二章(3)
王宮の中に入ったところで義父やイアン、ユリアナと別れ、シェーラは人気のない王宮の廊下を、騎士に先導されて進んでいた。王太子と共に最後に入場することになっているため、それまで休憩する待合室へ向かっているのだ。
待合室に入ると、そこには既に王太子がいた。以前会ったときと同じように金色の髪を括っており、そして以前よりも煌びやかな衣装を纏い、手に持った書類に目を落としていた。こんなところでも執務をしなければならないほど忙しいのだろう。
ほぅ、と思わずシェーラが見惚れていると、王太子が視線を上げた。眉間に皺が寄っており、眼光は鋭い。何となく不機嫌そう。
シェーラはすっと腰を折った。
「お久しぶりです、王太子殿下」
「……ああ、そうだな」
沈黙が降りる。王太子は再度書類に視線をやった。
このまま入り口にいるわけにはいかないので、シェーラは王太子と同じソファーに、少し距離をあけて座る。
……時折するぺらり、という音だけが部屋を支配した。居心地が悪くて仕方がない。話しかけようと口を開くも、王太子の執務の邪魔をしたらいけないような気がして、結局閉口した。
(どうしよう……)
戸惑いばかりが大きくなる。何もできないのだが、それでも何かしないと落ち着かない。
「――シェーラ嬢」
「は、はい」
名を呼ばれて、シェーラは慌てて王太子の方を見た。王太子は気難しそうな顔で何やら考えこんでいる。首を傾げた。……どうしたのだろう?
王太子は口を開け閉めしていて、何やら話したいことがあるものの、話すことを躊躇っているようだった。……やがて、ふぅ、と諦めたように息をついてシェーラを見る。何もかもを見透かされてしまいそうな瞳で、心臓がどきりと跳ねた。
「単刀直入に訊く。あなたは何が目的だ?」
「もく、てき……ですか?」
「ああ、目的だ。何故、ユリアナ嬢と親しくしている。彼女の家はあなたと敵対するこちら側の陣営だが?」
ぱちぱち、と目を瞬かせた。しばらくの間言葉の意味を理解できなくて、呆然とする。
……やがて王太子の質問の意味が分かると、顔を青ざめながら恐る恐る確認した。
「あの……すみません、殿下。私、陣営とかよく分からなくて……イシュタール子爵家と我が家は敵対しているのですか?」
今度は王太子が首を傾げることになる番だった。
「知らなかったのか?」
「は、はい。私は十歳の頃に伯爵家に引き取られたので……」
シェーラがそう言うと、王太子は黙りこんだ。何かを思案するかのように、顎に指をあてる。
……少しして手を下ろし、目を閉じると、「時間は……まだあるか」と小さく呟いてシェーラを見た。
「確か、あなたは貴族といえど、元はかなりの遠縁だったな。だから知らなかったのだろう。あなたが伯爵家に引き取られた頃には伯爵夫人も亡くなっていたようだし……。とりあえず、政治の方針などでいくつかの派閥があることは分かるか?」
「はい」
それくらいは、なんとなく分かった。人はそれぞれ違うのだから、何を最優先に国を運営したいのかは人によって変わるだろう。ぼんやりとだが想像がつく。
しかし。シェーラは首を傾げて、王太子に尋ねた。
「あの……ですが、国王陛下の命令は絶対ですから、そもそも派閥など生まれないのではないのでしょうか?」
「なるほど、あなたは国の政治が絶対王政だと思っているのだな。だが、そうではない。国王が最終的な決定権を持っているが、その前に官僚たちと話し合わなければならない。官僚たちの意見も取り入れないと謀反をされるから、国王は好き勝手にできないんだ。だから派閥が生まれる。分かるか?」
シェーラはこくりと頷く。
「はい。国王陛下は官僚方の意見を取り入れるから、官僚方はなんとか自らの意見を取り入れてもらおうと派閥を作る。ということですね?」
「ああ、そうだ」
王太子は表情を一切変えずに頷く。納得すると同時に、シェーラは途端に恥ずかしくなった。こんな、普通の貴族令嬢なら知っていることも知らず、得意げにユリアナに色々教えていたなんて……。頬が熱く、思わず俯いた。
貴族の遠縁といえど、伯爵家に来る前はほとんど平民に近い生活をしていた。むしろ母は平民らしい生活にこだわっていたらしく、貴族社会のあれこれなど教えてくれなかった。伯爵家に引き取られてからの数年であれこれ学んだつもりでいたが、やはり漏れがあったよう。
シェーラが羞恥心に震えていると、「それで、」と王太子が言った。
「ここからが本題だが、今のところこの国には大きな陣営が二つある。それが宰相派と、俺の率いる王太子派。宰相は伝統を重んじているが、俺はその伝統をいくつか壊そうと考えている。俺は今後、よほどのことがない限り間違いなく国王になる。だから宰相は何とか俺の意見を変えようと色々画策中だ。そこまでは分かるな?」
「はい」
シェーラは頷く。すると王太子はほっとしたように続きを話し出した。
「それで、あなたのアルハイム伯爵家は宰相陣営、あなたの友人のユリアナ嬢のいるイシュタール子爵家は王太子陣営なんだ。だから俺はあなたが何か目的あってユリアナ嬢に近づいたと思ったのだが……」
「そ、そんなことありません!」
「ああ、分かってる。きっとユリアナ嬢も貴族になったばかりで知らないから、こうなったのだろう」
その言葉に、ふぅ、と息をついた。良かった。私もユリアナも、変な疑いをかけられて捕えられる心配はなさそう。
それにしても。シェーラはむっとした表情を浮かべる。お義父様もお義兄様も、そういうことは教えてくれればいいのに。せめて家庭教師に教えるよう頼むとかくらいはしてほしいわ。
シェーラがそう心の中で不満を呟いていると、コンコン、と扉が叩かれた。「入場のお時間です」と扉越しに声が伝わる。
「分かった。……シェーラ嬢、これらのことはまた家庭教師をつけて教えさせよう。とりあえず今日は、誰彼構わずにこにこと笑っておけ。途中から一人きりになるだろうが、とにかく何も明言せず、笑っておけばなんとかなる」
「……はい、分かりました」
神妙に、シェーラは頷いた。王太子殿下のお手を煩わせてしまった、ということで少し気分が落ちこんだけれど、舞踏会での振る舞いを教えていただけて、正直助かった。お義父様は「おまえは王太子妃なのだから大丈夫だ!」としか言わなかったし、お義兄様には……あんまり訊きたくなかったから。
王太子がソファーから立ち上がり、シェーラに向けて手を差し出す。胸の苦しさを精一杯表情に出さないようにして、シェーラは王太子の手に自らの左手を重ねた。立ち上がり、エスコートされながら扉へ向かう。
きっと大丈夫。形容しがたい不安を宥めながら、シェーラは開かれる扉をじっと見つめた。