第四節 王城へ⑤
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「俺の部屋は一号室、と」
「僕の部屋はこっちだ。そうだリョウ、挨拶を済ませたら稽古をつけてくれないか」
各自の部屋の前で立ち止まり、背中合わせになった所でギルガメシュが言うと、振り返ったリョウが快諾して次の予定が決まった。
「早速か? いいぜ、鍛錬の間で待ち合わせよう」
「そのうち先輩方も君を師事するんじゃないかと思う。今の内に色々教わっておかないと」
多分そうなると言い残した彼はそのまま自分の部屋に入っていき、一人廊下に残ったリョウはごくり、と唾を飲み込みながら一号室の扉をじっと見やる。
「さて、と」
廊下に突っ立っていても始まらない。
まるで敵地に踏み込むかのように覚悟を決めた彼が、盗賊よろしく音を立てないで鍵を開けてから気配を探ってみると、一人分の気配が感じられた。
残念ながら本当に待機しているようだ。
「失礼します」
「あっ……!」
なぜ自分の部屋なのに失礼しますなんだ、と呟きながら扉を開ければ、窓際で外を見ていたメイド服姿の少女が勢いよく振り返った。
入り口まで小走りにやって来た彼女は、そこで大きく息を吸い込むと何度も何度も練習した台詞を一息で言い切り、深々と頭を下げる。
「お初にお目にかかります! 今日から、イグザート様の担当となりましたラピスと申します! 御用の際にはなんなりとお申し付けください!」
「は、初めまして」
親衛騎士おつきの者を示す白銀のカチューシャがきらりと光り、襟足で切りそろえられた瑠璃色の髪がさらさらと舞った。
思わず天井を見上げてしまうとシトラスの精油だろうか、柑橘の香りが鼻をくすぐってくる。
数秒もしてから頭を上げた彼女が戸口から一歩引いたので、どこへかは分からないが、帰りたくなったリョウは仕方なしに二度目となる自室に踏み込んだのだが。
「ま、まあまあ。取りあえずそこに座って。ちょっと話そうか」
「は、はい?」
四人がけのテーブルを指さした彼が椅子に座っても、彼女は向かいに立つだけである。
「座ってくれるかな?」
「できません」
「俺は別に構わないよ」
「いけません」
絶対に許されません、と固辞する少女に頭の痛くなった彼はしばらく話題を探してあれこれと悩んだ。
その結果。
「……君、いくつ?」
「十六歳になります」
「この仕事、初めて?」
「六年間、ハニトゥーラ侯爵夫人の養成施設で学んでおります。今月頭からお城に入り、昨日まで侍女見習いをしておりました」
「趣味とか……」
「仕事が生き甲斐です」
まるで面接のような問いかけに答えつつラピスはだんだん不安になってきた。
若くして親衛騎士団に入団した、エリート中のエリートである主人は自分の事が気に入らなかったのだろうか。
もしかして先の挨拶で致命的な過ちを犯してしまったのだろうか。
姉のお薦めでシトラスの精油なんて付けてみたが、浮ついていると思われてしまっただろうか。
それともエルフの血が混じっているという髪の色が気に入らないのだろうか。
自分の方はどちらかというと好みの容姿でほっとしたと言うのに、生理的に受け付けないとか、面構えが気に入らないとかだったらどうしようか。
あいにく自分の胸も尻もそれほど大きくないし、肉付きの良い方が好みだったとかあるのだろうか。
一人の王族に対して何人もつく侍女と異なり、親衛騎士のメイドは一人で朝から晩まで面倒を見なければならないだけあって、問われる技量が異なるのはラピスも知っている。
それはどちらが上とか下ではなく、より高度な専門性を問われるか、総合力を問われるかの違いなのだが、養成施設ではより高度な総合力を目指して修行を積んできた。
「私、何でもできます! 経験はありませんが、お望みでしたら夜―――」
「待て!」
六年の修行を試されるまたとない機会をふいにして、施設の名を汚したり、ハニトゥーラ侯爵夫人の顔に泥を塗りたくない彼女はちゃんとできますと胸に手を当てたのだが、察したリョウがとんでもないと大声で遮った。
「待ってくれ、その逆だ! 君は何もしなくていいんだ!」
「何もしなくて―――解雇ですか!?」
「違う! そうじゃなくて、のんびりしていて構わないって意味!」
予想だにしない言葉に驚き、浅葱色の瞳に涙を浮かべてしまうメイド。
勘違いされたと慌てて椅子を立ち、腕を動かして必死に説明を繰り返す主人。
他の貴族からしたら何かの喜劇か悪ふざけかと言う光景なのだが、本人たちは至ってまじめにやっている。
「ぐすっ…お仕事をいただけないなんて…」
(いじめているつもりはないけど、なんだこの罪悪感は……)
衛兵や騎士達に挨拶したときの堂々さや、剣を握るときの不敵さの影もない、女性の涙に弱い十七歳の、年相応の姿がそこにあった。
これも一つの経験不足と言う奴だろうか。
「私ではお役に立てませんでしょうか……」
どうやら話を聞いてくれそうなのでどさりと腰を落としたリョウは、真っ直ぐに見つめてくるラピスの視線を受け止められず、テーブルに目を落として頬をかく。
「俺は貴族じゃない、冒険者上がりなんだ。人を使うことに慣れてないし自分の事は自分でできるから、君はのんびりしていてくれて構わない。なにか手が必要になったら言うからさ」
「そんな話―――」
聞いた事もありませんと言いかけたラピスは平民の出の親衛騎士、キンディ男爵も城に来た当初はそうだったとのうわさ話を思い出していた。
なお真相はと言うと。
ベッドの下に隠した本が本棚に入っていたり、下半身だけ起きた朝寝坊を目撃されたりして泣きを入れただけだったりする。
「それは許されざることです。十分に働けると証明できなければ、落ちこぼれとして施設に送り返されることに変わりはありません」
凜と言った彼女が、侍女見習いだったとは言え親衛騎士お付きに大抜擢された理由だが、現在城にいる担当なしメイド達の中でもっとも優秀だったからに他ならない。
共に城に入り、励まし合って働いてきた双子の姉もまたギルガメシュのお付きに任命されており、彼らは多くのメイドや侍女の羨望の眼差しと、さすがマダムの子と言う評価を一身に受けてここに来ているのである。
◇ ◇ ◇
総歴一九八六年。
ギュメレリー王国歴で言えば百五十六年の秋。
邪竜襲撃によりいくつもの村が消え、馬鹿にならない人的被害がアトゥムを襲ってから三日ほど経った日、王都にある大邸宅の一室でとある女性が言った。
「保護できたのはこの子達だけなの?」
彼女の名はフィオレーナ=G=ハニトゥーラ。
王都から西にあるダイアナの町領主の娘であり、王都で総務省の重職につくハニトゥーラ伯爵の妻である。
彼女の前には右も左も分からず涙も涸れ果て、目の輝きも失って、ただ抱き合いながら震えている姉妹の姿があった。
「いいえマダム。他の子供達は栄養状態や身なり―――早い話がお目通りにかなう状態ではないため、回復に努めさせています」
「引き続き冒険者に捜索を急がせなさい。国民の命は王の財産です。一人でも多くを助け、ダイアナかここへ保護するのです」
「畏まりました」
執事のよどみない返事に頷いた夫人は対応継続を指示し、数名が部屋を出ていくのを見ながらふう、と息を吐いた。
まだ王都の緊張と混乱は収まっておらず、不穏な空気がアトゥム全体を包み込んでいる。
多くの犠牲者を出して邪竜討伐は成ったものの、事後処理に手間取ると悪い影響はさらに拡大するだろう。
立場上国王は税金をきちんと納めて地図に載っている、いわゆる認可村の保護と保証にしか動けないため、被害の大きかった地域の領主であるダイアナ公とその関係者に、独立村の保護と生き残りの救助を非公式に依頼されたのだ。
「また……女が余るわね」
王都防衛戦でもそうであったように、各地の人的被害の八割以上が男性であると聞いている。
手をこまねいていては働き盛りの男手を大勢失った村のほとんどが消え、孤児や口減らしに捨てられた子が路頭に迷い、違法な人買いや奴隷商人が跋扈するだろう。
未亡人となった女性の働き口は絶対的に不足し、身体を売ったり物盗りに走る者も増えるに違いない。
神殿も困窮した者の受け入れを約束してくれてはいるが、国や貴族が主体となって動かなければならない事態なのは明白で、彼女は王都の中でも精力的に手を尽くしている一人なのだ。
「だけどもう、神殿だけに任せなくて済むわ」
かねてから暖めていた計画のあった彼女が、国王の非公式依頼に対して伯爵経由で『家庭内役務従事者の育成施設運営計画』を提案したのが二日前の話。
救助をして、小金を持たせて終わりではない。
娘は神殿か娼館に送り込んで終わりでもない。
きちんと生きる術を与え、役に立つ人材として教育する施設を作り、そこに要救助者を保護して学ばせると言う計画が承認された今、彼女の野望を止められる者は居ないのだ。
「……まあ、なんて綺麗な石榴と瑠璃の髪。ずいぶん器量よしだし、エルフの血が混じっているのかしらね」
もう一度姉妹を見やった夫人が言ったのにも理由があった。
まず、森妖精族や岩妖精族などに代表される妖精族は、人間族と同じ『人』とされるが、創生者が異なる。
人間の創生者が天界に住まう光の神々とされるのに対し、妖精族の創生者は妖精界に住まう黄金樹と呼ばれる存在であり、主物質界の木や花などと祖を同じくするのだ。
そのためか髪や瞳の色も木や花のように多種多様で、人には見られない青や桃、緑に紫の者もいる。
そのエルフと人の混血の子孫は、血が薄まるにつれてまた人としての特徴を取り戻していくのだが、十何世代以上にもわたって髪や瞳の色に名残が見られ、そう言った髪色の人間はエルフのように白い肌と、美しい容姿を持つことが多いと言われている。
ならば美醜にこだわる貴族がその血を取り入れるかというと、そう簡単な話でもなかった。
人種間の差別が非常に根強く、他種族との婚姻も混血児もいい顔をされない世の中のため、選民的な思想の強い貴族としては忌避するべきものであり、もしも隔世遺伝で生まれてしまった場合は、ほとんどが忌み子として処理されてしまうとのことだ。
「あなたたち、名前は言える?」
「あ、あの…私、ガーネット。妹、ラピス……」
「まあ、髪色にちなんだ素敵な名前。親が学のある人だったのかも知れないわね」
震えながらもしっかりと答えた姉と、きゅっと姉を抱きしめたまま見つめてくる妹に微笑んだ夫人は、怖がらなくて良いのとしゃがんで目線を合わせてやった。
「今日からあなた達はうちの子になるの。心配しなくて良いわ、ちゃんと一人前にしてこの国のために働けるようにしてあげるから」
敬虔な愛国者である彼女は、かねてから女あまりの状況を改善したいと思っていた。
しかも自分の懐は痛めず、国王の評価につながり、貴族社会の中での立ち位置をより強固な物にしながら、である。
長いこと思案を重ねてもいい案が浮かばなかったのだが、ある時主人であるハニトゥーラ伯爵が言ったのだ。
王様向けの侍女を自分のメイドにしたいと無茶をいう貴族がいる、と。
そこで気がついた。
家庭内役務一つにしても、有能で品位のあるメイドは主人の生活の質を高め、より大きな満足感を与えることに。
王族の侍女並の品位を持つメイドを持てるとしたら、飛びつく見栄っ張り貴族は多いはず。
何年かして侍女を輩出したとの箔がつけば、それはさらに加速することだろう。
メイドや執事による精神的豊かさの提供に目を付けた彼女の施設は当たりに当たり、身寄りのない者の保護施設としても有用であることを証明した結果、ハニトゥーラ伯爵は二年後、侯爵に陞爵されることになる。
「……マダム、また施設の噂を聞きつけた貧民が保護を求めています」
「どんどん集めなさい。ぼんくら執事、どじっ子メイドの再教育から行き場のない者の就職斡旋まで、全部この私が面倒を見てさしあげましょう。オーホホホホ!!!」
総歴一九九二年になった今。
城や訪問先の貴族の屋敷で見かけた執事やメイドの、あまりの品位に驚いた貴族達からの問い合わせは留まることを知らず、夫人の高笑いは今日も屋敷に響き渡っている。
◇ ◇ ◇
そんなマダムの子の長女と次女とも言える二人が、一人ずつ侍女長に呼び出されたのが昨夜の話。
王女の侍女を目指していたところに親衛騎士つきを言い渡されて戸惑ったものの、相手は若干十七歳で募集試験から親衛騎士団入りした期待の星達だと言う。
マダムの子は国を支える者の礎となって、その者の能力を最大限以上に発揮させるのが役割であり、存在意義である。
ならば国主の命を護る者に仕えるのも光栄な話であり、全身全霊をもって応えようと決意した彼女らに、侯爵婦人からと渡された手紙にはこうあった。
―――ガーネットがつくギルガメシュ君はお茶会の重鎮、フォレスト子爵夫人の息子でもあるの。
彼女があれこれと心配していたけど、あなたに任せておけば大丈夫よね。
それから野菜、特にピーマンが好きではないらしいのでちゃんと食べられるようにしてあげてちょうだい。
ラピスがつくリョウ君は冒険者あがりだけど、ブルーシップ伯爵から最高の子をあてがって欲しいとまで言われたわ。
たぶん、何年かしたら副団長にしたいのだと思う。
難しい相手だと思うけどあなたならできるわ。
あなたたち、国王様に仕えるつもりでしっかりやりなさい。
大丈夫、二人とも私の自慢の娘達なんだから。
「冒険者!? 冒険者なんて社会不適合者の爪弾き者の礼儀知らずの不道徳者じゃない! 昔、村に来た連中がどんなに村長さんに迷惑をかけていたか……!」
読むなり憤慨したのが姉である。
彼女は独立村に住んでいた頃に見た、村に居着いていた冒険者達の横柄で横暴な態度をよく覚えていたのだ。
「ひどいことをされそうになったら、すぐ大声を上げて誰かを呼ぶのよ!? 分かった!?」
「う、うん……」
「あーっ、もう! マダムのご指名じゃなければすぐに辞退させるのに!!」
一晩あれこれと考えた結果。
夫人の顔に泥を塗るわけにも行かないので会うだけは会ってみることになり、最悪マダムの屋敷に逃げるか施設に帰りなさい、でも最初のご挨拶はきちんと丁寧にやりなさい、と心配する姉と分かれて一号室に入ったのが少し前のことである。
◇ ◇ ◇
ラピスはメイドを自分の天職と信じて疑っていなかった。
マダムのように尊敬できる大切なご主人様であれば、という前提はつくものの、尽くすことに喜びを感じ、自分の役務によって主人の身の回りが改善し、活躍させられることにやり甲斐と誇りを持っている。
(ここで退くわけにはいかない……マダムのため、そしてギュメレリーのために)
大恩あるハニトゥーラ侯爵夫人は孤児の自分達に居場所と生きる術を与えてくれた。
彼女の理念はメイドと言う仕事に付加価値を与えてくれた。
養成施設に国からの補助金が出ていると聞いた時、王国も自分達を見捨ててはいなかったのだと知った。
税金を納めていなかった独立村の自分達を国王は、影ながら支えてくれていたのだ。
「立場が悪くなるようにはしないから。君は仕事をしているつもりになってくれれば良いんだ」
「それは、私に死ねと仰るようなものです」
少女が覚悟を語った瞬間。
敏感に感じ取ったリョウはテーブルから顔を上げてラピスと目を合わせた。
黒曜と浅葱の視線が交差し、沈黙が満ちて数秒。
自分が間違っていたと反省した彼は椅子を立って頭を下げ、メイドとしてあり得ない状況に困惑したラピスはおろおろしてしまう。
「な、なにを!?」
「すまない、君に我が儘を言ったところで困らせるだけだった。本当にメイドが要らないなら、君を派遣した総務の上司に掛け合うべきだったな」
「それは―――!」
たしかに、担当を外すと所属長から言われてしまえば彼女は従うほかにない。
ラピスが八方ふさがりかと絶望に顔を青ざめさせると、くしゃっと黒髪を掻いたリョウが言った。
それは今の彼にできる最大の譲歩でもあった。
「じゃあ、君が自分で思ったことをしてくれればいい。俺はその邪魔をしない代わりに、今後俺からの命令もなしだ」
頼る事に慣れてはならない。
一人で生きてきた冒険者の彼にとって、それは命に関わるほどの不文律と言っても過言ではない。
だがここは城で、自分は親衛騎士になった。
ならば環境と立場に順応し、周囲の者への影響も考えなければならないと考えたのだ。
「自分で、思うこと……」
初めての命令を口の中で繰り返したラピスはすぐに、それが途轍もない難題だと分かった。
しかし彼女は、仕事が難しければ難しいほど燃え上がるたちだった。
もし自分の仕事ぶりが認められ、この頼る事を知らない不器用なご主人様に頼られたとしたら、それはきっと大きな喜びになるに違いない。
マダムもよくやったと誉めてくれるのではないだろうか。
「かしこまりました! でもそれって一番難しい命令、ですね」
「常識知らずの冒険者上がりなんかが相手で悪いね。これから苦労をかけることになりそうだ」
気持ちの整理がついたリョウもいつもの調子を取り戻したらしく、背筋を伸ばしている少女に片目を瞑って微笑んでいる。
「い、いえっ! 誠心誠意、全身全霊をもってお仕えさせていただきます!」
正直な話、部屋で待っている間は食人鬼みたいな相手だったらどうしようかとか、姉の言うように粗暴なご主人様だったらどうしようかと不安で一杯だった。
けれど実際には、ちょっと不器用で頼る事を知らないだけの少年でしかなかった。
悪いと思ったらメイド相手でも頭を下げられる、誠実さを持ち合わせた人だった。
「じゃあ、俺はギルと鍛錬の間に行くから」
そう言って両手剣を持った彼が廊下に出ると、ラピスも見送りでついてくる。
「君はこの部屋の鍵を持っているのかな?」
「いいえ。私が持っているのは隣の自室の鍵になります。ただ、ご主人様と私の部屋を繋ぐ扉には鍵がありませんので、合い鍵も同然ではありますが」
施錠しながら尋ねると、襟に指を差し込んだ少女がネックレスのように首からかけている銀色の鎖と、ぶら下がっている鍵を引っ張り出して見せてくれたのが。
流白銀製の鎖と鍵に感心するより、呼び方で全身がむず痒いリョウは困惑した表情で言った。
「頼むからご主人様と呼ぶのだけは勘弁してもらえないか? 公の場は仕方がないかも知れないが、それ以外では別の呼び方にして欲しい」
「では、イグザート卿でしょうか」
「まだ見習いで授爵してないから卿ってわけでもないな。普通にリョウでどうだろう」
「できません」
「そこをなんとか」
「いけません」
「リョウさんで」
「なりません」
矢継ぎ早なやり取りにふーっとため息をついたラピスは思案して暫し。
「では、リョウ様でいかがでしょうか」
「……様はどうやっても外れないのか。じゃあ、それでいいよ」
「かしこまりました。では行ってらっしゃいませ、リョウ様」
「ああ、いってくる」
彼の気配が角を曲がり、階段を下りていってからやっと頭を上げたラピスは、自分の鍵で部屋に入るとこれからのことを予想してみた。
「訓練されると言うことは汗をかくはずだから、お湯や着替えの準備? それともお風呂? そう言えば手ぶらでいらっしゃったようだけど、荷物とか無いのかな」
そのまま居間経由で寝室に向かい、流れるように布団を日に当て、部屋に風を入れ、ランプの油の残量を確認し、水差しを取り替えていく。
「かわら版とか読まれるのかな? 城内広報にも興味がおありかもしれないし……」
衣装棚は空っぽなので、埃が積もっていないことだけ確認して居間に戻った彼女は、手入れ道具が何もない防具立てを見て飛び上がった。
「いけない! 手ぬぐいと油と、やすりと―――って、流白銀の装備のお手入れって鋼鉄の物と違ったような」
たしか総務の書庫に資料があったと部屋を出た彼女は、早足で廊下を歩きながらもこみ上げてくる笑みを抑えきれず、両手で赤くなった頬を押さえねばならなかった。
なにも指示されないというのがこんなにも難しく、楽しいものだとは思わなかったのだ。
「どうしよう。お仕事中なのに」
指示されたことだけを行う、決められたことだけを粛々と繰り返す、ひな形通りの仕事が中心の侍女見習いとは異なり、常に頭を働かせ続けなければならないのが嬉しくて仕方がない。
まだ彼の行動や好みを把握できていないが、四六時中観察して考えるようにすれば、きっとより良い役務を提供できるようになると思うだけでやる気が湧いてくる。
謎解きみたい、と呟いたラピスに仕事中毒の気があることを、ハニトゥーラ侯爵夫人と侍女長は見抜いていたのだろう。
また杓子定規な仕事内容では、彼女の能力がこれ以上育たないと思っていたのかもしれない。
「このお仕事、私にぴったりかも」
そんな育ての親と上司の期待もつゆ知らず。
瑠璃色の髪をなびかせて軽やかに階段を下りていく彼女は、これからの仕事に思いを馳せてしまうのであった。




