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笹田高嗣の場合 5


 真っ白な空間だった。


 気が付くと高嗣はそこにいて、でも居ないことがわかる。おそらくは夢の中で、意識だけがここにあり、実際に高嗣の体が居るわけではないことが。


『目覚めましたか』


 頭の中に響いた声に驚き、また納得もした。あの光はやはり魔法的な効果があって、これも二年前に陽実が実践してみせたテレパシーのような魔法なんだと。


 質問には答えず、高嗣は考える。

 完全に意識が落ちる直前に陽実が居ないことに絶望した。更にその直前、陽実が戸惑っていたことも覚えている。

 陽実は向こうの世界に飛ぶ魔法を、自分の意思では使えなかった?

 なら今、高嗣の居るこの空間は何だ。陽実が飛んだあと、その余波で自分も飛べることなど、果たして可能なのか?

 それならこの響いてきた声は何だ?


 わからなかった。せめて陽実の安否だけでも知りたいが、それを知る術が高嗣にはない。


 だったら。この声の主が善人であると信じて問い掛けてみる以外、選ぶ道はないと高嗣は断じた。


「目が覚めたっつーか……たぶんまだ寝てるんじゃないか、体の方は」

『それだけ考えられるのであれば結構。私は、貴方に問わなければならないことがあります』

「待て、待ってくれ。俺もあんたに聞きたいことがあるんだ」

『良いでしょう。貴方には悪いことをしたと思っています。私に答えられることであれば、何でも答えましょう』

「ありがとう、助かる」


 それからしばらく、高嗣の質問が続いた。何者かもわからない声の主は、時おり『わからない』『答えられない』と言うものの、大体の質問には答えてくれた。そして声の主の正体は、曰く異世界へ通じる道の門番のようなもの、らしい。ひどく濁した言い方をされて、追及するのはやめといた方がいいことなんだと高嗣は引き下がった。

 今は陽実のことがわかれば十分だから。


「じゃあ、陽実は無事にあっちに行けたんだな……よかった、本当によかった」

『二十年前にあの世界から送った人間が、またあの世界に喚んだのです』

「タイミング悪いな、クソ」

『では、そろそろ良いでしょうか。貴方に問わなければなりません』

「ああ、大丈夫だ。悪かったな、先に色々聞いて」

『気にしなくても良いのですよ』


 門番は厳かに問う。


『この道に来た者には必ず聞かなければなりません。貴方は、何を欲する』


 それはとても抽象的な質問で、けれどと言うべきか、だからこそと言うべきか。不思議と高嗣は迷うことなく応じた。


「別に何も、俺自身は。ただ、望んでもいいのなら、あいつを笑わせられる力を。それが別に俺の力じゃなくても、たった一回だけでもいい。泣いてばっかりのあいつが笑顔になれるような奇跡を、願ってもいいのなら」


 この二年間、いやもっと前から思ってきたことだ。口の悪いのが直って、素行も良くなって。覚醒したと表現するのが相応しいほどに化けた陽実はよく笑うようになって、同時に高嗣の前ではすぐ泣くようになった。


 陽実の泣き顔を見るのが、堪らなく悲しかった。


 これから異世界でも二人で過ごせるのならば、やっぱり陽実には笑っていてほしい。太陽の文字を冠する名前の通りに、いつでも眩しい笑顔でいてほしい。


 そんな、高嗣の心からの願いだ。


『……あの娘は本当に優しい子です』


 知ってる。誰よりも知っている自信がある。


『己より、他の人の幸せを願える子です』


 それも知ってる。ああ、その通りだ。


『同じく優しい子よ。特別に力を貸しましょう』


 ありがとう。きっと、絶対、この恩は忘れない。


 ふいに門番が微笑んだ気配がした。すると魔方陣の光とは違う、暖かい輝きが空間を満たしていき、高嗣は今度こそ目を覚ました。




 そこは、しかし、二人のアパートでのことだった。




「…………何で、だよ。何でだよ! 何でここなんだよ……!」


 声が嗄れるまで叫び、泣き、何度も何度も陽実の名を呼んだ。そうして高嗣は再び意識を失い、翌日の昼に起きても、陽実が居ない事実だけが部屋に佇んでいた。


 絶望が胸を締め付ける。苦しい、苦しい、苦しい! 呼吸すら上手くできない苦しさは、のうのうと高嗣だけが平和な世界に残されたことを実感させ、次は苛立ちと不安が渦を巻く。やがてその渦は激流となり、高嗣はアパートを飛び出して実家に走った。


「父さん、ハルは!? ハルは来てないか!?」


 誰かに頼まれたのだろう、扇風機の修理をしていた父はいつもの穏やかな顔をしていて、それがまた苛立ちに拍車を掛ける。だが、


「おお、高嗣か。ハル、って誰だい?」


 父の返事は苛立ちすら消し去った。


「……誰だ、じゃなくて! おい、嘘だろ? ハルだよハル! 新山陽実、隣の喫茶店の一人娘の、父さんも昔から知ってる!」

「お隣にお子さんは居ないだろ? どうしたんだい、暑さでやられたか?」

「嘘だろ……嘘だって言ってくれよ。なあ、俺をからかってるんだろ? 嘘だって、言えよ!」

「何をそんな……あ、おい高嗣、高嗣!」


 高嗣は駆け出した。

 隣の喫茶店で陽実を呼んだ。

 小学校に走って陽実を探した。

 中学校に向かって陽実の姿を探し回った。

 高校で陽実の背中を探し求めた。

 何度も遊んだ山の頂上まで駆け上がった。

 主なんて居なかった海にも息を切らせた。


 その何処にも陽実は居なかった。

 陽実が居たという足跡すらなくなっていた。


「そんな……ハル、何で……」


 浜辺に座り込んで茫然とし、高嗣の呟きも波に飲まれて消えていく。辺りには夜の帳が落ちていて、寄せて返す波模様は二人で居られたならば、どんなに綺麗に見えただろう。


 高嗣はやけくそになって叫んだ。

 誰よりも好きな人の名前を嗄れ果てた声で、

 喉が千切れてもいい、

 明日から喋れなくてもいい、

 陽実が居れば他に何も要らないから、

 だってこんなのあんまりだ、

 陽実との思い出まで奪っていくなんて、

 だからどうか、

 どうか神様、


 陽実にもう一度……!


 その声に応える声はなく。




 そうして世界から陽実が消えて、十年の歳月が経とうとしていた。



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