第6話 - 「約束の時」
楽しい刻、幸福な時間はあっという間に過ぎ去って行く。
リュノスにとって、十年の歳月は瞬く間に過ぎていった。
隣国との戦もなく、不穏な気配はどこを探しても見当たらない。
天候に恵まれ豊作が続いた。民の生活は潤い、国は平和を享受していた。
五年前には、ミュレットが男子を産んだ。難産であった事もあり、もう次の子は望めないと医者には言われたが、それでも後継者たる息子を授かることが出来たのだ。
リュノスとミュレットは、息子にレティウスという名を付けた。この国の言葉で『希望』を意味する名だ。
二人は『目に入れても痛くない』とばかりに可愛がり、ハンスには「親馬鹿だな」などと言われる程であった。
全てが順調で、一点の曇りもない穏やかな日々。
そんな中、リュノスは突然の来訪を受けた。
「久しぶりね。私のことを覚えているかしら?」
強い風が巻き起こったかと思うと、執務室で書類に目を通していたリュノスの前に、突然、黒いローブを身に纏った女が現れた。目深に被ったフードで口元しか見ることはできなかったが、妖艶な美しさを持つ女だと直感した。
「どう? 私を覚えてる?」
「誰だ! 一体どこから入った!?」
リュノスは壁に立てかけてあった剣を掴み取ると、低く鋭い声を上げた。
「そう……忘れてしまったのね。残念だわ」
「応えろ! 貴様、何者だ!」
剣を抜き放ったリュノスは、悲しそうに呟く女にその切っ先を向けた。
「ふふふ。慌てなくても、今思い出させてあげるわ。あなた、なぜこの国に来たの?」
女の質問の意味が分からず、リュノスは眉を顰めた。
「あなたは元々、この国の人間ではないはずよ。隣の国で騎士になり、そして夢破れて片田舎の衛士をしていたはず。そんなあなたが、なぜこの国に来ることになったの?」
リュノスは『朱の丘』での出来事を思い出した。
そして、なぜあの日あの時間に『朱の丘』へ行ったのかも。
背筋が泡立つ。
「まさか……その声は……あの夢の女なのか!?」
思い至った事実に驚愕の声を上げる。
これまでリュノスは、あの夢を『正夢』あるいは『神のお告げ』か、そんなものだったのだと思っていた。
しかし、そうではないのだと目の前の女が、その存在を持って示していた。
「馬鹿な! 未来を知る者などいるはずがない!」
「あら、今のあなたを否定するような事を言うのね。じゃあ、もっとちゃんと思い出してもらおうかしら」
くすりと笑い、リリスは右手の親指と中指を弾いた。
パチンと、小さな音が鳴った。そして――。
リュノスの膝が崩れ落ちた。
「な!? そんな!?」
深紅の絨毯に両手を付き、荒い呼吸を繰り返す。
女が指を弾くと同時に、当時の声と映像が脳裏を焼いたのだ。
そして、リュノスは思い出した。忘れ去っていた事実を。
それが神のお告げなどではなかったということを――。
「望みに見合う代価をもらう」女は確かにそう言った。
神たる存在が代価など求めようはずもない。それを求めるとすれば――。
「思い出せたみたいね。国王様。では、契約通り……代価を払っていただこうかしら」
薄い笑みを張りつかせゆっくりと契約者に近づいたリリスは、リュノスの前で立ち止まると、この国最大の権力者の顎を細い指先でなぞるようにして上げさせた。
隠れていた大きな瞳が、リュノスの目を捕らえた。深淵を思わせる瞳が紅玉に変わる。
「ひっ」
リュノスは息を呑んだ。これまで如何なる場合であろうと、これほどの恐怖を感じたことはなかった。隣国との戦の時ですら、息を呑み、怯えた声を上げることなどなかったのだ。
「どんな代価でも払う。あなたは私にそう言ったわ。そしてあの時、私は言ったはずよ。あなたのその望みに見合うだけの代価を頂くと……」
全身を震わせ、カチカチと奥歯を鳴らす男の姿に満足したのか、リリスは優しい微笑みを向けた。そして……。
「あなたの息子の命を差し出しなさい」
静かに、しかし有無を言わせぬ声でそう告げる。
リュノスは雷に打たれたが如く、びくりと身体を震わせた。
たった一人の可愛い我が子、レティウス。
ミュレットはもう子供を産むことが出来ない。たった一人の跡取り。王国の継承者。自分の、ミュレットの、そして王国の希望たる子供。その命を差し出せと、目の前の女は告げたのだ。
「そ…そ…それは……ダメだダメだ! 絶対にダメだ! それだけは出来ないッ!」
「できないじゃないわ。あなたに拒否することなど許されていないの」
リリスは声を荒げることもなく、淡々と言葉を紡いでゆく。
「さあ……息子をここへ連れてきなさい。そしてその剣で、息子の心臓を取り出してちょうだい。なぁに、大丈夫よ。あなたは最も優れた騎士にして英雄となった男ですもの。苦しむ間もなく終わらせることができるわ」
リリスは怯える男の頬を右手で優しく撫でると、耳元に口を近づけた。
「さあ。契約を果たすのよ」
「おぉおおおぉぉぉぉッ!」
その囁きにリュノスは吼えた。手にした剣を薙ぎ払い、ローブの女を両断する。
手応えはなかった。
「契約を果たさないつもり?」
背後からの声にリュノスは慌てて振り向いた。咄嗟に剣を構える。
女は大きな窓の側に立っていた。窓の外はバルコニーになっている。王都を一望することのできる場所だ。
いつからそこにいたのか、窓の外には深紅のローブを纏った別の女が立ち、室内の様子を窺っていた。目の前の女と同質の気配を放つ女だ。
この人外の存在はいったい何人いるのか?
リュノスは手にした剣を固く握りしめた。
そんな男の様子を眺めやり、リリスは呆れてものも言えないとばかりに、首を振った。
「馬鹿な男ね。いずれ契約を破ったことを後悔することになるわよ」
これ以上迫るつもりはないのか、薄い微笑を浮かべて後ろに下がる。
窓は開いていない。下がってもぶつかるだけだ。
しかし、窓は動かなかった。
「あなたの幸せが少しでも長く続くことを祈ってるわ」
優しい言葉を残してリリスは月明かりに消え、その後を追うようにバルコニーの女もまた姿を消した。
リュノスは呆然と立ち尽くしていた。