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二章(7)

引き続きイアン視点

 そっと唇を離すと、ほんの微かにリップ音が鳴る。イアンはにっこりとした笑みを取り繕って言った。


「これでいいですか?」

「――はい、ありがとうございます」


 恥ずかしいからか、ユリアナは顔を俯ける。声も若干強ばっていた。

 そんなユリアナに、イアンは手を差し出す。


「中へ戻りましょう。体が冷えてしまいますから」

「……そう、ですね」


 ユリアナが頷いたため、イアンは気持ち早めにその場を立ち去る。正直、あんな場所にいつまでもいたくなかった。シェーラ以外とキスをした、あんな場所に。

 ホールへと戻ると、たまらず、イアンは隠れて口元を拭った。感触がまだ残っているような気がして、洗ってしまいたかったが、さすがにそれはできない。小さくため息をついた。

 そんなときだった。


「イアン」


 声をかけられ、イアンはそちらを向く。そこには険しい表情をした王太子がいた。その隣にシェーラはいない。


「殿下」


 イアンは頭を下げる。何故、シェーラがいないのだろう? と疑問に思いながら、王太子の言葉を待った。目下の者から話を切り出すのは無礼だと言われるからだ。

 王太子はゆっくりと口を開く。


「シェーラ嬢を見てないか? 一度別れて、だけど見失わないようにしていたのだが……ここら辺で消えてしまってな」

「見てませんが……そもそも、なぜ別れたのですか」

「ちょっとな……」


 そう、王太子は表情を変えることなく言いよどむ。

 いつもそうだ。この方はいつも、私に何かを隠している。そのくせに、隠していることを大っぴらにしていた。……おそらく、信頼されてないのだろう。イアンは元は宰相側の陣営。王太子の敵だった。だから、未だ全幅の信頼を寄せられていない。

 こっそり落ち込みながら、イアンは王太子を見た。――たとえ信頼されていなけれども、この方が私の主。自ら決めた、敬愛する主だ。彼に従うのが、イアンの望み。


 ――ズキリ、と胸が痛んだ。本当にそれでいいのか? と誰かが囁く。このまま、何も考えずに王太子に従って、愛する人を危険に晒して……。

 ふるふると小さく首を振る。これでいいんだ、きっと。そんなこと考えてはならない。


「ああ、そうだ、イアン」

「はい、……何でしょう?」


 思ったよりも沈んだ声が出て、慌てて声の調子を整える。信用を得ていないとはいえ、自らそれを遠ざける行為はしたくなかった。怪しまれたくなかった。それくらい、イアンは王太子を敬愛していたのだ。

 だけどイアンの不安は杞憂だったらしく、王太子は至って普通に尋ねる。


「ローリー・マドック子爵を知っているか? どうやらシェーラ嬢と幼い頃から親しいようだが」

「マドック子爵? ……あのマドック子爵がですか?」


 イアンは思わず疑問の声をあげる。現在のマドック子爵は確かローリーという名の男で、年はイアンと同じか少し上だった気がする。特に可もなく不可もなく、な感じの男性だったが、そんな彼がシェーラと親しい? しかも幼い頃から? イアンは小首を傾げる。シェーラは貴族というよりは平民に近い暮らしをしていたようだったが……そんな彼女が、貴族の少年と友達? そのことが不思議でたまらなかった。

 王太子はイアンの言葉に「ああ」と頷く。王太子の言うことだから正しいのだろうけど……不思議だ。


「それと、そちらにおられる噂の婚約者を紹介してくれないか?」


 王太子が言い、イアンはハッとしてユリアナの方を見た。……正直、彼女の存在を忘れていた。これでは不審に思われているかもしれない、と思いつつユリアナの様子を窺うと、彼女は彼女で何やら考えこんでいたよう。どこかあたふたしたように王太子に礼をとった。

 イアンは慎重に言葉を選んで、告げる。


「こちらが婚約者のユリアナ嬢です」

「ユリアナ・イシュタールと申します、殿下」


 ユリアナの声は少し緊張しているのか、硬いものだった。そんな初々しい様子を見せるユリアナに、王太子は表情を変えることなく言葉を放つ。


「そうか。……ユリアナ嬢、一曲踊ってはくれないだろうか?」


 王太子の誘いに、ユリアナはゆるりと笑みを浮かべて「はい」と答えた。ほっと息をつきながら、差し出された王太子の手を取る。

 その様子を見て、イアンは何となく違和感を覚えた。どこかボタンをかけ間違えているような気がするのに、その間違えている場所が分からない。そんな、不可思議な違和感だった。


「イアン、一曲終わったら戻ってくる」

「はい、分かりました」


 王太子の言葉にイアンは頷く。すると、ユリアナがイアンへ向けて言った。


「イアン様、行って参ります」

「ええ、楽しんで」

「はい」


 二人の短い会話が終わったと同時に、王太子はユリアナを連れてホールの中央へ向かった。周囲が少しザワつくのを感じながら、イアンはそっとため息をつく。何となく、疲れが溜まっているようだった。このまま屋敷に帰ってベッドに埋もれてしまいたい。


 そう、考えたときだった。


 パリン、とどこからか乾いた音が聞こえ、歓談の声がぴたりと止み、演奏も消える。

 次に空間を彩ったのは悲鳴だった。ある夫人の悲鳴に、皆が一斉にそちらを向く。そして悲鳴が増え、重なり、耳に心地の悪い音を奏でた。

 その頃になって、イアンは嫌な予感を感じて迅速に動き出した。悲鳴のした方へ、人を押しやりながら駆け出す。そこで目にしたのは――。


「殿下!」


 うずくまる王太子と、彼を中心に広がる真っ赤な液体――血。イアンは急いで王太子に近寄り、肩を支えて表情を確認した。顔色は悪く、いつもより眉根が寄っている。具合が悪いのは明らかだった。だけど王太子はイアンを見ると、「だいじょうぶだ」と紫色の唇を動かす。


「そんなわけ……!」

「予測、できてたからな。……イアン、衛兵を三人(・・)呼べ」

「なにを……」

「いいから早く!」


 王太子にせっつかれ、イアンは「衛兵!」と振り返りながら叫ぶ。

 そのとき、視界の右上に違和感を感じた。慌ててそちらを見ると、キラリと光るものが見えて――。

 イアンは無意識のうちに立ち上がり、王太子の傍で呆然としていたユリアナに飛びかかった。その瞬間、右腕にピリ、とした鋭い痛みが走る。二人して床に倒れ込むと、ユリアナが慌てた様子で「イアン様!」と名前を呼んだ。ちらりと右腕に目をやると、二の腕に一筋の赤が浮いていた。


「これくらいは大丈夫ですよ」


 そう言ったとき、人混みの中から衛兵が現れた。王太子を動かして出血がひどくなるのはまずい、ということで衛兵二人がかりで王太子を慎重に運ぶことに。そしてイアンも怪我をしているということで、イアンとユリアナは王太子とはまた別の医務室へ向かうこととなった。


 医務室へと向かう道すがら、イアンは考える。王宮で、しかもいつもより警備が厳重な舞踏会の夜に王太子を襲撃するなんて、よほどの自信があるのか、それともただ馬鹿なのか……。

 そんなことを考えていると、ふと、王太子の言葉が蘇った。


 ――予測、できてたからな。……イアン、衛兵を三人(・・)呼べ


 予測できていたのに、王太子はあえて襲撃を見逃したのだろうか? それに衛兵の数を指定するなんて、王太子らしくない。ちょうどその人数で良かったものの、もしその後も襲撃が続いていたのなら……。

 そのとき、医務室に着いた。イアンはここに来るまでの間、ユリアナと一言も話していなかったことに気づき、不信感を持たれたらたまらないと、そっと彼女の表情を窺った。

 ユリアナは真っ青な顔でぼうっと宙を見つめていた。



△▼△



 簡単な手当てを受けたあと、イアンとユリアナは衛兵に当時の状況を説明した。終わると衛兵に王宮の入り口で待つよう言われたため、一言二言会話をする。「きっともう犯人は捕まっていますよ」と安心させるように伝えると、ユリアナは「そうですね」と言って無理に笑顔を浮かべ、両親をあまり心配させたくないと帰って行った。


 それを見送ると、入れ違いのように父がやって来た。二人揃って無言でいると、しばらくしてシェーラが衛兵に連れられて来る。「シェーラ」と呼びかけようとしてイアンは口を噤んだ。彼女の顔は真っ青で、目は虚ろ。尋常でないのは明らかだった。


(そんなに、殿下のことが……)


 イアンはそっと目を伏せる。シェーラは王太子の婚約者だ。家族であるイアンでも父でもない誰かといたのなら、それは王太子だろう。それできっと、彼のケガのひどさを知ったに違いない。あれだけ血を流していたのだから……。

 イアンはそっと手を差し出した。


「シェーラ、帰ろう? 殿下はきっと大丈夫だから……」

「……はい」


 その声はどこか空虚なものだった。




 屋敷に帰ってからも、寝る直前になっても、イアンの頭の中はシェーラのことでいっぱいだった。ずっと上の空で、話しかけても生返事しかしない。何度も王太子は大丈夫だと告げても、シェーラは反応しなかった。

 そのことに胸が疼く。彼女がそれほどまでに深く王太子を想っているのだと思うと、胸が張り裂けそうだった。


 このままじゃダメだ。イアンはそう考え、立ち上がった。シェーラのところへ行こう。それで彼女を元気づければ、きっと諦めがつくだろうから……。

 そう思い、イアンはすぐ隣にある――といっても伯爵家は一部屋一部屋が広いため人七人分くらいの距離はある――シェーラの部屋に向かった。いつもよりも早い鼓動を宥め、コンコン、と控えめに扉を叩く。


「はい」


 中から声がして、イアンの心臓が一際強く脈打った。深呼吸をして、「私だけど」と告げる。すると、ゆっくりと扉が開いた。隙間からゆっくりとシェーラが顔を覗かせる。その顔色は未だ悪いけれど、馬車の中にいたときよりは幾分か良くなっていたので、ほっと胸をなでおろした。

 すると、ふんわりと清潔な香りが鼻腔をくすぐる。視線を下へ向けると、シェーラはネグリジェにカーディガンを羽織っただけの姿で、その皮膚が外気に晒されていて、思わずごくりと唾を飲みこんだ。……断じて、邪なことなど考えていない。そう、断じて。

 頭の中に浮かんだ雑念を押しこみ、イアンは言った。


「少し話したいことがあるんだけど――」

「それならお義兄様、どうぞお入りください。ちょうど私も、お話したいことがあったのです」


 そう言ってシェーラは扉を大きく開けた。不規則な心臓を必死に落ちつけ、イアンは「じゃあ、失礼するよ」と言って部屋の中に入った。

 すると、ふわりとシェーラは安心したように相好を崩し、部屋の奥へイアンを導いた。

 イアンの心臓が跳ね、血の巡りが早く、激しくなる。頭がぼうっとして、彼女の揺れる黒髪を、ネグリジェから伸びる白い足を、無意識のうちに追ってしまった。


「お義兄様、あのですね、王太子殿下のことなんですけど――」


 シェーラはそう言いながら、くるりとイアンの方を振り返った。黒髪が揺れる。ぷっくりとした唇から紡がれたのは、王太子のこと。

 ゆらりと胸の内で黒い影が揺れる。その黒い影に突き動かされるようにして、シェーラの頭部に手をやり――。


「え、おにいさっ……!」


 ゆっくりと、シェーラの唇に自らのを重ねた。柔らかな感触に、熱。痺れるような甘い感覚が背筋に走り、このままきめ細やかな肌を暴いてしまいたかった。

 だけどそれを意志の力で押しこめ、そっと唇を離す。髪を軽く掴んでいた右手も離し、一歩二歩後退した。


「お義兄様……?」


 シェーラの呆然としたような声が、胸に痛かった。イアンは口元を左手で覆ったまま「ごめん」とだけ言い残し、足早に部屋を出る。

 自室へ着くと、すぐさまベッドに倒れこみ、自己嫌悪に陥った。


(何やってるんだ……)


 こんなこと、するはずじゃなかった。だけど欲望に抗えなくて……。

 はぁ、と重たいため息をつく。明日、シェーラに会わせる顔がなかった。

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