、あなたが契約を結んだ過程を教えてくれ」
「は、はい。……私、なんであの女が殿下の婚約者になったのか分からなくて――せめてクロフォード侯爵令嬢なら諦めがついたのですけど、そうじゃなかったので……それで、きっとあの女が誑かしたに違いないって思ったんです。そしたらリウカマー侯爵が現れて、舞踏会で襲撃してあの女を怯えさせてやろうって。そのために我が家の印章が必要だからと、私がお父様から借りて、それを侯爵に貸したのです」
そう、ラヴィニアは幾分か落ち着いた態度で告げた。リウカマー侯爵は、男のくせに何故か女装をしており、妻も娶らない人物だ。彼を変人だと思っているのが大多数だが、不思議なことに一部の女性からは異様に人気だった。
そんな人物が一件に絡んでいたことが意外で、イアンは思わず目を見開く。政治などにも興味のない、自らの父に似た人だと思っていたが、そうではなかったよう。
そのとき、王太子が口を開いた。
「証拠は?」
じっと見つめられ、ラヴィニアはたじろぐ。そしてかすれた声で「あ、ありません……」と告げると、わっと泣き出した。おそらく色々と限界だったのだろう。これでは聞き出すどころではない。
重たい空気が、部屋に満ちた。
△▼△
「ゆ、ユリアナ、本当にこんなところに部屋が?」
そう、怯えたように尋ねるシェーラに、ユリアナは手を引くのを止めないまま後ろを振り返り、にっこりと笑いかけた。使用人も通らない、薄暗い廊下。確かに初めてだと、入ってはいけない場所に来てしまったのでは、と怯えてしまうだろう。だけどそこではならない理由もあった。
ユリアナは安心させるようにシェーラに言う。
「ええ、そう。ほら、早く行きましょう? 待たせてしまったら申し訳ないもの」
「そうね……」
恐る恐る頷くシェーラに、ユリアナの胸がチクリと痛む。彼女なら、まだ逃げられるだろう。だから逃げてほしいという気持ちもあると同時に、このまま一緒に堕ちてほしい、という気持ちもあった。最初は彼女を利用するために近づいたけれど、今ではもうユリアナはシェーラに心を許していたのだから。友人だと、心の底から思っていたから。
(ごめんなさい――)
心の中で謝りながら、だけどそれを一切表情に出すことなく、ユリアナはあの部屋へ向かう。特別な部屋だ。あの方に選ばれた人たちしか入ることを許されない、甘く、幸福な部屋。
しばらく会話することもなく歩き、とうとうそこに着いた。――これを逃したら、もう彼女は今まで通りではいられないだろう。それが、彼女のためにならないことも、分かっている。
(だけど、私は……)
そっと目を伏せ、気持ちを押し殺す。そしていつも通り作り笑いを浮かべると、「ここよ」と言って、部屋の扉を開けた。
ふんわりと……いや、どっと、甘ったるい香りが部屋から溢れてくる。鼻がおかしくなりそうなほどの、甘やかな毒。シェーラの方を見れば、どこか虚ろにこちらを見つめていた。
そのことに胸を痛ませながら、ユリアナはつい、と正面に顔を向けた。そこには美しい、豪奢なドレスを纏った彼がいて、思わず胸が高鳴る。シェーラには申し訳ないけれど、ユリアナにとって彼は世界の全てとでも言うべき存在だった。
――それくらい、愛していた。心の壊れかけたユリアナを慰め、癒し、ここまで成長させてくれたのは彼なのだから。
だから、彼のためならなんだってやる。たとえ、友を裏切るようなことでも、私の望まないことでも。
(……けど、こんなこと、しなくてもいいのに)
そう思いながら、ユリアナは口を開いた。
「連れてきました、リナ様」
すると、彼はうっそりと微笑む。
「ありがとう、ユリアナ。これであなたと殿下を結ばせることができるわ」
その言葉に、ズキリと胸が痛む。本当は彼と結ばれたい。そう告げたら、きっとまた、「あなたなんてヒロインじゃない!」とでも言われてしまう。彼に求められることだけが存在理由のユリアナにとって、それはこうして好きでもない人と結ばれることを強要されるよりも、ひどく辛いことだった。
だからこうして、彼に粛々と従っている。
「さて、」と彼が声を発した。
「乙女ゲームを始めましょう」
次から最終章に突入します。