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二章(5)

 胸元を握りしめて、人にぶつからないようにして、シェーラはホールの外へ向かった。廊下でも何人かがひそひそと話しあっていて、崩れ落ちそうになる足を無理に動かしてその場から離れる。どこへ、とは決めてなかった。人のいない、どこかへ行きたかった。ただそれだけ。

 ゆっくり進んでいると、徐々に人影が減っていく。やがて誰もいなくなった頃、シェーラはその場でしゃがみこんだ。


 そこは庭園だった。バラや百合、多くの花々が咲く見事な夜の庭園。

 シェーラは足をかき抱いて、頭を両膝の間にうずめ、小さく丸まる。胸が痛い。痛くて、辛くて、苦しくて……。

 現実から逃げるようにぎゅっと目をつむった。だけど逃げることはできなくて。瞼の裏に先ほど見たイアンとユリアナの様子が鮮明に浮かぶ。触れあう唇と唇。見たくなくてより小さく縮こまったけれど、より克明になるだけで、映像が脳裏から離れることはなかった。


 やがて観念して、のろのろと顔を上げる。じんわりと視界が滲んだ。


(情けない――)


 シェーラはぼうっと宙を見つめながら、そう思う。本当に、情けない。

 王太子と婚約を結ぶことがどういうことなのか実感していたのに、イアンと結ばれないことが分かっていたのに、あの光景に耐えることができなかった。逃げ出してしまった。それが心底情けない。

 うう、とシェーラはうめく。


(これから、どうしよう……)


 今後もこのような場面に遭遇してしまう可能性は十分にある。それに、イアンとユリアナは結婚するのだ。子供が生まれるのはほぼ確実なことで――。


 きっと、耐えられない。


 そう悟って、シェーラが呆然としていると、冷たい声が降ってきた。


「ねぇ」


 鬱々とした瞳をシェーラがそちらへ向けると、そちらではラヴィニアが仁王立ちして、シェーラを見下ろしていた。その瞳には侮蔑、嫌悪などの感情が見え隠れしている。声と同様、冷たい瞳だった。

 シェーラが慌てて立ち上がり、「どうかしましたか?」と尋ねようとしたところで。


「なんで、あんたなんかがあの方の婚約者に選ばれたの……?」


 あの方とはきっと王太子のことだろう。シェーラは深く考えることなく、正直に「知りません」と言おうとして――。


「見てなさい。絶対にあたしがあの方の婚約者になってやるんだから」


 そう言うだけ言って、ラヴィニアはくるりと踵をかえした。ふんわりと揺れるドレスの裾を上手く捌き、凛とした背中でその場を去る。そしてその姿が視界から消える間際、憎悪のこもった視線をシェーラに向け、消えた。

 シェーラは鳥肌の立つ二の腕を生地の上からさする。あれほど憎まれているのが、恐ろしかった。そして……悲しかった。

 誰かに疎まれたりするのは嫌だ。誰にでも好かれる自分でありたい。


(まぁ、そんなの無理でしょうけど……)


 そっと心の中で呟き、自嘲した。何だかもう、全てを放り投げてしまいたい。そう思ったときだった。

 パリン、という何かの割れる音が微かに耳に届いたかと思うと、次に甲高い悲鳴が聞こえた。悲鳴は次第に重なり、不協和音を奏でる。混乱の気配が漂ってきた。

 ――何かが起こった。

 しかも、この方向はホールだ。

 シェーラは何かに急かされるように、悲鳴を頼りにして、ふらふらとホールへと向かった。


 ホールの近くへ行くと、名前を呼ばれる。そちらを見れば、三人の衛兵がこちらに駆け寄ってくるところだった。シェーラの傍に着くと、リーダーらしき人物がほっとしたように胸をなでおろす。


「ご無事でなによりです。ホールにおられなかったので、もしや攫われたのでは、と……」

「あの……何があったのですか?」


 すると衛兵がきょとん、とした顔を浮かべる。「ご存知なかったので?」と意外そうに尋ねてきた。

「はい」とシェーラは下を向きながら言う。「少し、外に出てたので……」

 すると、衛兵はなるほど、とでも言うように頷いた。


「今度からは出る際は近くの衛兵へ申し付けください。誰かをつけますので。それでですね、実は……」


 そう言いかけたところで、衛兵ははた、と口を噤む。しばし考えた後、「失礼します」と言ってシェーラの耳元に口を寄せた。あまり聞かれたくないのだろう、とシェーラがぼうっと思っていると、驚きの事実が告げられる。


「王太子殿下が襲撃されました」


 え、と思わず声が漏れる。あまりにも突飛で、ありえないことだった。人の多い舞踏会での襲撃など、失敗する確率が高いのは自明の理であろうに……。

 だけど、衛兵の話はまだ終わらない。


「殿下はお倒れになり、その後襲撃犯はちょうどそのとき殿下と踊っていらしたイシュタール子爵令嬢を殿下の婚約者と勘違いしたのか、襲いまして……彼女をかばったアルハイム伯爵令息も軽傷を負いました」


 頭の中が真っ白になった。どうして、とは分からないけれど、多分、その状況全てが衝撃的すぎて。

 どくどくと心臓が体の内側で鳴り響く。キーン、と耳鳴りが聞こえた。

 青ざめ僅かによろけるシェーラを支えると、衛兵は歩き出した。シェーラはよろよろと彼について行く。きっと、怪我をした三人がいるところだろう、とシェーラは思った。


 だけどそうではなくて。

 案内された部屋にいたのはベッドに座っている王太子だけだった。上半身は裸になっており、腹部に包帯が巻かれている。じんわりと包帯に浮かんでいる赤は血だろうか? だけど王太子は全く気にする様子なく、冷静に書類を眺めている。

 そう考えている間に扉が締められた。部屋の隅に護衛が控えていることを確認して、シェーラは王太子の傍に近寄る。


「殿下……お怪我のほどは?」


 シェーラが声をかけると、王太子は視線を上げた。いつも通りの無表情だが、少しばかり顔色が悪い。刺されたであろう腹部には血管が多く集まっていると聞いたことがあるから、おそらく血が足りないのだろう。

 王太子はシェーラの質問に「大丈夫だ」とだけ言うと、また書類に視線を落とした。気まずい沈黙がおりる。


 話しかけるべきか、このままじっと息を殺しているべきか迷っていると、ふと扉の向こうが騒がしくなった。甲高い女性の声と、これまた高めの……子供の声?

 シェーラが首を傾げたそのとき、扉が勢いよく開かれた。シェーラは慌てて視線を扉の方へやる。


 そこにいたのは着飾った女性と、シェーラよりも幾分か幼い黒髪の少年だった。少年が女性を「姉上!」と呼んでいることから姉弟であることが窺える。

 少年の静止を振り切り、女性はカツカツと中に踏み入った。女性の栗色の髪がふんわりと揺れる。そして女性はシェーラに一瞥をくれることなく、――王太子に抱きついた。


「殿下、ご無事で……っ」


 王太子は書類を手にしたまま、彼女の抱擁を受け入れた。さらには肩を震わせて王太子の胸で静かに泣く彼女を見て、申し訳なさそうに顔を歪めながら、それでも喜びと愛しさをその瞳に宿し、口元を緩めて彼女の頭を撫でた。それはまさに――愛する恋人同士の光景。

 その光景を、シェーラは呆然と見つめていた。……どういうこと? この二人の関係は? 私はいったい何のために……。


 「あーあ」という声が聞こえた。落胆したような、不機嫌そうな声だった。そして誰かに手首を掴まれる。そのまま部屋の外へずるずると連れて行かれようとも、掴んだ相手が誰なのか確認することなく、シェーラはただただ、恋人たちの抱擁を見つめていた。

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