三章(2)
しばらくイアン視点
静かな王宮の廊下を、イアンはゆっくりと進む。張りつめたような緊張感があたりに満ちており、自然とイアンの面持ちも厳しくなった。……王太子が舞踏会で堂々と襲撃を受けた翌日だ。これほどまでにピリついても仕方がないだろう。
そう思いながら、いつも通り人通りの少ない道のりを歩き、王太子の執務室へ着く。一呼吸置いてから扉を叩き、中へと入った。
中では相変わらず王太子が執務をしていた。侍従のルイスがすぐ傍におり、王太子がサインをした書類をすぐに回収して、次に目を通す書類を差し出したりなどして手助けをしている。
イアンは「殿下」と呼びかけた。王太子がゆっくりと顔を上げる。その表情はどこか硬く、顔色も僅かに悪い。当たり前だが、傷口がまだ治っていないのだろう。普通なら休養せねばならないのに今現在こうして執務をしているから、余計に悪くなったに違いない。
「どうした、イアン?」
王太子に尋ねられ、イアンはそっと目を伏せる。……昨夜、覚悟を決めたはずなのに、そのことを告げる気にはどうしてもなれなかった。だから、別のことを口にする。
「――休むべきではありませんか?」
その問いかけに、王太子はつい、と顔を逸らす。どうやら同じことを思ってはいたようだったが、休むことなどできやしないのだろう。やるべきことがたくさんあり、たとえ怪我や病気をしたとしても、それらを怠っては国の運営に支障をきたしてしまう。王太子という地位も難儀なものだと思いながら、イアンは「ルイス」と彼の方に視線をやる。
ルイスは今まで何も聞いていなかった、とでもいうように首を傾げる。
「なんですか、イアン様?」
「――……侍医はなんと?」
ルイスは目をぱちくりさせたあと、「ここ二、三日は絶対安静だと……」と言い、王太子に「おい」と非難めいた声を向けられる。だけど彼は純朴そうな微笑みで王太子を見つめ、その非難を交わした。少しだけわざとらしい。
そんな二人の様子にはぁ、とため息をつきながら、イアンは全くもう、と心の中で呟く。王太子は大切な主だから今日くらい休んでほしいものの、それはいけないと分かっているからもどかしい。それに、ルイスもルイスだ。二人の様子から、ルイスは王太子が執務をすることを特に反対しなかったよう。侍従ならばせめて、一言くらい注意をすれば良いものを……。少なくとも、イアンならそうする。
そんなことを考えていると、王太子がひとつ咳をして、「それで」と言う。
「昼休みにわざわざ、そんなことを言いに来たわけではないだろう? 用はなんだ?」
その言葉に、イアンはあからさまに体を強ばらせた。うっと微かに声を漏らしながらつい、と視線を逸らし、王太子の後ろにある大きな窓の向こうを見つめる。外では種類も分からない真っ白な鳥が二匹、戯れながら澄み渡る青空を飛んでいた。昨夜あんな事件があろうとも、人間以外の生き物や自然には関係ないのだろう。まるで一人の人間の生き死になど些細なことだと言われているような気分になり、思わず顔を歪めた。そんなことない、と言いたい。けれど、それを支える理論をイアンは見つけられないでいた。
「イアン?」と王太子に声をかけられ、ふぅ、とイアンは息をつく。……たとえ理論を見つけられなくとも、この感情を伝えることには意味があるはずだ。そう言い聞かせながら、ゆっくりと王太子の方へ顔を向ける。
王太子の顔色は相変わらず少しだけ悪く、表情はいつも通り浮かんでいない。だけど、何となくさあ言え、と急かされているように感じ、イアンはゆっくりと、確かめるように言葉を紡ぐ。
「――殿下、私はシェーラのことが好きです」
そのことを告げるのに、ひどく勇気が必要だった。何しろ、彼女は王太子の婚約者だ。すなわち、未来の王太子妃であり、王妃であり、国母となる女性。そんな彼女を好きだと認めるなんて、イアンにはとても重大なことだった。
イアンの言葉に、王太子はすっと目を細める。先を促されたように思えたため、イアンはそのまま話を続ける。
「たとえ殿下の婚約者といえども、私の義妹であろうとも、彼女のことが好きで、一人の女性として愛しているのです」
王太子は一切表情を変えない。「だから、」とイアンは言う。
「だから、彼女のことをもう利用しないでください」
そう、告げた。イアンは思わず唾を飲み込み、視線を足元へ向ける。……これは裏切り行為だった。王太子の計画のためには、シェーラを利用することが必要なのだろう。だけどそうだと分かっていながら、言うことを聞くことを求められていながら、イアンは私情から王太子にそれをやめてくれ、と頼んだのだ。これを裏切りと言わずになんと言おう?
重たい沈黙が降りる。しばらくすると、王太子がくつくつと笑い出した。それはイアンが初めて聞く、感情に満ちた笑い声で。
慌ててそちらを向けば、王太子はイアンの方を見て嬉しそうに微笑んでいた。「ありがとう」とその唇が動く。
意味が分からずにぽかん、と呆けていると、王太子はルイスの方を見た。
「と、言うことだ、ルイス。もういいだろう?」
「まぁ、そうですね。とてもギリギリでしたし、殿下が口を出しましたが、まぁ良いとしましょう」
「あれくらいは別にいいだろ」
「ダメです。完全に傍観者になってこそ、ちゃんと見極めができるものなのですから」
むっと王太子が顔を顰める。ひどく不機嫌そうで、本当にあの王太子と同一人物なのかと思ってしまう。今までイアンが見てきた王太子はとても理性的で、常に無表情で、感情を表に出すことなどなかった。なのに、目の前の彼は以前よりもかなり表情を変えており――。
そんなことを考えていると、王太子がこちらを向いた。
「イアン、実はだな、ルイスが言うからおまえを試していたんだ。おまえは優しすぎるから、一人の主に仕えることができない性格だろうと判断して、本当におまえがこちら側に寝返ったのかを確認した。もし心の底から俺に仕えていないのなら、守りたいものの多いおまえは耐えきれなくなって色々言ってくるだろうし、そうでないのなら、きっと俺の意向に決して逆らうことはないだろう……って、ルイスが」
「最後のは余計です。殿下は許可を出しましたし、主は責任を取るものでしょう?」
「ああ、分かってる、分かってる」
色々な情報が入ってきて、イアンの頭の中はこんがらがる。……つまり、王太子は私を試していて、だけどその判断はルイスのもので……。わずか十三歳のルイスが二十一の王太子に助言をし、しかも王太子も彼の意見を尊重してその通りにしていることが、にわかに信じられなかった。イアンの中でのルイスは王太子に従順な、純朴そうな、至って普通の少年だったのに……イメージが変わって、頭の処理が追いつかない。
イアンがあっけに取られていると、王太子がこちらを向く。その瞳は嬉しそうに輝いていた。
「ということで、イアン、おまえはちゃんとルイスに仲間だと認められた。こちら側の人間だと、ちゃんと信任を得られた。だから、俺たちがこれからしようとしていることを話そう」
そう言って王太子は手を組み、両肘をつく。そして口元を隠すようにすると、あることを告げた。
「とりあえず――俺には、前世の記憶がある」
「…………はい?」
間抜けな声が、部屋に落ちた。