表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/11

新山陽実の場合 2


 陽実にとって学校で過ごす時間は苦痛以外の何物でもなかった。


 思い出した異世界の頃の記憶では専属の家庭教師が何人も居て、少しでも気に食わないと思えばいつでもクビにしてやれた。陽実より遥かに歳上の大人の生殺与奪権を自分が握っているというのは例えようがないほどの優越感があって、無茶を言ってはその権利をひけらかして大人を黙らせてきた。「パパに言い付けてやるんだから」と、そう言えば何でも思い通りになったから。


 なのにここはどうだ、右を見ても左を見ても気に食わない奴しか居ない。子供も大人もみんな関係ない。それなのに、いちばんえらいはずの陽実の言葉を誰もまともに聞こうともしない。


 とりわけ苦痛だったのが体育の時間で、綺麗に整列しなければ怒られる。じっと体育座りをして話を聞かなければ怒られる。こんなのは騎士団でも下っ端の兵士がすることで、自分はむしろ隊列を乱す間抜けを見付けて叱責する側だと陽実は理不尽しか感じていなかった。


 それに陽実は運動が得意ではなかった。いや、運動もと言うべきか。王の娘として生まれた陽実にとって、優先すべきは王族たる振る舞いの教育だ。商人の家に生まれたわけでもなく(現世ではただの喫茶店の娘だが)、将来歴史家になるわけでもなく、もちろん兵士や冒険者になるわけでもない。算数、歴史、様々な運動、それら全てが嫌で嫌で仕方ない。


 なのに、あろうことか一般常識としてこれらを叩き込まれる今の環境に陽実は辟易していた。


 わたしはお前らとは違うのに、なんで庶民と足並みを揃えて同じことをやらされるんだ。わたしの勉強ができないのも、速く走れないのも、それは必要がないからなのに、なんでお前らは同じように嫌な目でわたしのことを見てくるんだ。

 鬼ごっこで誰にも追い付けなくたって、隠れんぼですぐに見付かったって、わたしのことをそんな目で見ていい理由になるもんか。


 ただ一人、高嗣だけが陽実にそんな態度を取らなかったけれど、けれどその目も陽実を見ているとは思えなかった。何とも言いようがないけど、陽実の向こうに陽実ではない誰かを見ているような、時おり苦しそうにしている目。


 あんたはわたしの特別な子分で居させてやってるのに、あんたまでわたしのことを見ないのか。


 だったらわたしはどうしたらいい。

 どうしたら、誰に見付けてもらえるんだ。

 わたしは一体誰に見付けてほしいんだ。


 いつからだったかは陽実にもわからない。けれど、自分が特別にえらいんだという自信を陽実は少しずつ失っていた。


 そして季節は夏になる。陽実が島にやって来て二度目の夏だ。


 この夏を、陽実はきっと一生忘れない。




 体育の授業が水泳に切り替わる前の、最後の科目はバレーボールだった。小さい島では児童の数も少なく、男女一緒に同じ競技に取り組む。蒸し暑い体育館の中で、準備体操が終わるとまずは二人組になってトスの練習からだ。


 わかっていたことだが、陽実と組みたがる相手なんて居ない。「わたしと組めるなんて光栄ね」と、いつものように高飛車な態度で高嗣とペアを組む。それを見て小学生らしい冷やかしが飛び交うこともなく、「ドンマイ笹田ー!」「笹田くんって気の毒よねー」と高嗣を哀れむ声だけが無責任に響く。


 それが当たり前の日常で、けれどその当たり前がどれだけ高嗣の心をえぐっていたかなんて彼らは思い至らない。陽実のために高嗣がどれほど心を砕こうとも、現実にそびえる壁の高さに高嗣は挫けそうになっていた。


 そうしながらも行程は進み、サーブの練習からいよいよミニゲームに移ろうかというとき、事件は起きた。


 その日、普段より口数の少なかった陽実が倒れた。


 ゴン、と鈍い音が体育館に響き、耳に痛いほどの静寂が全員に押し寄せる。


 後頭部から倒れたまま横たわり起きる気配もない陽実の下に、誰よりも早く高嗣が駆け寄る。陽実の元々白い肌は青みがかっているようにすら高嗣の目には映って、まるでそれが感染したかのように自分の体からも血の気が引く音を高嗣は聞いた。


「先生、保健室に運びます」


 教師の返事を待たず高嗣は陽実を担ぎ、遅れて走ってきた教師が反対側の肩を支える。そこにまた無責任な声が届く。


「自業自得なんじゃねーの、ほっとけよ笹田」

「笹田くんがそこまですることないでしょ、先生に任せときなよ」

「バチが当たったんだって」

「でもこれでちょっとは懲りたんじゃねぇの?」


 お前らみんな無責任だ、最低だ、恥知らずだと高嗣は叫びたかった。きっとどんなに叫んだって足りない、それでも言い返してやりたかった。


 しかしこれは間違いなく普段の陽実が招いた事態だ。今ここで陽実の肩を持とうが持たまいが、そうすればクラスメイトと陽実のどちらかとは確実に不和が生じる。


 それはつまり、陽実をクラスメイトと、島の住人と馴染ませるという高嗣の目的が果たせなくなることで。それだけはダメだ。今まで何のために俺は頑張ってきたんだと、高嗣は歯を食いしばることしかできなかった。高嗣の我慢という名の踏み台を積み重ねて、目的という壁を陽実に越えさせる。高嗣が声を荒げてしまえば陽実は壁を越えられずにぶつかって終わり。いっそのこと終わりにしてしまいたかったが、父の悲しむ顔を想像するとそれはできなかった。


 泣いているようにも見える肩の震えを、朦朧とした意識の中で陽実だけが気付いていた。



「軽度の脱水症状、からの軽い脳震盪ね。そのまま横になってれば直に目を覚ますはずよ」


 保健医の言葉に教師は胸を撫で下ろし、「俺が見てます」と言う高嗣に甘え、クラスのみんなに説明してくると一旦保健室を離れた。


 後でわかったことだがこの日、陽実は自分の水筒をクラスメイトに隠され、水分補給がままならない状況にあった。それならそれで高嗣か教師に頼むか、水道水でも飲めばよかったのだが、陽実のプライドがそれを許さなかったのだ。


 傍目には完全に寝ているように見える陽実の横で、丸椅子に座りただ黙って陽実を見ている高嗣。


 揺れるカーテンの向こうに保健医の影が透けている。体育館で倒れたときの緊張感にまみれた静寂とは違う沈黙が保健室に満ちていた。


「……俺、こいつのこと、嫌いでした。今だって嫌いです。もしかしたら、もっと嫌いになりました」


 沈黙を嫌って高嗣が口を開いた。それは保健医である自分に向けた言葉か、寝ている陽実に聞かせる言葉なのかを一瞬彼女は探ったが、思えば陽実が転校してきてからずっと高嗣は張り詰めていた。それを知っていた保健医は吐き出させた方が良いと判断し、「そう」と短く頷いて続きを促す。


 見知らぬ者の居ない土地で父と二人暮らし。そこに暴君と呼ばれるようなじゃじゃ馬の面倒を見ろと言われたら、この小さな男の子は壊れてしまうんじゃないか。保健医としてではなく、ただの大人としてそう感じてもいた。


 この、新山陽実という少女の気性の荒さと、余所者に厳しい土地柄の住人は致命的に相性が悪い。まして思春期真っ盛りの小学五年生だ、その架け橋になれと一方的に押し付けるのはあまりに高嗣にむごい。保健医はそっとカーテンを空けて高嗣の側に寄り添った。


「こいつには両親が居て、俺は二人とも何回も見てますけど、本当に仲が良さそうでした。もしかしたら大人だから、俺みたいな余所の子供の前ではそう見せてただけかもしれないですけど、でも、俺にはそう見えました」


 再び訪れた短い沈黙のあと、高嗣はまた独白を続けた。危ういバランスで築かれた積み木が崩れるように、一度言葉にすると止まらなかった。


「俺には父さんが居ればいいんです。あの女は、母は、元々嫌いだったので。でも、父さんには悪いけど、やっぱりたまに思うんです。こいつの両親と会ったあとだと余計に、仲の良い両親がいたら、もっと幸せだったのかなって」


「父さんには、そんなこと言えないけど、だから俺は、もっと頑張ろうって。学校のことも、こいつのことももっと頑張ってたら、いつかきっと、親が二人いる奴らより、幸せになれるかもって思って、そうなれるって信じて」


「でもこいつは、俺がどんなに頑張ったって、俺の気持ちなんか知らないで無茶ばっかりやって、嫌な態度もやめないで、周りのみんなもちっとも協力してくれなくて」


「今だってこいつは、いつもの態度が悪いから、倒れても全然、心配してくれる人なんか居なくて。俺だったらそんなの嫌なのに、絶対父さんが悲しむから嫌なのに、誰にも心配してもらえないとか、そんなの絶対嫌なのに、こいつは、自分だけじゃなくて、他の人まで悲しいのもわかろうともしないで!」


「最初は嫌々付き合ってたけど、でも、日が暮れる前に山で見た夕焼けはめちゃくちゃ綺麗だって思った。結局夜まで山から帰れなくて怒られたけど、二人で冒険してると、こいつが色んな、どこの世界の話だよっていうような話を聞きながら、星を見ながら喋ったり、そんなのは楽しかった。そのときこいつはちゃんと笑ってて、みんなの前でもそうしろよって言ったのに全然しなくて、思うようにいかなくて俺はムカついて、」


「ほんとに倒れて死んじゃったりしたら、こいつの親と、俺も、絶対悲しいのに、なんかもう全然ダメで、上手くいかなくて、」


「普通にしてたら幸せになれるのに、全然しようとしないの見てると、イライラして、周りのみんなも見ようとしてないからやっぱりイライラして、」


「先生、俺、どうしたらいいのかな。俺もう、もっと頑張ろうって思いたくなくなってきてて、でも頑張ってないと、父さんも心配するし、こいつもずっとこのままだし……」


 最後の方は涙が邪魔をしてほとんど言葉になっていなかった。背負わなくともよい責任を自ら背負おうとして挫折しかけ、思うように言葉にできない悔しさに潰れかけ、それでも声に出さないと自分を保てない。それは何と悲しい感情の吐露だろう。この気弱で真面目で早熟な少年は、それでも頑張れない自分を責めて、まだ足掻こうと保健医の彼女に方法を求めるのだ。


 保健医は高嗣を強く抱き締め、もう頑張らなくていいと囁いた。君のお父さんは君を責めたりはしないし、頑張ってなんて言わない。だってもう、十分に君は頑張って、自分が傷付いていたってまだ頑張ろうとしてる。君はよくやってる。これからは、君は君のことをいちばん大事にしなさい。そうすることを君のお父さんも願っているし、新山さんだって本当はちゃんとわかってるよ。今まではつい、優しくしてくれる男の子に甘えちゃってたけど、その男の子がこんなに頑張ってるのに、まだ頑張れなんて、そんなことは絶対思わないから。


 だから今は、気が済むまで泣きなさい。誰にも言わないから、大丈夫。



 その様子を陽実は見ていた。漏れ聞こえる涙の音で次第にハッキリとする意識を自覚しながら、たどたどしくも強い高嗣の気持ちを聞いた。


 島に来てからずっと、陽実のいちばん近くに居た男の子だ。


 他の誰とも違った男の子は、わたしのことをちゃんと見ていてくれた。誰も見付けてくれないと思っていたのはわたしだけで、最初からずっとわたしを見てくれていたんだ。


 山を冒険した日のことも、星を見ながら語った向こうの世界のお伽噺も、一緒に並んで見た夕焼けも覚えている。高嗣もしっかりと同じものを見て、陽実と同じく笑っていた。その上で陽実の笑顔を誉めたりもしていた。


 ちゃんと、新山陽実を認めていたのだ。


 それなのに今、高嗣は陽実のせいで泣いている。男を泣かせて一人前だなんて向こうの世界では習ったけど、そんなのは嘘だった。だってこんなにも胸が苦しい。


 自分が泣かせたってことが。

 自分の胸で泣いていないってことが。


 陽実は自覚した。自分がいちばん欲しかったものを高嗣がくれていたことに。それに気付かず傷付けていたばかりだったことに。


 だったらこれからは、わたしが返していく番だ。


 もう、前世の記憶なんて関係ない。

 陽実はこれから自分がすべきことを、何よりも自分がしたいことを自覚した。高嗣のために生きようとさえ思った。


 揺れるカーテンから差し込む西日は冒険したときよりもずっと優しく、それに釣られてか、まずは優しい人間になろうと陽実は誓う。普段なら鬱陶しい蝉の声も、この日だけはすっと胸に染み込むようだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ