第3話 - 「夢への一歩」
「賊は片付けた。もう大丈夫だ」
馬車まで戻ったリュノスは、中の人物に声をかけた。
しかし、しばらく待っても返事がない。
あるいは怪我を負って助けを必要としているのではないか。そんな思考を巡らせ、リュノスは扉に手をかけた。
車内では女が一人、踞って震えていた。着ているものから察するに、良家の令嬢のようだ。リュノスは出来るだけ優しい声音で再度語りかけてみた。
「馬車は止めたし、賊は片付けた。どこも怪我はないか?」
リュノスの声に、女は恐る恐る顔を上げた。
長い睫毛に大きなライトブルーの瞳、長く美しい金髪を銀の髪飾りが引き立てている。白いドレスもあってか、女は百合の花を連想させた。
美しい、と素直に思った。護らなくてはとも……。
怖がらせないようにと、できるだけ笑顔で続ける。
「賊はもういない。さぞ怖かったろうが、終わったんだ。安心して良い」
その言葉に女の目元で透明なものが膨れあがった。
「え? あ、おい……」
こぼれ落ちた雫に、リュノスは慌てふためいた。どうしたものかと困り果てていると、背後から蹄の音が近づいてくる。
振り向いたリュノスは、腰の剣に手をかけ目をこらした。
白い鎧が陽射しを反射した。胸元に鷲の紋章が刻まれている。
「……騎士か」
リュノスは王都にいた頃、一度だけその紋章を見たことがあった。確か河向こうの国の近衛騎士だったはずだ。騎士であれば敵ということはあるまい。この困った状況からも抜け出せるかもしれない。
しかし、その考えは甘かった。安堵するリュノスの期待を裏切り、騎士が腰の剣を抜いたのだ。
この時、リュノスは剣こそ帯びていたが鎧は身に着けていなかった。
夢の女は身なりを整えて行けと言っていたが、事が事であるだけにリュノスは半信半疑だったのである。兵舎に馬はなく、十キロもの長い道のりを重い鎧姿で往復する気にはなれなかったのだ。それさえあれば衛士と分かったはずだ。誤解の元に斬り殺されるなどという事態にはならなかっただろう。
猛然と迫る騎影。剣閃が煌めいた。甲高い金属音が鳴り響く。
「ちっ、防いだか。やるな」
騎士は苦鳴を洩らすと、馬を止めて馬首を返した。
「だが、次はそうはいかんぞ!」
怒りに燃える瞳がリュノスを射貫く。
「ま、待て! 誤解だ!」
リュノスが叫ぶも、騎士は聞く耳を持たなかった。馬腹を蹴りつけ気合いの声を上げる。迫りくる騎士が剣を振り上げた。
「――お止めなさい! ハンス!」
剣が振り下ろされる瞬間、馬車から発された女の声に騎士、ハンスの動きが止まる。
ハンスは手綱を引いて馬を御した。
「姫様ッ!」
「何をしているのですハンス! そのお方は私を助けて下さった恩人ですよ!? 剣を収めなさい!」
叱りつける女の声に、ハンスは馬から下りて兜を脱いだ。剣を収めて頭を垂れる。
女がリュノスへの謝罪をハンスに言いつけた。
その命を受けて、ハンスが立ち上がる。
「申し訳ない。どうやら勘違いをしていたようだ」
栗毛の青年はリュノスの元へと歩み寄り、右手を差し出した。
「私の名はハンス。河向こうの国で近衛騎士をしている。ミュレット様を助けて頂いたようだ。礼を言う」
「リュノスだ……ミュレット様って……まさか姫様か!?」
隣国の王と姫の名くらいは一平民でも知っている。
勘違いとはいえ剣を向けられ、内心腹を立てていたリュノスだったが、騎士の言葉にそんな感情は一瞬にして吹き飛んでしまった。
思わず手にした剣を取り落としそうになり、慌てて鞘へ収める。
馬車から飛び退き平伏するリュノスに、ミュレット姫はやわらかな眼差しを向けた。
「そんなに畏まらないで下さいませ。リュノス様。危ういところを助けて頂いたのは私の方なのですから。本当にありがとうございました」
安堵の涙を拭いつつ声をかける。
そんな姫君の言葉を受けて、リュノスはますます小さくなった。
リュノスのような平民出の者が、隣国とはいえ王族に声をかけられたのだ。畏まるなという方が無理というものであった。
「まあ、では旅の途中なのですか? 何か当てがあってのものなのでしょうか?」
しばらく後、ミュレットは落ち着いた様子そう尋ねた。
リュノスが拝借した馬も馬車に繋がれ、出発の準備は整っている。
「――いえ、特にそういったものはありません。修行と見聞の旅をしております」
リュノスは嘘を吐いた。
あの夢で言われた通り、望みを叶えるための一歩を踏み出せそうな事態に遭遇したのである。この際、近くの町で衛士をしているなどと馬鹿正直に言うつもりはなかった。
「賊を二人、それも鞍も付いていない馬に乗って倒したのだ。かなりの腕前だろうに、未だどこにも仕官していないとは勿体ない」
「最近、剣の修行を少し怠っていたし、運が良かっただけです」
リュノスは正直な感想を述べた。訓練を怠り、酒浸りの日々を送っていたのである。王都にいた頃ほど身体は軽快に動いてくれなかった。長引けば命を落としていたのは襲撃者ではなくリュノスだったはずだ。
騎馬は馬首を返す際に、隙が生まれやすい。
そこでリュノスは賭に出ることにしたのだ。一つしかない武器を投じるという賭けに。
本来であれば無謀な試みでしかない。弾くなり躱すなりされていれば、反撃の手段を持たないリュノスは今頃、死者の川を渡っていたことだろう。
たまたま奇襲が成功しただけのこと。それがリュノスの認識であった。
「不躾な願いだとは重々承知の上なのですが……」
ミュレット姫がおずおずと切り出した。
「……もし、リュノス様さえよろしければ、私どもの王都までお越し頂くことはできないでしょうか?」
「姫様?」
「お礼も致したいですし、リュノス様がいて下されば道中とても心強いのです」
「しかし、姫様! それは……」
ハンスが異議ありと声を上げる。ハンスから見てもリュノスは好青年に見えた。恐らくは歳もそう違うまい。賊を倒しハンスの一撃を凌いだことからみても、頼りになる腕の持ち主であることは間違いない。
しかし、ハンスからしてみればリュノスは未だ素性の知れない人物なのである。たった今、襲撃を受けたばかりだというのに、そんな人間を一国の姫君であるミュレットの側に置くのは躊躇われた。
「……ロブもアスタも、もういないのでしょう?」
そう告げたミュレットの声は、深い悲しみを宿していた。
共に姫君の警護に当たっていた近衛騎士たちの名前を出され、ハンスは言葉を呑んだ。先の襲撃で命を落とした仲間たち。これから王都までハンスは一人で姫を護衛しなくてはならない。もし再度、このような襲撃にあったら――。
リュノスの素性は知れないが、少なくとも敵ではないと思われた。
「分かりました」
そう言って、ハンスは頷いた。
不安がないといえば嘘になるが、ここは姫の提案を受け入れるのが最善に思われた。
「……では、改めてリュノス殿。すまないが頼めるだろうか?」
リュノスも左遷されて辺境の町の衛士をしているとはいえ、彼自身、騎士の称号を得ている身である。
即座に彼らの心情を理解した。何より、この美しい姫君を護りたいという気持ちが強かったこともある。
「お供させて頂きます。ミュレット様。ハンス殿」
リュノスは即答するとともに、恭しく片膝を付いて礼を取った。
そしてこの日、リュノスは夢への一歩を踏み出した――。