第二部第十一話:見つからないConstructor
「……あの料理はあなたが?」
元の世界の料理だった。ライエンシュタットの侯爵の館で夜会で振る舞われた食べ物は、俺にわずかな懐かしさを感じさせた。
「いいえ……ああ、はい、と言うべきでしょうか。」
ホーフェン卿は続ける。
「私が以前、リースに発つ前に、ダリウス様にお教えしたことを、あの方は覚えておいでだったのです。」
ため息とも深い息ともいえない、震えた呼吸。
「教えた? ではあの農機具や、農法も?」
小さく頷いた後、赤毛の魔導士は小さくかぶりを振った。風はまだ小さく吹いている。
「私がレアハイムを出る前、ダリウス様の教師をしていました。ダリウス様は『あの世界』にあったものに興味をお持ちでした……。異国の、あるいは古代文明の、というふうに話しましたが。そういう誤魔化しは、レルドレザル様にも覚えはあるでしょう?」
たしかにある。『東方にいる師匠の秘儀』は飽きるほど使った。俺は少し口元を緩め、頷く。
「まだレアハイム侯爵の元に仕えるようになる前に、本に書きました。忘れてしまう前にと、元の世界の知識、まあ、たいした知識でもないのかもしれませんが、知っていたこと、学んだこと、この世界にあてはめて役に立つだろうこと。半分以上は、料理のことになってしまいましたが。」
少し震えた声のまま、ホーフェン卿は続ける。
「それでも、機械や工作は好きでしたから、簡単な木製のカムシャフトやギアを使った仕組み、あとは、この世界でも使えそうな農業関連の、まあ、家庭菜園レベルのことですが、そういったものを。」
ホーフェン卿は、「そのときダリウス様が一番興味を持ったのは、木製の動くおもちゃでしたけどね。」と目を細める。
「ダリウス様は、とても頭が良い。それは知っていました。しかし、私が伝えた農機具の改良法や、求めてやまなかった料理の数々、私がいない2年の間に、すべて実現してしまわれた。当時12歳、とても信じられませんでした。それに……。」
「……焼きそばをね、用意してくれたんです。私がライエンシュタットに戻った日に。」
俺はさらに口元が緩んだが、ホーフェン卿の次の言葉に表情を正し思わず目を瞑った。
「よく妻が作ってくれたんですよ。」
「私の休みに妻が朝から仕事へ出るときは、大抵焼きそばです。のんびり起きて来た私と子供たちで、それを食べるんです。」
一つ、大きく風が吹き、遠くの木々や草たちが、ざらざらと悲しい声を上げる。辺りの暗闇は、その音をどこまでも伝えるために暗いのか、それとも伝えまいと暗いのか。
「子供たちはよく食べるので、私の分はいつも少ないんですよ……。子供たちも……私も……妻の……焼きそばが……大好き……なんで……。」
彼は、もはや魔導士爵を持つ貴族ではなくなっていた。おそらく転生者として記憶を引き継いだドミニク・ホーフェンではなく、ただ、この世界に迷い込んだ異邦人として語っていた。
俺はなぜ、元の世界を切望しないのだろう。あの料理は、たしかに俺に懐かしさを感じさせた。元の世界の、いつか食べた料理、いつか一緒にいた家族、いつか一緒にいた恋人、友人、上司や部下、そんなものも感じさせた。しかし、それは帰りたいと狂おしいまでに思わせるようなものではなかった。
元の世界で死んだと実感したから?
あの痛みは、まだ覚えている。事故の衝撃と地面への激突。一瞬遅れての痛み。その痛みでさえも薄れていく意識の混濁。
元の世界に絶望していたから?
たしかに大して幸せな人生だったとは言えない。家族は疎遠な弟だけ。恋人もずいぶん居なかったし、特に親しい友人がいたわけでもない。少ない余暇は、ゲームをして遊ぶくらいのもの。
この世界の方が好きだから?
大してうまくはない酒と特別まずくはない料理、凍えるように寒い冬と焼けるような熱い夏、暗い夜と危険な魔物。毎日の水くみと火起こし。魔法がなければとっくに投げ出しているような生活。
――ああ、魔法か。
俺はまだ、魔法の全ては知らない。おそらく片足くらいは突っ込んだろう。ずいぶん自由に使えるようになってきた。大抵の魔導魔法は見れば再現できる。だが、魔法の秘密をもっと知りたい。
――もし全てを知ったら、グェンのようになるのだろうか。
いや、とゆっくり一度、首を振る。
北の賢者は帰る方法を求め、帰れないことに絶望した。俺は魔法の全てを知りたいと思い、だが、それが出来ないことを知っている。
全てを知ることができるわけがない。おそらく俺が生きている間には。
ふと、元の世界の同僚の技術者たちも、こんな気持ちだったのかと想像する。彼らは、俺に言わせれば、マシンやネットワーク上では魔術師だった。もちろん落ちこぼれのポンコツもいたが、少なくとも俺の出来ないことが出来た。
元の世界では、多かれ少なかれ技術者たちは、あるいは何かの専門家たちはそうだったのかもしれない。ああ、科学者などは、もっと。
――科学。
そう、きっとダリウスは科学が好きなのだろう。俺はその定義をはっきり言葉にはできないが、あの農機具や新しい農法などは科学だろう。あの料理だって、科学に違いない。何と何をどうすればどうなるか、これが科学でなければ何だと言うのだ。
検証と分析と再現性、体系を組み立て、法則を導きだす。この世界では、魔法ですら科学なのだ。
「ドミニク・ホーフェン魔導士、私も焼きそばは好きですよ。」
俺はあえて、この世界の名前で呼ぶ。
「でもあれは、まだ完璧ではないですね。出来れば、もう少し甘くない方がいい。」
ホーフェン卿は、あきらかに今までとは違ったため息をついた。
「レルドレザル様、あなたは東の人ですね?」
俺は苦笑した。たしかにソースの味は、地域間紛争の種だった。
「……まぁ、そのうちダリウス様が作りますよ。あなた好みの味も。」
少し悲しみを残した微笑み。ホーフェン卿はほんの小さく、だが何度も頷いてくれた。ホーフェン卿は懐かしさからなのか、さらに続けた。
「そのうち、味噌の種類やうどんの汁の色で争う日が来ますか。」
ああ、来るかもしれない。転移者や転生者が、東と西、あるいはそれぞれの地域に分かれ、料理の味付けで戦う日が。この剣と魔法の世界で、少数派の異邦人が、そうやって平和に争う日が。
来るのかもしれない。料理以外の科学も進み、あの世界の便利な道具にかこまれる日が。
「真空管が作られ、トランジスタが作られ、いつかコンピュータが作られ、宇宙へ出ていく日も来るかもしれませんね。転移者は寿命が長い場合もあるようですから、私たちも見られるかもしれません。この世界には、魔法という便利なものがありますから、案外、近い将来かもしれませんよ。」
そしていつの日か……。
「魔法でできないことを科学が、科学でできないことを魔法が。」
俺の独り言のようなその言葉に、ホーフェン卿はじっと俺の目を見た。風はもうやんでいる。
「……来ますか。」
ホーフェン卿が何についてそう言ったのか、俺にはわかった。だから答えない。もう一度強く風が吹いて、誤魔化してくれればよいとさえ思った。
時が止まったかのような感覚。目が瞬きを忘れていた。月明りが雲に呑まれ、あたりを黒くそめてくれればよいと思った。
ついにホーフェン卿が目を逸らし、大きな大きなため息をつく。そして、
「……来るかもしれませんね。」
そう言った。
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「ええと、ホーフェン卿、やはり『様』はやめませんか。」
ため息ばかりのためいき卿は、いつものため息を吐いて、結局俺の願いを受け入れなかった。
「いえいえ、魔導魔術師たるもの、尊敬する方には敬意を払うものですよ。」
また同じようなことを言う。前は『力量が優れた』だったか。
たしかに俺は、魔法の剣を作ることに関しては少しばかり自信を持ってきている。この腰にある光の剣もそうだし、『剣の加護』持ちのマークやグレンに認められたものだ。また、アラモスに渡した剣は、魔剣をも斬った。
しかし、ホーフェン卿の『尊敬』とはなんなのか、全く俺には理解できない。
俺は、一人で悩み、一人で考え、それでも結局何もせず、全部まわりに流されているだけだ。尊敬される要素なんて一つもない。
ホーフェン卿の言葉を聞いて、少し怒りを感じた。彼や彼の言葉にではない。俺自身にだ。
もう辺りには風が無く、少ない篝火のせいで感じていた辺りの暗さにも慣れてしまっていた。それに、炎の影に揺らされていた見張りたちも、身じろぎ一つすることもない。
ただ火に赤く照らされた屋根を見つめていると、自分でもわからない感情に胸の中がぞわぞわと騒ぐ。
虚しさ、嬉しさ、怒り、悲しさ或いは哀しさ、そのどれでもない、寒くもないのに身震いするような、しかし震えることのない何か。正でも負でもない、光でも闇でもない……。
一人で知らない街に行く時に感じる、現実を現実とは思えないような、憂い、愁い、知らない遠い街への郷愁とでも言えばいいのか。あの感覚に似ている。
ああ、こういうときは、酒を飲むに限る。早く王都にいって、マークたちと出会えればマークたちと、そうでなければ一人でしんみりと。
旅人の休憩所でホーフェン卿と別れ、布と藁に包まって目を閉じる。いい匂いではないが、そんなに悪い臭いでもない。
明日には村を出られるはずだ。出発は早い、もう寝なければ。




