第一部第一話:システムの起動を確認しました
鳥のさえずりと、風が木々を騒めかせる音。
――夢からやっと覚めたか……。嫌な夢だった。
蹄の音が聞こえる。
――……蹄?
「……いやいやいや、15時!」
目を開け、飛び起きると、すぐにカバンを探した。
――ない!!! まずい、ノートPCがないと仕事にならない!……そうだ!15時!
すぐに腕時計を確かめる。しかし、腕時計もない。時計を探し、周囲を見渡す。
そこで俺は呆然となった。
生い茂る木々。そこから差す日の光。舗装はされていないが、小道。
――いつの間に公園に……いや……事故にあって……そう……黒いミニバンにはねられて……。
怪我を確かめようと自分の姿を見てしばらく思考が止まった。
薄汚れた、元は白かったであろうローブ。そしていくつかの装飾が施された茶色のマント。腰には柄に宝飾のある小剣。左手の中指には透明な石がはめ込まれた指輪。剣とは反対側の腰に下げられた小さな革袋の中に幾ばくかの貨幣。身体中をまさぐった。
――……いや、そんなことよりPCがないと仕事が!
夢の中と同じく、現状認識が追いつかない頭で、仕事のことを思い浮かべる。
PCの中にある手順書とスクリプトがなければシステムは復旧できず、あの社長の罵声は止まらないのだ。もしミスをして取引を切られるようなことがあれば、小さなウチの会社にとって、死活問題だ。
少なくともデータだけは保全して、別件を終わらせた後に駆け付けて来るであろう技術職の連中に真っ当に引き継がなければ!
目の前にノートPCのディスプレイが現れた。見慣れた起動画面。そう、目の前に突然。ボゥっという音と共に。ただ、後方が透けて見える。透過性ディスプレイのようだった。
最初に目に入ったのは、『ReadMe!』とかかれたテキストファイル。
デスクトップに置いてあるアイコンは、いくつか見慣れないショートカットはあるものの、使用していた時のままだ。しかし……キーボードはない。
イン側とアウト側に回転させて使用するカメラがディスプレイの上部に付属している。これは社長がどうしてもこの型がいいと言って譲らなかったため、使用したことがなかった。
つまり、事故に遭ったときに持っていたPCと同じもののはずだ。
マウスもキーボードもなく、本来キーボードに付属しているはずのスライドパッドもない。
今、俺が置かれた立場が理解できないこととは別に、『ReadMe!』を開こうとするのはもはや習性とも言えるかもしれない。マウスカーソルが現れることもなく、開こうと思った瞬間にディスプレイ内にウィンドウが開かれる。見慣れたテキストエディタ。
蹄の音がさらに大きくなり、ファイルの内容に目を通していた俺がそちらを見ると、小さな馬車が急いでいる様子もなくこちらへ向かってきていた。
人間は、理解できないものが近づくと、恐れ、逃げようとするものだと改めて思う。俺はすぐに林の中へ入り、小道から見えないよう木の陰へ逃げ込んだ。
隠れようとした俺が見えていたはずだが、それを特に気にする様子もなく、のんびりと馬車は通り過ぎていった。
ゆっくりとファイルの内容に目を通すことができたのは、蹄の音が全く聞こえなくなってからだった。
要約すると、こういうことになる。
俺は今、昔遊んでいた『ウィザーズ・オンライン』というゲームに似た世界にいる。
ただし、全く同じではない。
そして、そのゲーム上で、最後にログアウトしたキャラクターに極力似せた能力を持った身体に転生している。
持ち物はそのとき装備していたものをこの世界で実現できる可能な範囲で実現してある。
また、前世で所持していたものを一つだけ、この世界で実現可能な方法で所持している。
――まさか。夢に違いない。
ただ、もしこれが現実だとしたら……突然俺が消えたとしたら……しかし、悲しむ者の姿は思い浮かばなかった。
35歳、独身、長男、ただし両親は既に他界、兄弟は弟がいるが今では疎遠、恋人もおらず、特に親しい友人はいない、同僚は嫌いではないが、同じく特に親しい者もいない。
平日は会社とアパートを往復するだけだし、休日は一人でゲームをする程度、そんな俺が……突然姿を消したとしても、主にウチの会社に少々の混乱はあるにせよ、誰かが悲しみの涙を流すとは思えない。
一人、社長は、前任SEのように俺が逃げたと思って怒り狂うだろう。
――……ちょっと待てよ。
俺はそのオンラインRPGに当時、相当のめりこんでいた。
いわゆる剣と魔法のファンタジー世界で、最初に攻撃系魔法使いを極めた後、いくつかのキャラクターを作成して、物理攻撃職から支援魔法職、盗賊系職まで、ほとんどすべてのスキルを経験し、生産系、つまり鍛冶や裁縫、彫金、料理に至るまで、ほとんどのスキルをそれなりの技量まで成長させていた。
具体的な役割の名前がないのは、このゲームはスキル制であったからだ。剣士や魔法使い等の呼び名は便宜上のものであって、システム上は職業は存在しない。
剣を使って攻撃することが得意な、つまり剣の技量が高い者を剣士と呼び、攻撃魔法が得意な者を攻撃系魔法使いと呼んでいた。
魔法には四つの区分があり、
いわゆる地・水・火・風の四大元素と光・闇の精霊の力を借りる、精霊魔法
この世界のあらゆる場所に満ちる魔力を詠唱と魔法陣によりあらゆる力に変える、魔導魔法
この世界で信仰されている神の力の顕現である、神聖魔法
そして、力を引き出す紋章を組み合わせることで使用する、紋章魔法
となっている。
ただし、紋章魔法は、いわゆる便利魔法であって、いくつかの紋章を組み合わせて、たき火用の火を起こしたり、緊急時の飲み水を確保したり、本人の技量に依るとはいえ、戦闘に使用するものではなかった。
主に生産職のキャラクターがスキルを持っておくといくらか本職が楽になる、といったものであった。
そのため、当時、このゲームのサービス開始から終了まで、紋章魔法を極めようと思った者は俺の知る限りいなかった。……俺自身を除いては。
紋章魔法極めたヤツいないよね、極めたらどうなるんだろう?
丁度戦闘スキルを持たせてない彫金技能専用だったキャラクターで極めてみた。
……そう、どうにもならなかったのだ。
紋章魔法は記憶している紋章の組み合わせで使用する魔法が効果を発揮する。
世界中を駆け巡り、ありとあらゆる紋章を集め、最強の組み合わせとなるであろう魔術を作成し、その結果、魔導魔術師が駆け出しで覚える火の玉の魔法と同程度のものが発動した……。
その時は少し落ち込んだが、その後、どうなるかわかっただけでも満足としようと思ったものだ。紋章を集める際に自己防衛用の剣術だけは人並みに技能を上げてあったが、その弱さは他のキャラクターに比べるまでもない。
このあたりで、ウィザーズ・オンラインのサービス終了が囁かれ始め、情熱が覚め、すっぱりとこのゲームをやめてしまったことを思い出した。
――……この装備、見覚えが……まさか……。
俺はもう一度『ReadMe!』を読み返す。
『……最後にログアウトしたキャラクターに似せてあります。』
としっかり書いてある。
つまり、当時最強最悪と呼ばれた超攻撃系魔導魔術師でもなく、剣聖に並ぶと称された龍殺しの剣士でもなく、魔王か龍でもなければ、破られない防御結界を展開する聖職者でもなく……最後にログアウトしたキャラクターは、まぎれもなく、便利な魔法が使えてちょっと剣の使える彫金師であったのだ。
思い出したくもなくなってきたが……彫金のスキルはなかなか上げ辛く、戦闘のほうが好きだった俺は、結局彫金を極めることなく、そこそこの物を作れるようになって満足していた。
装備も適当で、戦闘力上位のキャラクターのあまりものを渡すのも面倒、裸でなければいい、と初期に店で売っていた装備のみ。
一応魔法職なので指輪だけは魔導魔術師のおさがりを持たせていたが……。
つまり、結局のところ、この身体は、この転生された身体は、一般人よりちょっと彫金ができて、剣術だけは人並みな、便利魔法使いであった。
ディスプレイには、まだデスクトップが映っている。
『紋章』という名前のフォルダへのショートカットを見つける。
開いてみると、このキャラクターで集めた紋章が大量に、画像サムネイルとなっている。よく使うものは記憶に残っていたが、俺自身が全部を覚えているわけではない。
多分、本来はありがたい措置なのだろうと思う。
火の玉つまり魔導魔術で言うところの、火弾の紋章術式は覚えていたので、さっと見て確認だけする。
ちなみに、ご丁寧にタグ付けまでしてあって、紋章を探すのに苦労することはなかった。
なお、検索はキーボードで文字を打たなくても、思い浮かべるだけで検索ボックスに文字が入力されることがわかった。
他のテキスト入力もそうなのだろう。
神は信じていないので、対象もわからず祈りながら、二つの意味で希望を込め、魔法を使ってみることにする。
一つ目は、この状況自体が夢ではないかという希望。二つ目は、最後にログアウトしたキャラクターがこの中途半端な便利魔法使いではなく、超凶悪な別のキャラクターではないかという希望。
他のキャラクターは紋章魔法で火の玉は打てない。紋章魔術のスキルは、このキャラクター以外では、本当に必要な分、他の魔法で言えば最初期に覚える魔法を使えるまでしか上げていない。
デスクトップには、ご丁寧に『紋章魔法の使い方(初心者の方へ)』という解説もあった。
集中して自分の魔力を集め、思い浮かべた紋章を配列させ、魔力をそこに流し込む、という作業は簡単に行うことができた。
ちなみに、自分の持っている技能のうち、前の世界にはない法則に則るものについては、同じように初心者解説へのショートカットが置かれていた。
あの、無表情な人物の親切心なのか……いや、多分、そういう決まりだからそうしたのだろう。あの事務的な、無機質な顔と声を思い出してそう思う。
――火弾
と声に出す。
声を出すのは、魔力を注ぎ込むタイミングを取るだけのための、意味のない儀式のようなものだ。詠唱が術式に組み込まれた魔導魔法とは違う。
思い浮かべた紋章が光の文字で前方に浮かび、魔力が流し込まれる順により強く光る。全体がそうなると、全ての光る文字が収束し、火球を形成した。
そしてそのまま、狙った大木へと飛翔し、直撃したと同時に爆発を起こす。
たしかに元の世界でこれを行うことができれば、ちょっと恐ろしいことになるのだろう。だがここは、剣と魔法のファンタジー。
おそらくだが、広域殲滅魔法や結界内核撃魔法等を使用する者もいるはずだ。……俺の別キャラクターのように……。
大木は倒れず、表面がえぐられたが、その傷からすると、おそらく樹木の生命を失わせるほどの威力はない。
実験に使って申し訳なかったと、この弱い身で思いながら、飲料水確保魔法で作成した水を手のひらで受け、のどを潤す。
渇きが癒えると、この魔法がゲーム内において、プレイヤーに『生活魔法』と蔑称されていたことを思い出し、しばらくの間、うなだれることとなった。
2016/04/19:[修正]改行と空白文字調整
2016/04/23:[訂正]不自然な接続詞を消去訂正
2016/04/23:[修正]改行と空白文字調整
2016/04/23:[修正]目覚めたときの風景表現
2016/04/23:[訂正]不要な表現の削除