今、僕は恋に落ちる
彼女に恋をしたのは昨日のこと。そして今日、僕は朝一に彼女を空き教室に呼び出した。
「好きです」
目の前の彼女は、明らかにたじろいでいる。顔を紅く染めて、まるで告白されたのは初めてだというようだった。
だけど彼女がこの先に続ける言葉を、僕は予想できていた。
「あたし、彼氏いるの。だから、ごめんなさい」
口元に手を当てて、言いにくそうに言葉を紡ぐ。
「それでもいいって言っても?」
彼女に恋人がいることは知っていた。彼女は電車通学で、僕も電車通学だ。駅で何度か見かけたことがある。
しかし純情そうな彼女は、やはり純情そうな答えを出した。
「あたし、彼のことが本当に好きなの。だから、他の人と付き合うなんて、とてもじゃないけど考えられない」
小さく首を振りながらそう言った彼女は、ちらりと僕の表情を窺った。僕は両の手を重力に任せて左右におろし、ただまっすぐに彼女を見つめている。
僕は彼女の艶やかな黒髪が好きだ。漆黒の垂れた眼が好きだ。しなやかに伸びる手足が好きだ。
一心に目を逸らさない僕に見かねて、彼女はまた顔を下げてしまった。
「あなた、二組の奈津井くんよね? あたし、あなたと全く話したことないのに、本当に好きなの?」
「話したことがなくちゃ、好きになっちゃいけない?」
「そうじゃないよ。少し気になっただけ。あの、付き合う事はできないけど、友達にならなれるよ。せっかく話せたのに、このまま終わりなんて寂しいよね。友達にならない?」
それは願ってもない誘いだった。もちろん一度断られたくらいで諦める気などさらさらなかったが、彼女から言ってくれたのなら、彼氏への罪悪感も少ない。
「ありがとう。沼井さんは優しいね」
僕が傷つく事がないよう、彼女はそう提案してくれたのだ。ようやく上げてくれた顔を、彼女は照れくさそうに綻ばせた。
***
僕は決して、根暗と言うわけではない。クラスメイトに話し掛けられれば普通に会話するし(この場合の普通は、まあ明るくもないが素っ気無くもなく返事するといった感じだろう)、休憩時間に一人で本を読むなんてこともしない。せいぜい窓から外をボーっと眺めるくらいだ。
「奈津井っ!」
四限終了のチャイムが校内に鳴り響いた。昼休憩が始まる、と席を立とうとしたところで、クラスメイトに声を掛けられる。
間宮宗一郎。つりあがった一重に、床屋ででも切ったような短髪は決して美形とは言えないが、程よく焼けた肌と活発そうに常に上がった口角は、明るくとっつきやすい性格を一望させてくれる。
僕に気軽に声を掛けてくる、数少ない人間の一人でもあった。
「朝一に聞きたかったんだけどさ、ほら今日、教室移動続いたじゃん? で、いつ告白んの? 今日中には言うって言ってたじゃん」
「もう言った」
「へー、そう……って、いつだよ!」
「朝。教室来る前」
「はあ? だったらさ、教室来てすぐ俺に報告するべきじゃない? ――あー、今行くって。ちょっと待ってろ」
僕と話していたところで、間宮は別のクラスメイトたちに呼ばれた。購買に行くらしいその生徒たちは、「先に行く」と言い残して教室を出て行く。間宮の周りから、人が絶えた事は恐らくない。
「行かなくていいの? 俺も沼井さんのところ行くから、もういいかな」
「OKもらえたの?」
明らかに僕の口調は彼を嫌悪している。だけど気付かないのか無視しているのか、間宮は何の気なしにそう訊ねてきた。
その手が、さりげなく左右の机に置かれて僕の行く手を阻む。思いきり、その腕を嫌そうに見てやった。
「まさか、だろ。彼氏がいるから無理、だってさ。いい子だよね」
「ああ、いい子だな。いい子すぎて、俺には理解できねえけど」
くっと、間宮はバカにしたように笑う。彼は沼井 凛が嫌いなのだ。
「でも、かわいいし、優しい」
「好きだねえ」
「好きじゃなきゃ、恋愛なんてできないだろう?」
一瞬、僕を哀れむように間宮が笑った。「そーですね」なんてふざけたように口にしてから、踵を返して教室を出て行く。
僕は別に、間宮が嫌いなわけじゃない。僕が沼井さんを好きになる前から、間宮は僕によく話し掛けてくれていた。多分向こうは、僕が「間宮は友達だ」といっても、笑って頷いてくれるだろう。
それでも僕がこうして間宮に対して嫌悪するのは、彼が沼井さんを嫌うからだ。自分の好きな女性を嫌われるのは、やはりどこか腑に落ちない。
***
沼井さんのクラスは六組だ。ほぼ端と端に分かれている僕らの教室は、一本の廊下だけが繋いでいる。僕はそこを、脇目も振らずに歩いた。
教室の中では、すでに沼井さんが数人の女子とお弁当を開いていた。普通なら遠慮すべきかもしれないが、何分今の僕に、周りなんて見えていない。
「沼井さん」
六組に入っていけば、僕は真っ先に彼女に声を掛けた。面食らったように、沼井さんは僕を見上げてくる。
「一緒にご飯、食べたいんだけど」
「でもあたし、今みんなと食べてるし」
「それ終わったら、僕に付き合ってくれるだけでもいい」
「え……、でも」
あたりの友人を、助けを求めるように見回している。その中の一人が口を開いた。
「奈津井くん、凛と仲良かったっけ? 凛さ、彼氏いるんだよ」
「知ってるよ。僕は沼井さんの友達。それ以上は、別に望んでない」
なんて、嘘をつくのも簡単だ。でも、たかだか友達に、僕の本音を語ってやる義理はない。もう一度僕は、視線を沼井さんに移した。
「……迷惑、かな?」
「そんなこと……」
優しい沼井さんは、僕が少し悲しげな顔をしたら、良心を痛めつけられたように眉を寄せてくれる。
だけど僕は、彼女と違ってお優しい人間でないから、そんな隙に付け込むんだ。
「じゃあ何が君を迷わせるの? 彼氏? 沼井さんの彼氏は、彼女が友達と昼食を取るのも禁止するの?」
「そんな人じゃないわ」
「じゃ、行ってくれるよね」
その後は、僕は有無を言わす間もなく沼井さんの手を引いた。体力は人並みにあるから、華奢な沼井さんじゃ、振り払う事もままならない。
「ちょっ……! 奈津井くん!」
沼井さんの制止を促す声は、ただの音となって空中に消えた。
中庭に来れば、僕はお弁当を開いて黙々と食べた。隣には沼井さんが、怪訝そうに正座している。
「中庭でご飯食べる人、初めて見たわ」
「そう? 僕は中庭好きだよ。休み時間や放課後も、よく眺めたりする」
「ふーん……?」
それきり、僕らは黙った。僕から話題提供することはなく、痺れを切らした沼井さんが再び口を開く。
「ねえ、奈津井くん? 誘ったなら、せめてもう少し何かしゃべってよ」
「僕には君の楽しめる話が分からないから。沼井さんが話して」
箸でウインナ―を掴んで、それを運びながら言う。横目で見た沼井さんは、小首を傾げて目を細めていた。
「だったら、どうしてお昼に誘うの?」
「沼井さんと一緒にいたかったから」
「……あたしたち、友達よね?」
「今はね」
あ、困った顔した。
僕は緩む頬の筋肉を、唇を飲み込むことでグッと堪えた。コロコロと表情が変わって、沼井さんは本当にかわいい。
「ずっと、友達のつもりよ」
「でも、この先何が起こるかなんてわからないだろう? 確かに僕らはこのままずっと友達かもしれないし、昇格するかもしれないし、……降格するかもしれない」
「……友達がいいわ」
それはどっちにたいして言っているのか、僕は見定めるように眼を細めた。少しは脈ありだろうか。
それっきり、僕は黙り込んで再び食事に集中した。もちろん僕は、このまま彼女と友達でなんてい続ける気はないし、だからといってこの会話を続けても、もう埒があかないだろう。
僕は慎重派ではないが、バカでもない。
「ねえ、奈津井くん。訊いてもいい?」
「何?」
「どうしてあたしが好きなの?」
ピタッと、箸が止まった。無機質に、沼井さんを見る。彼女の視線は訝しげだった。
「いつから、好きなの?」
「それに答えたら、君は僕を好きになってくれるの?」
「ちゃかしてる?」
「まさか。真剣だよ。でも、僕がその質問に答えて、君はいい思いをするかな。僕の気持ちを疑うかもしれない」
「疑われるような気持ちなのね」
ただ素直に、彼女がそう口にする。純粋な少女だと思った。また一つ、彼女の好きなところが増える。
「好きになったのは、一目ぼれに近いんだ。それだってちゃんと理由があるけど、一目ぼれってそれだけで、疑わしいものに見られてしまうし」
ゆっくり、沼井さんは瞬いた。やはり疑っているのか。
「確かに、一目惚れは信用度低いけど、別に疑いはしないわ。ちゃんと話してくれれば、納得できる理由かもしれない」
「……優しいね」
パッと、照れたように沼井さんの顔が下がる。優しいと言われることになれていないのか。いや、そんなことはないと思うが。
「僕は、そんな優しい沼井さんが好きだよ。照れ屋なところも、純粋でまっすぐなところも、短くても絹みたいにさらさらな髪も、丸い目も、華奢な体つきも」
「ちょっ……、なにもそこまで」
「本当にそう思うんだ。沼井凛を作り上げている君の全てが、僕には愛しい」
普通に聞けば歯の浮くような台詞さえ、今の僕には躊躇なく紡ぐことができる。こんなに好きになれるなんて、恋とは本当に病気だ。
「あたし……、」
「いいよ。今は何も言わないで。僕もさすがに、二度も振られたくはない」
苦笑混じりにそう言って、僕はお弁当箱に蓋をした。彼女の言葉も、そこに一緒に閉じ込めてしまう。逃がさない。そのために、僕は僕の有利になる言葉にしか耳を貸さない。
お弁当箱を鞄にしまう。彼女はそれを黙って見つめていた。
「また、一緒にご飯食べてくれる?」
「え」
「……今度は最初から。ちゃんとお弁当を持って」
目を細めて笑顔を向けながら、やんわりと提案してみた。正直、先ほどの告白は、なかなか体を成していたと思う。
その証拠に、彼女も今度は、はっきり断る事をしなかった。
***
朝が来た。昨日彼女に思いを告げた時間がもうすぐめぐってくる。僕は玄関に入った。
二組と六組の靴箱は、間のクラスの靴箱で隔てられているため、正直朝は、彼女に会える期待もなかった。
しかし僕が内履きに履き替え教室に向かおうとした時、ふいに一番愛しい人の後ろ姿が目に付く。
「沼井さん?」
見間違えるわけはなかったが、一応疑問形に問い掛けてみた。柔らかな髪が翻り、彼女の使っているものだろうシャンプーの匂いが鼻を掠める。
「奈津井くん」
驚いたように、彼女は瞬いた。朝は一人で登校しているのか、周りに友達の影はない。
「おはよう。いつもこのくらいの時間にくるの?」
「う、うん。奈津井くんも?」
訊ねながら、段々と沼井さんの視線が下がっていく。心なしか、彼女の顔が紅い。
「熱でもある?」
僕が彼女の顔を覗こうと身を屈めると、間髪いれずに沼井さんの顔が逸れた。さすがにここまでされて何も感付かないほど、僕は鈍感じゃない。
彼女は僕を、意識している。
「熱なんてないわ。朝は体温が高いの。それだけよ」
「そう? だったら別にいいんだ。教室まで一緒に行く?」
にっこりと笑って問い掛けた。彼女はふるふると首を横に振る。朝の玄関は人が多く、今も行き交う人々が、留まる僕らを邪魔そうに見ている。それに気付くと、僕は肩を竦めた。
「そっか。じゃあ、またね」
「え?」
心底意外そうに、沼井さんが顔を上げる。僕は背を向けようと一歩後退させていた足を、ピタリと止めた。
「何?」
「……な、何でもない。今日も強引に連れられるのかと思って……」
半分放心したようなその声で、何となく、彼女はそれを期待していたのだろうと思った。
だけどそんなことには気付いていないように、僕はただにっこりと笑う。
「たまには引く事も必要でしょう? じゃあ、またね」
軽く片手を上げてから、今度こそ身を翻し、僕は教室へと足を向けた。
「朝からラブコールおくってたな」
長針が四十五分に近付く。もうじきチャイムが鳴るだろうとぼんやり考えていたら、時計が間宮の顔に変わった。
「厭味なら明日にしてくれないか」
「何だよそれ。明日なら嫌にならないのか」
「明日にならないと分からない。変わっていないか、嫌いになっているか、もっと好きになっているか」
「おまえの言うことは本当に面白いな」
くくっと、間宮は噛み締めるように笑った。この笑顔は嫌いじゃない。沼井さんについてでなければ、僕は間宮に負の感情は持たない。
「でも、確実に進歩はしてるんじゃねえの? 今日は遠くから見ただけだけど、あいつ、結構お前に気があるように見えたよ」
「あるんだよ」
頬杖を着いて眼を伏せた。きっぱりと言い切る。
僕の机に手をついていた間宮が、僕の顔をうかがうように僅かに身を屈めたのが、影の動きで分かった。
「近いうちに落とせそう?」
「俺は沼井さんの彼氏より顔いいからね」
「ははっ。男は顔より中身だろ? お前みたいな厭味はモテねえよ」
「ご心配なく。好きな子の前では難なく自分を偽れる」
「それはそれは」
間宮の声とチャイムが重なった。ふと開いた目に、肩を竦める間宮が映る。彼は、そんな行為も厭味に見えない。これは一種の才能だろうか。
席に戻っていく間宮の背中を、僕はそっと盗み見た。
*
その日の昼休み、僕は沼井さんの所へは行かなかった。彼女は僕を意識している。彼氏から彼女の心を奪い取るチャンスは、今しかないと思った。
しつこく会いに来ては、熱烈に思いを伝える人間が、打って変わって会いに来なくなれば、それまで気にしていなくても気になるのも。それが元々気になる人間ならなおさらだろう。もしかしたら、彼女の方からの告白が聞けるかもしれない。
そう思って午後を過ごしたら、あっという間に放課後になった。
終礼が済むなり、僕は教室を出る。今日はさっさと帰ろう。そう思って玄関に向かう途中、中庭の隅に見知った影がうずくまっているのを見た。
「沼井さん」
僕が声を掛けると、丸まっていた背中がびくりとはねる。ゆっくり、顔がこちらに向いた。
「……泣いてるの?」
彼女の頬には、幾筋もの涙のあとがある。瞳にはまだ、たくさんのそれが浮かんでいた。
「沼井さん」
「……何でもないわ」
搾り出したような声がそう紡ぐ。人目につかないよう泣いているつもりだったのだろうが、普段から外を眺める癖のある僕には、それを見つけることは必然だった。
「放課後一人で泣いていて、何でもないは納得がいかないよ。友達にも相談できない事? 僕でよければ話聞くよ」
「奈津井くんも、友達でしょ」
「でも僕には、君に想いを寄せているというオプションがある」
冗談ぽくそう言いながら、僕は彼女の手を引いて立たせてやった。近くにあるベンチに一緒に腰を降ろす。
「何があったの?」
「……」
「僕が会いに来ないから寂しかった?」
「…………さっきから、余計な言葉が多いと思うわ」
「じゃあ黙るから、せめて泣き止んで」
僕は身を屈めて、低い位置から彼女の顔を覗き込む。言わずとも、涙自体はとりあえずおさまったようだった。
「……彼氏に」
不意に吐かれた声は、そこでいったん止まった。僕は先を促すように首を傾げる。
「……彼氏に、怒られたの。俺以外の男と話すなって。あたし、奈津井くんは友達だって言ったわ。でも、彼はそれでもダメだって言うから、あたしもムキになっちゃって……」
「僕のために?」
「都合よく考えるのが得意なのね」
迷う素振りもなくそう言う僕を、沼井さんは呆れたように見てきた。ここで僕が明るく振舞う事が、僕なりの優しさだと、彼女は感じてくれはしないのだろうか。
だけど続く言葉は、僕の願ってもないものだった。
「でも多分……、あなたのために」
屈めていた体を起こして、僕はまっすぐに彼女を見詰めた。彼女も僕を見返してくる。
「あなたはまっすぐすぎて、あたしはいつもドキドキしっぱなしなの」
「そんな僕が好き?」
「……好き」
たった二文字だった。たった二文字が、沼井凛の口から紡がれるだけで、最高の二文字になる。
僕は決して、まっすぐなんかじゃない。けれど彼女からこんな言葉が聞けるなら、嘘でも僕はまっすぐで、一心に彼女を思える人間になれるだろう。
「彼氏より、僕を選んでくれるんだ?」
「彼とは、もう終わり掛けだった。奈津井くんのおかげで、あたしは彼がいないときも幸せに過ごせたの」
沼井さんの手が、僕の手に触れた。それを合図に二人の距離が縮まる。三十センチから十五センチに。十センチ、八センチ、三センチ……。
僕らの唇が触れるのは、あまりにも自然だった。自然で、至福だった。
そしてこれが終わりである事も、僕は予感していた。
パチ、パチ、パチ。
単調に鳴る音。それは掌を打ち付ける音。
僕の背後から聞こえる音に、先に反応したのは沼井さんだった。
「いやー、いいもの見してもらったよ。さすが奈津井」
名前を呼ばれて、僕もそちらを振り返る。つりあがった目は細められ、唇は楽しげに弧を描いている。それは、いつもと同じ間宮の表情だった。
「宗一郎……」
魂が抜けたような声で、沼井さんが間宮の名前を呼ぶ。僕は横目で彼女を見た。
見開かれた目は、大きな眼をさらに大きく、丸く見せる。ここに間宮がいることが、相当意外だったらしい。
「……どうして? しばらくはバイトがあるから、早めに帰るって……」
「ああ、あれ? 嘘」
「う、そ?」
沼井さんは、本当に魂が抜けたようだった。沼井凛の彼氏。それは紛れもなく、ここにいる間宮宗一郎だ。
「お前さ、すっげえ浮気性じゃん? ああ、俺にはばれてないと思ってた? 甘いんだよ。ただ振るだけじゃ面白くないからさ、こうやって浮気現場見るの待ってたんだよね」
「違うの、あたし……!」
「しおらしい女演じて、いろんな男と付き合ってる事くらい分かってんだよ! 奈津井が今週中にお前を落としてくれるって言うからさ、こうやってずっと様子見てたわけ」
間宮が肩を竦める。厭味を込めたその動作は、ちゃんと厭味っぽく見えた。なるほど。僕にそう見えなかったのは、あの時は本当に厭味のつもりはなかったからなのか。
ガッ、と腕が掴まれる。見れば沼井さんが怒りとも悲しみとも取れない顔で僕を見上げていた。
「奈津井くんも、嘘だったの? あたしのこと好きって、嘘だったの?」
ゲームセット。そう思ったとき僕の表情は冷たくなった。彼女に対して、先ほどまでの情熱が微塵も感じられない。
「好きだったよ。俺は誰に対しても、ちゃんと好きになって接する。だから君も俺を好きになったんだ。でも、ごねんね。俺の恋愛はいつだって、擬似にすぎない」
フッと、沼井凛の瞳から光が消えた。振り払うように僕の腕から手を離す。
「っつき、うそつき! こんなの最低よ!」
「間宮と上手くいってないなんて嘘ついて、俺と付き合おうとしていた君だって十分最低だ」
「全くだな。しかも奈津井が初めてじゃないときたからね。凛、よく聞けよ。奈津井は女を本気で好きにはならない。男を騙す最低女を懲らしめてくれる、“男の味方”、なんだよ」
間宮が僕の肩に腕を置いて、ニヤニヤと笑いながらそう言った。僕がそれを肯定した事はないけれど、否定するつもりもない。
恋愛壊し屋 (カップルクラッシャー)。僕に女を懲らしめて欲しいと頼んでくる男達は、決まって僕をそう呼んだ。
「宗一郎……。ごめんなさい、許して」
沼井凛が、縋るように間宮に手を伸ばす。彼女の本命が間宮なことは間違いないが、かわいそうに。間宮は沼井凛が“大嫌い”だ。
パンッと、間宮が沼井凛の腕を振り払う。冷たい音が野に響いた。
「触るな。二度と俺に近付くんじゃねえよ。あと、奈津井がこういうことしてることもばらすなよ? 言ったらお前が遊んでる男達にも、お前の本性ばらすからな」
早口にそう告げれば、間宮はさっさと踵を返す。僕もあとに続いた。
沼井凛の本当の悲しみが、これから彼女を蝕んでいく。
*
玄関では、間宮がただ満足そうに笑っていた。
「けどさ、昨日今日は結構焦ったよ。お前凛にマジで惚れてるみたいに見えてさ〜」
「本気で惚れてたんだよ」
「は?」
僕が認めたことに、間宮は目を丸くした。
「俺が惚れてなきゃ、相手を落とす事なんてできない。それこそ他の浮気相手と同じに見られる。少なくとも他より好きになってもらわないと、真実を話したときの傷の重さが違う」
「つまりさ、お前は女が嫌いなんだよな」
「沼井凛みたいなのはね」
しおらしさを見せながら、僕と友達になろう言ったり、僕に強引に迫られるのを期待してみたり。
男を騙す優しさも、照れ屋に見せかけて惑わすところも、純粋でまっすぐな女を演じるところも、短くても絹みたいにさらさらな髪も、丸い目も、華奢な体つきも。沼井凛を作り上げる全てのものが、僕は嫌いだ。
「奈津井、じゃあこれ、約束の金な」
今回の労働費ということで、僕は間宮の差し出す金を受け取った。擬似恋愛でもなんでも、これは一種のビジネスだ。
僕が金をしまい終える頃に、靴を履き替えた間宮が口を開く。
「じゃあ、また明日な」
「……間宮」
「何?」
小さく首を傾げて、間宮が僕をまっすぐに見てきた。
「もうあんな女に引っかかるなよ。俺、お前の恋愛はあまり壊したくない。……友達だから」
言い切っていいものか分からないくて、僕は視線を逸らしつつそう言った。どんな反応をしてくれるかと、盗み見るように彼に眼を移すと、そこにはニイッといつもの笑みを浮かべる間宮がいた。
「サンキュッ! 任せろよ。じゃあな奈津井、バイバイッ!」
大きく片手を挙げて、間宮は小走りに校門を出て行った。僕は、なんだか満たされた気分で彼を見送る。
恋愛なんかより、僕にはこういう瞬間が輝いて見える。恋愛は一瞬でも、友情は永遠だ。
肩にかけていた鞄を持ち直すと、僕は下足を開けて靴を履き替えた。玄関を出ようとしたところで、
「奈津井くん」
ふと呼び止められる。振り返った先には、一人の男子生徒がいた。どこかで見たことがある。確か同じ学年だ。
「あのさ、奈津井くんが恋愛壊し屋だって噂聞いたんだけど。最低な彼女を懲らしめてくれるって本当?」
「……」
どこか気のよさそうな男が、僕の機嫌をうかがうようにそう尋ねてくる。その疑問には、僕は答えない。
「懲らしめて欲しい女がいるんだ。話、聞いてくれるかな」
無感情に彼を見ていた僕だが、不意に表情を緩めた。
「いいよ。話を聞いて相手の状況調べて、最低女なら俺がそいつを堕としてあげる」
僕以上に、女を嫌いな人間は恐らくいない。
嫌いすぎて、自分の感情を操れるまでになったなんて、時折そんな自分に恐怖するくらいだ。
それでも僕は、女を壊す。そのために、
今、僕は恋に落ちる。