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プロローグ(1)

 初めて出会ったとき、天使が舞い降りたのかと思った。それほどまでに、彼は美しかったのだ。

 陽光を受けてキラキラと輝く白銀の髪に、夜の海を思い起こさせる深い青の瞳、そして透き通っているかのような白い肌。優しげな目元はまさに〝兄〟で……。


「君がシェーラ?」


 柔らかく、甘やかな声がシェーラの耳朶を打つ。どき、と心臓が跳ねて、激しい熱が顔に集まり、「はぅ」とよく分からない声が出てしまった。恥ずかしくて、シェーラは思わずうつむく。初めての感覚でよく分からないけれど、……何故か心地よかった。

 そんなシェーラを訝しんでか、彼が声をかける。


「どうかしたの?」

「い、いえ! わた、わたしが……シェーラ、です」


 心配げな声に、シェーラは慌てて先ほどの質問に答えた。だけど、名前を告げるだけでもひどく勇気が必要で。緊張のためか、喉がカラカラだ。


 そんな彼女を見て、彼はクスッと笑みを零す。何か粗相をしてしまっただろうか? と途端に不安になって、目の奥が熱くなる。ダメ。こんなところで泣いてしまったらきっと迷惑よ。そう思ってこらえようとしたけれど、無理で、何故だかポロポロと涙が零れ始めた。とめどなく溢れる。しゃっくりが喉の奥から漏れた。


「え、ちょ、大丈夫?」


 慌てたような声が耳に届くけれども、涙が止まる気配はなくて。オロオロと困惑した気配が伝わってきて、余計に申し訳なくなり、さらに涙が溢れてしまう。

 ……しばらくして、シェーラが涙を止めようとしていると、そっと抱きしめられた。ポンポンと背中を叩かれ、耳元で優しく囁かれる。


「大丈夫、大丈夫だよ。今日から僕が君の〝兄〟だ。どんなものからでも、君を守ってあげる」


 全身が温かな熱で包まれて、そんな甘やかな言葉を告げられて、シェーラの胸から様々な感情がこみ上げてきた。嬉しいような、切ないような、複雑に絡み合った感情。せっかく少し落ち着いてきたのに、また涙が溢れてきた。彼のシャツにシミが広がる。

 シェーラが再度肩を震わせ始めたのを感じてか、彼が耳元で囁いた。


「これじゃあ満足できなかった? 僕のお姫様は我儘だなぁ」


 ――違う。ただ、母様を思い出してしまっただけ。母様も、よくこうしてくれたから。

 そう告げようとしたけれど、泣いているせいか、上手く言葉が出てこなくて。せめても、として首を横に振ったのだが、どうやら彼は気づいていない様子。うーん、と唸った後、彼はシェーラの左手を取って跪いた。滲んだ視界。見上げてくる彼の顔がぼやける。


 彼が微笑んだ。美しい笑顔だった。薄く、形の整った唇が動く。


「僕、イアン・アルハイムは、生涯、シェーラ・アルハイムを守ると誓います」


 そして、彼はシェーラの左手の甲に口づけを落とした。

 ――当時のシェーラは知らなかったが、それは(いにしえ)の時代に騎士が姫に捧げたという宣誓の言葉を模したものだった。ただ知らなくても、その誓いが特別なものだとは分かって、それ以上に彼が自身の手の甲に口づけをしたというのが恥ずかしくて、うう、とシェーラは呻く。恥ずかしくてたまらない。ドキドキと早鐘のように鳴り響く鼓動は、彼に聞こえてしまわないか心配なほどで。


 そんなシェーラを見て、彼は「良かった」と微笑む。


「君に泣き顔なんて似合わないよ。ほら、笑って」

「……はい、お義兄(にい)様」


 シェーラは彼に喜んで欲しくて、精一杯の笑みを浮かべた。すると彼も笑みを深め、シェーラの胸がきゅ、と締めつけられる。少し痛くて切ないけれど……幸せだった。




 それが二人の出会い。このできごとはシェーラの中でずっと色褪せることなくキラキラと輝いていて、よく胸の内にある宝箱から取り出して眺めていた。

 それくらい、シェーラにとって人生の転換点とも言えるような出会いだったのだ。



△▼△



「シェーラ、シェーラ!」


 興奮した義父の声に、シェーラは刺繍をしていた手を止め、部屋の外に飛び出した。はやる気持ちを抑え、はしたないと思われない速さで進む。長く、つややかな黒髪が大きく揺れた。義父の声がこれほどまでに嬉しそうだということは、もしかして……。そう思うと、思わず笑みが零れる。だって、やっとあの願いが叶うかもしれないんだもの。仕方ないじゃない。


 ふんふん、と鼻を鳴らしながら階段を降りていく。エントランスには帰宅したばかりの義父と義兄のイアンがいて、何やら話しているよう。

 彼を見た瞬間、とくん、とシェーラの胸が高鳴る。――ああ、今日も美しいお義兄様。あなた様の幸せが、私の幸せです。


 そう思いながらうっとりと、だけどどこか寂しげにイアンを見つめていると、彼が視線に気がついたらしい。シェーラの姿を目に留め、こちらに向けて優しく微笑んだ。


「シェーラ、どうかしたの?」


 胸がどきりとして、思わずうつむいてしまいたくなる。だけどそんなことしてはダメ。だって彼はお義兄様ですもの。そんな感情、抱いてはいけないわ。そう自らに言い聞かせ、シェーラは淡い気持ちを箱にしまうと、ゆっくりと、慎重に作り笑いを浮かべた。繊細な注意を払いながら、声を発する。


「……いいえ、何でもありませんわ、お義兄様」


 するとどうしてかか、イアンは少しだけ顔を歪めた。苦しそうな、寂しそうな表情。けれどすぐに元の笑顔に戻してこちらに背を向け、彼の父に向き直った。

 そのことに、シェーラの胸は僅かに痛むけれども、それを無視して、義父と義兄の元へ歩き出した。

 イアンの、どこか作り物めいた声が届く。


「ということで、私にも話の内容を教えてください、父上。次期当主たるもの、家のことはきちんと知っておくべきでしょう?」


 すると、義父は腕を組み、唸り声をあげた。どうやら何か問題があるらしい。イアンの隣につき、何がダメなのかしら? とシェーラは首を傾げた。だったら、義父の話とはもしかして〝あのこと〟ではないのかもしれない。少しの不安と、大きな歓喜が心から溢れてきそうになって、シェーラは蓋を閉じる。まだそうと決まったわけではないもの。お義父さまの話を待ちましょう。

 そう、心を落ちつければ、義父がつぶやくように言った。


「うーむ……まぁ、いずれは知られることだろうし、良いか」


 どうやら心は決まったようで、義父は鷹揚に頷くと二人にずい、と顔を近づける。神妙な面持ちで、声を潜めて言った。


「実はだな……」


 ピン、と張り詰めたような緊張感がエントランスに走った。いつの間にか使用人たちは三人の雰囲気を読んだのか動きを止めていて、ゴクリ、と誰かが唾を飲む音でさえ聞こえそうなほどの重たい静寂が辺りを支配した。

 シェーラはきゅ、とドレスの裾を握る。瞳と同じ緑色の布が、さら、と不安げに揺れた。


 ――早く聞きたい、知りたい。だけど、知りたくない、落胆したくない。……聞きたくない。期待と、落胆に対する不安、これまでの日常が崩れる恐怖感から鼓動が大きく、早くなる。

 そのとき。バッと勢いよく義父が腕を広げて、大声で言った。


「シェーラと王太子殿下の婚約が決まったぞ!」


 その言葉に、シェーラは歓声をあげた。ああ、とうとうこのときが来てしまった、という気持ちは表情に浮かべず、嬉しそうに装って、パンッ、と手を合わせる。


「やりましたわね、お義父さま!」

「おう、やったぞシェーラ! これで我が家は安泰だ!」


 義父と手を取り合って喜ぶ。ちらっと周りを見れば、使用人たちも皆一様に顔を綻ばせ、静かに喜んでいた。執事が何やら近くにいたメイドに囁いていて、そのメイドはそれを聞くとそそくさとどこかへ去っていった。たぶん、お祝いの料理でも用意するのだろう。


 ズキリと胸が痛んだ。こんなに、みんなが喜んでくれている。本当に、本当に喜ばしいことだ。なのに素直に喜べない自分がいて、申し訳なくなる。

 そのとき、どこか不機嫌そうな声が聞こえた。


「父上。ですが、我が家は伯爵家ですよ? 伯爵家が王太子殿下の婚約者など……」


 イアンだった。彼の方を振り返れば、渋面を浮かべていて、どうやらこの婚約を喜んでいないようだった。

 義父が言う。


「何かおかしいか? 伯爵家なら何とか王太子妃、果ては王妃になってもおかしくない身分だぞ! きっと、我らアルハイム家の今までの働きぶりが王に認められたのだ!」


 わはははは、と笑う義父。その声に、シェーラも笑みを深めた。もちろん、作り笑い。


「そうですよ、お義兄様。何も心配することはありませんわ!」


 そう、彼は何も心配しなくていいのだ。だって、シェーラが王太子の婚約者になったところで、彼に一切不利益はないのだから。……またもや胸が痛みを発した。悲鳴をあげた。

 イアンはシワを深くする。


「だけど、シェーラ、僕はもう殿下と親しいから、婚約を結ぶ必要は……」

「ですが、より盤石にしておいても損はないでしょう?」


 キリキリと痛む胸を無視してそう言えば、イアンは難しい顔を浮かべて押し黙った。そのことに、少しだけ疑問を抱く。王太子との繋がりをより強固にしておけば、彼はきっと今後の政界で莫大な権力を握ることができるはずだ。なのに、どうして、それほどまでに食い下がるのだろう。もしかして……。


 思い浮かんだ予想を、シェーラはすぐさま心の底に追いやり、考えないようにした。そんなことないはずよ。お義兄様が私の結婚を阻みたいだなんて、ありえないわ。期待をするだけ無駄よ。

 そう自らに言い聞かせていると、イアンの声が耳朶を打った。


「……部屋に戻ります」


 そう言って、イアンはくるりと踵を返した。喜ぶ使用人たちの間を、ゆっくりと、一人で進んでいく。

 憂鬱で、多くの感情を押さえこんだような、聞いている方が苦しくなる声だった。その背中もどこか寂しげ。シェーラは胸を押さえた。……痛い。喜んで、いただけると思ったのに。

 いつもいつも、そうだ。自らの悲しみを、痛みを抑えこんで義兄のためにやったことは、すべて裏目に出る。喜ばせようとしたのに、結局手を煩わせてしまうだけ。今回こそは、と思っていたのだが、どうやら今回も駄目だったらしい。


「お義兄様……」


 ぽつり、と漏れた言葉は、義父の笑い声に消されて届くことはなかった。



△▼△



 数日後。少し出かける、と告げて、シェーラは屋敷を出た。護衛はついてきているだろうが、貴族とはそういうものだから気にしない。おそらく距離をあけているだろうから、何かつぶやいても聞こえないだろう。

 歩きながら上を向く。青い空に、白い雲がぷかぷかと浮いていた。のどかな光景。自身の内心とは正反対の空模様にため息をつきたくなったけれど、それをこらえて、胸の痛みを無視して、歩き続ける。


 ……しばらくすると、公園が見えてきた。貴族の令息や令嬢がデートなどで訪れる場所で、辺りに花々が咲いており、見るものを和ませる。ぽつぽつとベンチがあり、貴族夫人だろうか、三十代ほどの女性が三人並んで座って、何やら話をしていた。その近くにはデートだと思われる令息と令嬢が何組か、微妙な距離を保って花を見ていた。


 そんな様子を見ながら、シェーラは中に入ってベンチに座ると、ふぅ、とため息をついた。義兄とは正反対の黒い髪が目に入り、思わず考えてしまう。

 ――もし、本当の兄妹だったら。もし、血の繋がりがあったのなら。私はお義兄様を好きになることはなかったのかしら? 愛することはなかったのかしら?


(考えても、意味のないことよ)


 ぽつり、と心の中で呟く。――私とお義兄様には血の繋がりなどなくて。本当の兄妹でもなくて。それが唯一絶対の真実。それ以外の事実はありえない。存在しない。

 はぁ、と、ため息が漏れた。こんな想いを抱えて、王太子殿下の婚約者となる。それが、とても罪深いことのように思えてきて……いや、事実罪深いことだ。彼に対する裏切りだ。それでも、そうだと分かっていても、この想いを捨てることなどできやしなかった。


 シェーラとイアンは本来、遠い遠い親戚だ。だから結婚をしようと思えば、できる。

 だけど、それはあまり喜ばれることではなかった。貴族の結婚はそのほとんどが政略結婚。家の力を強めるために、家同士の結びつきを強くするために、結婚をする。

 シェーラもそのためにこの家に引き取られた。母を亡くし天涯孤独の身となったシェーラを、遠縁だからという理由とも言えない理由で引き取り、莫大なお金をかけて教育を施して、豪華なドレスや食事を与えてくれたのは義父だ。その恩返しとして、政略結婚をしなければならない。

 けれど。


(……やっぱり、嫌だわ。お義兄様以外と結ばれるなんて、そんなこと、したくない)


 そんな思いを、シェーラは首を振って振り払う。だめよ、シェーラ。王太子殿下と結ばれるのは、あなたが望んだことよ。そんなこと思ってはいけない。

 だけど……。そんな思いがシェーラの中で顔をもたげる。私は、お義兄様と――。

 そんなことを考えて、シェーラはパチ、と頬を叩いた。――お義兄様のためよ。お義兄様が、いずれ権力を手にして、幸せな生活を送るため。頑張りなさい、シェーラ。


「……よし」


 もう、大丈夫。きっと大丈夫。頑張れる。そう思って、シェーラはベンチから立ち上がった。さら、と橙色のドレスが揺れる。もう、戻らないと。

 明後日、王太子との初めての顔合わせがある。本当は今頃その準備に追われているはずだったが、ちょっと感傷的な気分になってしまって屋敷を出てきたのだ。使用人も、義父も、皆シェーラの婚約を祝っているから、こんな姿を見せるわけにはいかなかった。見せたら、訝しがられる。もしかしたらシェーラの想いが暴かれてしまうかもしれない。こんな、貴族としては抱いてはいけない、恋心を。

 ……少し、気持ちが落ちこんだ。だけどなんとか自らの心を奮い立たせ、一歩踏み出そうとした、そのとき。


「あなたがシェーラ・アルハイム?」


 鼓膜を震わす、聞き慣れない声。風上から漂う甘い香り。シェーラはそちらを向いた。

 そこにはとても可愛らしい顔立ちをした少女がいた。二つに結ったピンクゴールドの髪に、青い瞳。――イアンと同じ色。

 どきり、とシェーラの胸が跳ねた。色合いは僅かに違うけれども、まるでイアンに見つめられているかのような錯覚に陥るほど、その瞳は彼のものに酷似していた。


 少女はじっとシェーラを見つめる。シェーラのものよりも幾分かランクが低い、赤のドレスが風に揺れた。

 そんなどこか頼りなさげな赤色を見て、シェーラは首をひねった。口を開く。


「はい、そうですけど……どちらさまでしょうか?」


 シェーラが見慣れない少女に尋ねると、少女は結った髪を風になびかせ、口を開いた。


「ふん。とぼけても無駄よ。どうせあなたも『転生者』なんでしょ、シェーラ・アルハイム――いえ、『悪役令嬢』!」

「…………はい?」


 間抜けな声が、公園に落ちた。

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