新山陽実と、笹田高嗣の恋の話
そこは本当なら、訪れるのが二度目になるはずの空間。上下も左右も真っ白で、きっと何度来ようとも慣れることはないんだろうと思える浮遊感がお腹にくすぐったい。
陽実は十秒たっぷりと目を瞑って深く息を吐き、そしてまた目を開く。すると、遠近感の狂ったような、遠くにいるのか近くにいるのかまるでわからない存在が、飽きるほど白い空間に現れていた。
背中まで伸びた嫋やかな金髪は透き通っていて、穏やかな表情はおよそ人間には敵わない造形の美しさをしている。しかし左の目許にある泣きぼくろが違和感を覚えるほど人間臭く、一言で表すなら、
――陽実ととてもよく似ていた。
栗色の髪をしている陽実と、あくまで日本人としてスタイルが良い方としか言えない陽実と差異はあれど、纏う空気がどこか陽実と似ている存在。
「……たぶん、あんたと会うのも二度目なんでしょうね、女神様?」
「さすがに覚えてはいないか、人の子よ。久しぶりだね」
「悪いけど、旧交を温めるつもりはないの。さっさとあっちの世界にやってちょうだい?」
「まあ待て、少し話をしよう。これで私も忙しい身でね、時間のあるときに済ませておきたいんだ。何、悪い話ばかりでもないさ。きっとそなたにとって良いものも与えられる」
どこから声を出しているのか陽実には皆目見当も付かないが、超常の存在から何か貰えるというのなら貰ってやろう。只でさえ予想外の召喚に動揺しているのだ、なるべく手短に済ませたい。
そう考えて陽実は顎を動かし、女神に続きを促した。
「何をくれるって言うの」
「知識――と言うよりも情報だろうか。それと能力を。そしてその前に、謝罪を」
謝罪。ここに来て神に謝られることなど心当たりがない。訝しむ陽実の様子を見て、女神は形の整い過ぎている唇を動かした。
「人の子よ。そなたが以前にここを通った、その原因を教えよう。あれは思えば可哀想な出来事であった。何よりこうして今、そなたは更に可哀想に思える。人の子よ、そなたは私に似ているという疑いがあっただけで、贄に選ばれ、その魂を飛ばされた。なまじ優秀なのも悪かった、それが尚更疑いに拍車を掛けた。そなたを捧げれば全てが好転すると、その魂を飛ばした者たちは考えた」
「……待って、じゃあ何、あんたの言うことを信じるなら私は、」
「左様。決してそなたは、その身の安全のためにあの世界を追われたのではない。そなたの国の、身勝手な理由で贄に選ばれた……そもそも私に贄など必要ないと託を授けたのだがね。聞く耳など持たなかったよ、あの者らは」
理解が追い付かないことなんてあるんだと陽実は思った。高嗣に勉強を教えて貰い始めたとき、わからないことなんてたくさんあった。でも今、この言葉を理解しちゃダメだと、本能が警鐘を鳴らしている。
私は高嗣みたいな、互いに支え合う親子がいいなって思ったから。
あの世界の両親が、最後まで私のことを愛してくれていたから魔法の勉強をしてきたのに。
高嗣と離れ離れになるかもしれなくても踏み切ったのに。
だったら私は何のために、私は、私は――
「人の子よ。今そなたがここに居るのも、そなたを送った者らが再び喚んだからに違いない。なるほど、確かにそなたは送られた先で大切な人間と出会った。あちらでは怪我の功名と言うのかね? ならばそなたにとって、意味はあったのかもしれない。それがまたこうして、あの者らの勝手で引き裂かれている。これは、私も可哀想だと思うよ」
「……コウは? コウはどうなったの!? 無事に召喚されたの、それとも、」
「そなたの大切な人間を喚べるほど、力は足りていなかった。故にそなたはひとりで、世界を越える。そなたの拵えた陣は素晴らしい出来映えであったから、そのままの姿で向こうに行けるが、杜撰だったのはあの者らの貧弱さよ。そなたの大切な人間の居る世界に、そなたが生きていた痕跡はなくなってしまった。そなたとの記憶にしがみついて生きるのだろうと思うと、実に可哀想だ」
「そんな、そんな……!」
私が頑張れたのは全部コウのお陰だ。真っ直ぐにコウだけを見て、その隣に立つ資格が欲しかったから走ってこれた。なのにコウだけが取り残されて苦しい思いをするんなら、私はそんな努力なんてしなかった。
結果だけ見たら、私はまるで、全力でコウを裏切っていたようなもんじゃんか。
きっと高嗣は陽実を責めない、それはわかっていても陽実はあの世界を、自分自身を呪わずにいられなかった。
「これで私は神であるから、自分の見守る世界でそなたのような哀れな子が生まれたことに責任を感じている。すまなかったと思うし、これから先のこともすまないと思うよ。なればこそ、力を授けよう。同じ人であれば誰にも負けない、負けるはずのない力を。そなたにしてみれば、気休めにもならないだろうがね」
確かに言われてみれば、漲るような魔力を感じる。女神を視認していることも、向こうじゃ大賢者と呼ばれるようになったって出来るかどうか。
それでも陽実にとっては何の価値もない。高嗣が隣に居ないのならば、自分が凄くなるだけ皮肉というものだ。
「再びあの世界に戻り、何をするのかはそなたの自由だ。私の立場で言わせてもらえば、あまり物騒な方向には考えてほしくはないものだけどね。それも今更だろう?」
これで陽実が力に任せ、戻った世界で暴虐の限りを尽くせば、陽実の真ん中に居る高嗣が笑うのか。きっと死に別れたって消えたりしない、陽実の心の中に居る高嗣が喜ぶのか。そんなのは愚問だ。
高嗣と出会った、今では愛おしいあの小さな島に引っ越して来たばかりの頃。あのときよりも、よほど愚かになってしまったら。それはあの日の、保健室で泣いた小さな高嗣をえぐるようなものだ。
神の言うことを理解したくなくても、やってはいけないことだけはわかった。
ならば、陽実は何をするべきか。
もう隣から高嗣のぼやく声が聞こえない世界で何をしたらいいのか。
縋るような目で陽実は見る。目線の先に居るのがいちばん会いたい人ではないのが悔しいけれど、その繋がりを持つであろう存在を。
「……特別だよ。本来これは教えるべきではないのだけれど、幸いにしてそなたは持っているからね、教えよう。そなたの大切な人間に、力を貸してきた。これから、もしもそなたが折れることなく前を向き、為すべきことを為すのなら、いずれそれがそなたに報いるだろう。私に言えるのはこれだけだ」
何その抽象的なアドバイス、頼むからもっと詳細に、そう陽実が考えたところで周囲の光景が変わった。飾り気のない、ひたすら白いだけの空間が、荘厳で人工的な雰囲気の神殿に入れ替わる。
――ああ、そう言えばこんな場所だったっけ。
祭壇に寝ている体勢だった陽実が人の気配に上半身を起こすと、記憶よりもだいぶ歳を取った両親、王と王妃が文官を連れて立っていた。
「おお、帰ってきた! 待っておったぞ、ルーミよ!」
さほど多くないはずの人数が、地鳴りのような歓声を上げるのを聞いて。ルーミと呼ばれた陽実は内心、舌打ちをしていた。
私はこいつらに騙されて、コウを置いて来たのか。
今はまだ前を向く気になれない。誰かを探すように王たちを一瞥し、それから上を向く。
無駄に凝った造りの神殿は天井が低く、深呼吸をしても陽実は息苦しさしか感じられなかった。
改めて思う、これは酷いと。
王城に連れられた陽実は休むこともなくその足で執務室に向かい、宰相とその手足となっている文官を集めた。あれから二十年の時を経て隣国との戦争がどうなっているかを知るために。
それがどうだ、この国も隣国も互いに同盟国を募り、戦火は大陸中に拡がっている。そこに加えて魔族も絡み、もはや争いのない土地を探す方が難しい。
どうしようもないほどに戦況は泥沼化していて、思わず陽実は目眩を覚えた。
何をどうしたらこうなるのか。最悪の一手を迷わずに選び続けでもしない限り、ここまでの事態にはならないだろうに。
神殿から王城に来るまでの道も酷かった。貴族しか居ないはずの居住区を通って来たのに、道を空ける人たちの顔に精気はなく、放っておけば疫病が流行るのではと思うほどの悪臭が漂っていた。
もう終わってるじゃん、こんなの。
物語の中のヒーローならば、ここからいくらでも持ち直すのかもしれない。けれど陽実は違うと、少なくとも陽実自身はそう思っている。世界の特別になんてなりたくもない、ただ高嗣の特別になれればと、それしか望んでいなかった。
でも。
きっと高嗣がここに居たら。何ができなくとも、いや、たぶん何もできないからこそ、心を痛めて泣くんだろう。
ほんの一握りの私腹を肥やしている人たちなんて見もしないで、二つの目じゃ全然足りないぐらい、多くの苦しんでいる人たちのことを見ようとして泣くんだろう。
そんな風に考えると、次第に陽実の頭も回り出す。
まずは小さなことからだ。親だなんて認める気もない奴らのことは考えなくていい。明日を迎えることすら困難な人たちのために、一歩ずつ進まなきゃダメだ。ここは物語の中じゃないし、ヒーローになんかなる必要もない。ただ自分にやれることを探すことから始めよう。
異世界に戻った初日、まだはっきりと高嗣の顔を思い出せるこのとき。陽実は萎みそうな心に喝を入れて前を向くと決意した。
それから三年が経過した。
誰よりも奮闘したのは間違いなく陽実で、父親なぞ既に名ばかりの王に過ぎない。女神の恩恵は覿面であり、文官と武官、その両方のトップに陽実は君臨し、国の建て直しと隣国との戦争をまとめて片付けた。強引な手段に頼った数はもう覚えていない。それでも民衆からは、優しい鬼と呼ばれ絶大な支持を得ることに成功し、そして今。
魔族との停戦、講和を目前に控えるまでに至った。
しかし陽実の心はもう限界だった。
戦友と呼べる仲間もできた。
王族や貴族と完全に癒着していた冒険者ギルドを、もはや別の組織かと見紛うばかりに立て直した。
あるときは戦場の最前線で指揮を振るい、不味いとしか言いようのない軍用食を部下と共に流し込んだ。
月の灯りを頼りに徹夜で何枚も書状を認め、自らが使者となり敵国に赴いたことも数えきれない。
華やかな社交界では完璧な笑顔を貼り付け、海千山千の猛者たちと舌戦で渡り合った。
いつだったか、戦場から凱旋する途中。貧困に喘ぐ農村を横切ったとき、年端もいかぬ少女が陽実の前方を進む騎馬に牽かれそうになった。
以前の陽実であれば、騎乗している部下を怒鳴りつけただろう。少女の手を取り、無事で良かったと声を掛けただろう。
けれどこのとき、陽実は何もできなかった。
何も感じなかった。
自分の不注意を棚に上げて少女を怒鳴りつける部下を見て、何も思わなかった。
ここに居たらおかしくなる。いや、既におかしくなっている。その日の夜遅く、自室に帰り、鏡に映る自分を見て陽実は笑った。どうしようもなく手遅れなんだと自覚して、自嘲して、頬を伝う何かを拭う気にもなれず。お前が泣く資格なんてないと、鏡を叩き割った。
それでも尚、目尻から零れる涙は枯れず。
そうして淡々と魔族との停戦を終えた。
陽実は思う。もう高嗣の下には帰れないと。最低限の義理を果たした自負だけが陽実を支えていて、いっそこのまま死んでやろうかとも思った。その度に脳裏にあの少女が蘇り、せめてあと少し、もう少しだけ、この国の弱者と呼ばれる人たちに尽力するべきなのか、その思いが陽実を苦しめた。
「……私は、私だって、もう十分に苦しんだじゃない! なのに何で、何でまだ苦しい人たちがこんなに、たくさん……!」
一度でも弱音を吐いてしまえば立ち上がることはできないと、努めて口にしてこなかった本音。側近の誰にも聞かれないように、一国の王女としては考えられないような質素な部屋でついに陽実は溢した。
「会いたいよ……コウ……!」
ずっと一緒に居られたなら、今頃は何をしていただろうか。
小さい頃から何も変わらない島で、変わらない毎日を送っていた。
二人で座ると窮屈に感じるあのソファーで、少し離れろよなんて言いながら笑い合っていた。
自然だけは豊かな景色を見ながら、銀杏の彩りに感動してただ綺麗だねって、そうだなって言葉を交わした。
海に行けば、毎日変わる波の形を見て言葉もなく寄り添った。
高嗣の方が早起きした日はコーヒーの香りで目が覚めた。血糖値の低い私のために、茶色い角砂糖を二つ入れてくれるのが決まりだった。
高嗣が眠ってから自分が寝るまで、その寝顔を見るのが何より好きだった。
何の変哲もない幸福な毎日を、今も送っていただろうか。
机に飾ってある一枚だけ持ってきた写真を見ながら、溢れ出す涙は止まらない。その写真を撮ったときから、高嗣の顔が少しでも変わっているのかと想像すると悲しくて、悔しくて、写真の中の角度と違う面差しがもう朧気になっている事実を認めたくなくて。
ふと陽実は思い付いた。もう高嗣と会って笑う資格なんて自分にはないけれど、今の気持ちを残しておこうと。このままこの世界に骨を埋めることになっても、いつかまたどうしようもなく辛くなったとき、読み返して思い出せるように。まだ記憶の残っているうちに書き出しておこうと。
それは二度と取り戻せない思い出に縋る、愚かで救いがたい行為かもしれない。
けれど何もせずにはいられなくて。陽実にとって高嗣との思い出は何よりも甘いのだから。
羊皮紙を取り出しペンを握る。不意に、紙を押さえる左手、薬指のペアリングに涙が落ちた。
そう言えばこのペアリングも私と一緒に三年間、頑張ってきたんだなと思った瞬間だった。
それは優しく瞬いた。
ほんの一瞬の出来事でも、確かに虹のようなきらめきを放ったのを陽実は見逃さず、もしかしたら女神の気まぐれかしらなんて思っていると。
羊皮紙に文字が浮かび上がった。
これは何の魔法だと、この期に及んで魔族から物言いがあるのかと陽実は身構えた。しかしただ文字が浮き出てくるだけで他には何も起こらず、だから理解するのが一拍遅れた。
それは間違いなく日本語だった。少し右上がりの癖のある文字。陽実のいちばん傍に居た人の筆跡だということに、目で文字を追いながら理解が追い付いて来る。
『今日から日記を付けようと思う。ハルがどこにも居なくなって一週間が経つけど、考えてみたら、あのハルのことだ。最悪の可能性を考える方がバカらしい気もしてきた。どうせ何年かしたら、ひょっこり帰ってくるに違いないんだ。だからこれは、そのときまで揺れずに待っていられるように、俺のために書こうと思う』
『一回信じるって決めたらずいぶんと気が楽になった。決めるっていうのはそれだけ大事なことなんだな。だから、異世界でどんなに大変なことをしているかなんて、俺には想像もできないけど。帰ってきたハルがどうしようもなく疲れていたら、一緒に海を見ようと思う。これも今決める。飽きるまで、二人で見ていたい』
『今日で一ヶ月。最近になって感じるのは、ハルが居ないってのはこんなに辛いんだなってこと。毎日一緒に居たからっていうのと、終わりが見えないからだと思う。でも、終わりが見えないからこそ、待ちたいと思うし、待たせてほしい。ハルが知ったら自己満足かよって笑うかもしれないけど、俺がそうしたいんだ』
見慣れた文字に、読み慣れた文体で。
高嗣がこれを声にして語る姿すら鮮明に描けた。
あの日女神の言っていた陽実に報いる高嗣に貸した力とはこのことかと、そこまで全部わかって陽実はまた泣いた。
コウの気持ちを知ることが、こんなに嬉しくて、こんなに染みるなんて。わかっていたつもりだけど、全然足りなかった。お姫様でも何でもない、優しい鬼なんて知ったことか。私はただ、コウと居られたらそれだけで満たされる。肩書きとかそんなものは一つだって要らなくて、必要なのはコウだけなんだ。
再び会う資格はもうないと思っていた。でもそれはやっぱり嘘で、今こうして高嗣の気持ちに触れて、その手に触れたくて仕方がない。はち切れそうなこの胸を、体を抱き締めてほしい。
羊皮紙を捲る手は止まらず、三年という月日を埋めるように時間は過ぎていく。侍女が政務の時間だと告げに来たのも追い払って陽実は没頭した。
『そろそろ三年が経つけど、もう限界かなって思う俺がいる。でも、ハルの居る世界には魔法があって、戦争だって身近なんだ。万が一戦争で死んだらなんて思わない、けど、ハルの立場を考えたら、まだ長引いても仕方ないんだろう。どうせなら思い残しのないように全力でやってほしい。戦災があるんなら、その復興とか、俺には想像もできないしなきゃいけないことがたくさんあって、身を粉にして奮闘してるんだろう。できることは全部やったって胸を張って帰ってきてほしいし、そうじゃなくたって、俺はハルのことを誇りに思ってるから、卑屈な顔をして帰ってきてほしくはない。一つだけ、無事で居てくれたら、俺はそれだけでいい』
日記が陽実の現実に追い付いて、締めの内容がこれとは、見透かしたような奴だ。けれど高嗣に見透かされるのは嫌じゃなかった。その理解が嬉しくて、心をくすぐられるようで。
涙は止まった。一度目を閉じて、何もできなかったあの少女のことを思い、火の点いた目を開く。
もう迷わない。絶対に高嗣の下へ帰る。
そのために、もう少しだけ高嗣の理解に甘えよう。まだ為すべきことがあるのだから。
高嗣からの日記という活力を得た陽実は、各地の復興に尽力した。自分の持つ権力、地位、名声を余すことなく利用して、人々のために走り回った。
気が付けばまた一年、もう一年と過ぎて行ったが、陽実の顔に陰りはなかった。
いつ頃からだろうか。ズルズルと、もう帰ろうもう帰ろうと思う度に何かと邪魔が入る。帰るための魔法理論はとっくに構築されていて、魔力だって余るほどある。にも拘わらず、察しているのだろう、最近は有力貴族と結婚させようと露骨に王が動いている。
もちろん陽実にその気はないと何度も、はっきりと断っている。二度とこの世界に戻ってくるつもりもない。地位も魔法も要らない、あの世界で高嗣と普通の暮らしをすることが、陽実の何よりの望みなのだから。
呆れるほどにバカな真似をされたのもこの頃だ。食事に毒を盛られた。睡眠薬と、体の自由を奪う毒で、無理矢理にでも既成事実を作ってしまおうという悪意の発露だった。
そういうものへの耐性も特段に高く、通用しないことはわかりきっているはずなのに、王と、懇意にしている貴族とで強行された稚拙な悪巧みは陽実の逆鱗を踏み抜いた。
命まで奪わなかったのは単に、殺すにも値しない奴らだったというまでのことで。当然、とりあえず陽実の気が済むまでと一通りの制裁は行った。それが終わったのが、もうこの国に尽くす理由がなくなったのと同時だった。
帰ろう、高嗣に会いに。
もっと清々しい気分で決意するはずだったのに、何でこんな疲れた気持ちで帰りたくなるのかと、改めて異世界憎しの思いを増したタイミングで羊皮紙が瞬いた。
『もう、十年が経つ。ハル、この前、お見合いを勧められたよ。おばちゃんが早とちりの、同級生の原田って居ただろ。その妹なんだけど、内地から帰ってくるらしくて、どうだって。ずっと、大切なペンフレンドが居るって言って、一人で内地に旅行したり、色々やってるんだけど、最近はごまかすのもしんどい。もしかしたらハルも、向こうで誰か見付けたりしたのかなって不安になったりもしてる。生きててくれたら、それだけでいいはずだったのに。俺が揺るがないために始めた日記で、こんなこと書くのは違うと思うんだけど、これ以上、揺れない自信がなくなってきた』
読んで陽実の目は点になった。
コウが待つって言ったから、中途半端はダメだって言ってくれたからここまでやってきたんだ。なのに、勝手に折れようとするって何だよ。私は何のために走り回ってきたんだよ。全部、コウのためだったんだよ!
けれど冷静な部分で、それも仕方ないと思う。思いたくないが、思ってしまう。
だって、今までずっと一方通行だった。高嗣は自分の日記が陽実に届いていることさえ知らなくて、陽実が居た痕跡のなくなった世界でただ一人、十年もの間待っていたのだ。
お互いに三十歳になる、十年という区切りの良い月日。むしろこれまで待っていた方がおかしいぐらいで、新しい誰かを好きになろうとしても、高嗣を責めるのは酷というものだ。
この心も体も捧げていいと、十年前からとっくに決めている。陽実の行動は早かった。遅すぎたぐらいだけれど、端から見る陽実は迅速に動いた。
ずっと待たせてごめん、一人にさせてごめん、不安にさせてごめん。けれどまだ、少しでも私を待ってもいいと思ってくれるのなら、まだ誰か他の人が心の隙間を埋めていなかったら。
もう一度、私を見てほしいです。
だからその隣で生きていくチャンスを、もう一度だけ、私にください。
祈るような気持ちで魔方陣に魔力を注いでいく。やがて発動した魔法は、なんの瑕疵もなく陽実を日本へと運んだ。このクソッタレな異世界に中指を立てて去ってやるだとか、いつか考えたことを実行する余裕なんて微塵もなかった。
線の細かった体に少し肉が付いている。
不精髭の生えている輪郭は、記憶の中にあったものと変わっていない。
精神的な疲労からか若々しい雰囲気は消えていて、苦労して歳を重ねたんだということが窺える。
それでも精悍に映る顔付きは、陽実だからそう思ってしまうのかもしれないが――
――惚れ直すには十分、格好いいと思えた。
「……ハル? ハルなんだよな?」
ずっと契約を更新していたのだろう、昔でもボロかったアパートは更にボロくなっていた。それは高嗣がどれだけ綺麗に使っていても隠しきれず、年月の重さを感じずにいられない。
「うん、私だよ、コウ」
すっと胸に入ってくる、何度聞きたいと願ったかわからない高嗣の声に陽実は頷いた。
でも、あの日記を読んでしまった以上、その胸に飛び込んでいいものかわからない。ずっと触れたかった人が目の前に居るのに、あと数歩の距離が怖くてもどかしい。
ガチャッと音がして、目をやると掃除機が無造作に置かれている。ああ、今部屋の掃除をしていたのか、そう言えば掃除機って久し振りに見たなと、陽実が場違いな感想を抱いていたら急に腕を取られた。
体を覆うぬくもりに、
胸に響く高嗣の鼓動に、
痛いほど締め付ける回された両腕に、
陽実はやっと帰ってきたんだと実感する。
「……遅ぇんだよ」
「……うん、ごめんなさい」
陽実も両腕に力を込めて高嗣の背中に回し、
「おかえり」
「ただいま」
真剣な顔の高嗣に、満面の笑顔でそう返し、
「結婚しよう」
「……はい。ずっと、私の隣でぼやいてください」
誓いの言葉のあと、高嗣の唇に唇を重ねた。
「……キスまでするのに十年掛かるとか、もう遠距離恋愛はごめんだわ」
「うん、もう大丈夫だから。絶対離れない」
「俺も、ていうかアレだ、俺の方が離さねぇよ。ハルが居ないとダメだってわかった」
「でもどうする? 原田の妹とお見合いするんでしょ、ペンフレンドさん?」
何度も口付けを交わしたあと、思い出のソファーに座ってそうからかうと、高嗣は全てがわかったのか憮然とした表情を浮かべて。
「あの神の野郎……そういうことかよ」
「そのお陰で私は頑張れたんだけどね?」
「じゃあ、目ぇ閉じてろ」
思わず陽実は口許を意識してしまったのだが、触れられたのは指輪のしてある左手だった。
「これなら、ペンフレンドらしいだろ」
そう言って高嗣が陽実の手の平に、指でなぞったのはたったの五文字。
二人がずっと伝えたくて、伝えられなかった言葉。
「これから先は、ちゃんと言葉にしていくから」
「……ありが、とう、ありがとう、私も、ちゃんと、言うがら、」
「あー、直ってないのな、すぐ泣くの……でも、これからもこうして泣かすと思う。いい意味で。だからさ、」
ほれ、と言って高嗣は自分の胸に陽実を抱き寄せて囁く。されるがままに陽実は体を預け、この安心感に焦がれていたんだとしゃくり泣く。
「俺にだけ見せて、泣き顔は。そんで、落ち着いたら海に行こうぜ。ずっとハルと見たかったんだ」
「うん、行くっ」
きっとこうして、これからは。
何処までも続く海のように二人で生きていける。
時おり、大きい波に呑まれることもあるかもしれないけれど。
途方もない遠回りをした私たちなら乗り越えられる。
小さな幸福を積み重ねて、いつか十年分の空白が埋まったら。
もっと長い未来の話をしていこう。
幸福な未来の話を。
これはそんな、どこにでもいる二人が、ちょっとだけ長い遠距離恋愛を乗り越えたお話。
これで終わりです。
最後まで読んで下さった方々、本当にありがとうございました。




