ライラックの栞
はじめまして、藍と申します。
初投稿です。よろしくお願いします。
ジリリリリリ──ガンッ
目覚まし時計を叩くように止め、俺はゴソゴソともう一度布団に潜り込む。まだ朝夕は冷え込むこの季節、そう簡単に布団という魔の手から逃れることはできない。
頭まですっぽりと身を隠し、はーっと息を吐いた。
だが、いつまでも寝ている訳にはいかない。やらなくてはいけないことはたくさんある。
俺はもぞもぞと緩慢に布団から這い出し、枕元に置いてある黒ぶちメガネをかけた。
いくぶんはっきりとした視界で手元の時計を見る。
7時。
高校時代ならあいつがもう駅で待っている時間だ。
今は遠いところにいるあいつが。
今日の講義は2限からだ。まだ時間はある。俺はデスクに立ててあるアルバムの中から1番新しいものを手に取って、パラパラとめくった。
他のものと比べてひときわ分厚いそれは、俺たちの高校時代を綴った、記録。
あいつと出会ったのは高校の入学式だった。1人でテニスコートを見つめていた俺に、あいつが声をかけたのが最初だっただろうか。
確か、テニス部に入るとか入らないとかそういう話をした気がする。次の日教室へ入って隣の席だった時は驚いた。
あいつ、三浦晴樹は「真面目な好青年」もしくは「爽やかな青年」などという表現がとてもしっくりくる、むかつくやつだった。いつも爽やかな笑みを振りまいて、礼儀正しい。きっちりとした学ランがよく似合った。
始めてきちんと話したのは、体験入部の日だったと思う。経験者だった俺たちは別で実力をチェックされた。中学で県大会を制覇していた俺は、正直いえば完全に舐めていた。1年で俺に勝てるやつはいないと、本気で思っていたのだ。
先輩にゲームをしろと言われた時はうきうきだった。負けるまでは。
あいつ、三浦はものすごく強かった。俺と互角か、それ以上。なんで中学で出会わなかったのか不思議に思った俺に、あいつは先回りして答えた。
「俺、中学は他県だったから。」
なんだよそれ。聞いてねぇぞちくしょう。
口角が上がるのが抑えきれない。わくわくする。こいつに、勝ちたい。
「次はぜってぇ勝つ!」
そう言って一方的に手を握ると三浦は一瞬驚いた顔をして手元を見つめ、すぐにっと笑い、言った。
「俺だって負けないよ」
それから、俺たちは一緒に行動することが増えた。席も隣、部活も一緒、しかも俺が堀川であいつが三浦、出席番号も近い。
また家も一駅分しか違わなかったため、登校も一緒にするようになった。三浦は朝型なのか、絶対に約束の時間の五分前にはそこにいた。俺があいつより早く行ったことは一度もない。
「隆也、3分遅刻。」
「はぁ…っ、うっせ…これでも走ったんだぞわかるだろ!」
「どうしてあと3分早く起きなかったの?」
「いちいちうるせぇな母ちゃんかお前は!」
朝の恒例行事であった。
三浦は努力家だった。
何事にも全力で、がモットーだそうだ。
多分、本当に全力だった。少し心配になるほど。
強豪でスタメンに入っていながら、成績も常にトップ。それなのに、そんな努力を微塵も感じさせない。
でも俺は、あいつが努力しているのを知っていた。指にある大きなペンだこも、日焼けした顔も、擦り切れた靴も全部、努力の証。
三浦は掴みにくい性格をしていた。友好的だが、一歩踏み込もうとするとするりと逃げるのだ。にこにこと笑いながら。
弱みをとことん見せないやつだった。
一度、あいつが薬を飲んでいるのを見たことがある。階段の影に隠れるようにして飲んでいて、気になって尋ねたのだ。
それに答えてくれるくらいは、仲良くなったと思っていた。
だが三浦は俺が声をかけるとびくりと飛び跳ね、慌てて錠剤の入った袋を隠した。
「何やってんだよ」
「いや、何でもないよ」
「何でもなくねぇだろ。薬飲んでたんだろ?風邪引いたのか?」
三浦が風邪を引いたとなれば部活にも支障がでる。ペアで練習している俺としては大事なところだ。病人に無理はさせられない。
「いや、風邪じゃないから。心配するな」
「じゃあ何なんだよ。言いたくなきゃいいけどよ」
プライベートなことだ。俺にでも言いたくないことだってあるだろう。そう思って言うと、三浦ははーっとため息をつきながら敵わない、とでも言うように笑った。
「誰にも言うなよ。…アレルギーだ」
もっと特別なものを想像しただけに、正直拍子抜けした。
「ふーん。別に隠さなくてよくね?」
アレルギーなら俺もある。薬も同じものかもしれない。
「俺は隠したいんだ。絶対に言うなよ」
「言わねぇよ」
そういうと三浦はありがとう、と言って、教室へ戻ろう、と俺の背中を押した。
白い袋に書かれた、おそらくは薬の名前が、やけに目に残った。
俺たちは、2年に上がる頃には部の顔となっていた。シングルでもダブルでも連続して、特にシングルでは競うように記録を樹立する俺たちは、学校の期待の星だった。
しかし、三浦には大会の順位では勝っても、直接勝ったことは一度もなかった。
三浦は常に全力で、真剣で、真面目だった。
それは、2年の夏の地区大会。三浦は朝から調子が優れず、咳き込むことが多かった。監督は無理せずに休めと言ったのだが、三浦の意思は固かった。
三浦の試合は午後からだった。だんだん咳も激しくなってきて、先輩ももう今日は休め、県に繋がるわけでもない、そう言ったのだが三浦はそれを断固拒否した。
「絶対出ます!!」
三浦の大声を、俺は、俺たちは初めて聞いた。
3年に上がり、インターハイがもう目前となったころ。俺は、初めて三浦に勝った。
まったく、嬉しくなかった。
その日三浦は、全力で戦っていなかった。全力だというなら明らかに下手になっている。あの生真面目な三浦にあるまじき事だった。
そんな日が2日続いた日の帰り、俺と三浦は初めて喧嘩をした。
「なんで全力でやらねぇんだよ!そんなんで勝ったって何にも嬉しくねぇよ!!」
「隆也に何が分かる!!?俺はいつだって全力だ!!」
その日、俺たちは別々に帰った。
入部してから、初めてのことだった。
仲直りをしたのは意外と早かった。喧嘩をして2日後、三浦が全力でやるようになったのだ。
「隆也、この前は怒鳴って悪かった」
「俺こそ、言い過ぎた。ごめん」
あっさりしたものだ。ギクシャクしていた2日間は始めからなかったかのように、普段通りに戻っていた。
半袖から覗いた二の腕に、針で刺したような小さな傷が見えた。
やっぱり、俺は三浦には勝てなかった。
インターハイは、全国ベスト8という輝かしい成績で幕を閉じた。
これが終わると、もう引退だ。ダブルエースだった俺らは、後輩と監督に惜しまれつつ引退した。
引退すれば、次は受験だ。
俺は地元の国立大に進む予定だった。出来れば、医学部。
進学校でもあったうちの学校は、努力していればそれなりの学力はつくのだ。ありがたいことだった。
三浦は悩んでいるらしかった。あいつの学力なら、全国どこへだって行けるだろう。
進学校のトップは伊達じゃない。
それでも、三浦は悩んでいた。
「お前も理系だろ?やっぱ医歯薬学?」
「いや、まだ迷ってる。隆也は医学部だろ」
「希望はな。まだ足りねぇけど。何で迷ってんだよ。お前ならどこだって行けるだろ?」
「いや、色々だよ。経済的なこととか」
三浦の家はそこそこ裕福だったはずだ。
俺は首を傾げた。
「別に私立が全てじゃないだろ。国公立でもいいとこはいっぱいあるし」
「でも理系は結構かかるだろ」
「そりゃあ安くはないけどさ、出世払いでいいだろ。医者になればそんなのあっという間だぜ」
「出世払い、か…」
そう言ったきり、三浦は黙ってしまった。やっぱり受験の話はどうしても空気が重くなる。
俺はそんな空気を払拭しようと、声をかけた。
「なあ、マック寄ってこうぜ!」
「マック?お前、もう腹減ったのか?」
「ちげーよ、ほら今なんかやってるだろ、あのなんとかフロート!あれ飲みてぇから!」
「はあ、仕方ないな。長居はするなよ」
「分かってるって!」
結局いろいろと話し込んでいたらかなり遅くなってしまって、帰るときに怒られた。
それからはお互い受験勉強に備えようということで、別々行動するようになった。 三浦が早朝から学校の図書館に行くと言い出したからだ。俺は朝強くない。ついていくのは無理だった。
それでもたまに帰りは一緒になって、話しながら帰った。三浦は、結局隣の県の国公立にするらしい。学部は歯学部だっただろうか。
「医学系では受験料と入学金が待遇されるのがそこだけだったんだ」
なぜそんなにも金額にこだわるのか疑問に思ったが、下手に詮索するのはやめた。聞いてはいけないと、思った。
卒業は、すぐだった。
どんよりと曇った空の下、俺たちの声が響く。式は滞りなくすすんだ。拍手とともに退場する。
涙は、出なかった。
クラスの違った俺たちは、いつも通り門で待ち合わせていた。三浦が走ってくる。
「悪い、待ったか」
「いいよ、そんなに待ってねーし」
2人並んで歩き出す。三年間こうして歩いたこの道も、今日が最後だと思うとなんだか感慨深い。
「隆也、今までありがとう」
「ああ、こっちこそ。楽しかったぜ」
「本当に、感謝している。きっと、一生で1番だ。楽しかった。
…お前は、俺の最初で最後の親友だよ」
胸にひやりと冷たいものが流れ、慌てて俺は言った。
「なーに言ってんだよ!今生の別れじゃあるまいし!」
「ああ…そうだな。…また、会いに行くよ」
三浦はふわりと微笑んだ。
「おう、いつでも来いよ。俺も行くから」
「いや、お前は来るな。俺が行くから」
三浦がふっと空を見上げた。俺もつられて上を見る。
雲の隙間から差し込む、光。
幾筋もの光が、地に降り注いでいる。
「うわ…すっげ」
「綺麗だな。こういうの、なんて言うか知ってるか」
「薄明光線だろ。習ったじゃねーか」
「そうじゃなくて、もうひとつの」
「もうひとつ?知らね。なんかあんの?」
「天使の梯子、っていうんだ」
天使の、梯子。確かにそんな感じだ。
天使が地上に降りてくる時の足場。
降りてきた天使は、何をするのだろうか。
カタリ、と電車が止まる。俺は電車を降りて、くるりと三浦の方を向いた。
「じゃあな!また会おうぜ」
「ああ。…そうだ、これ」
そう言うと三浦は、おもむろにカバンから何かを取り出した。
それは、一通の手紙。
「…なんだよ、これ」
「手紙だ」
「そうじゃなくて!」
「いいから。家で読め」
三浦が一歩引く。途端、ドアが閉まる。
「っちょ、おい!」
閉まった扉はもう開かない。
ドアの向こうで、三浦は笑っていた。
幸せそうに、笑っていた。
電車が見えなくなるまで、俺はずっとそにに立っていた。目の前には線路が、どこまでも続いている。
ポタポタ、と足元に雫が落ちる。はっとして、頬を拭う。
涙が、止まらなかった。
俺は歩きながら、すれ違う人たちの視線も気にせずにひたすら泣いた。
手紙の内容は、読まなくても分かった。
パタン、とアルバムを閉じる。
開いた窓から柔らかな春の風が吹き込んだ。俺はため息をひとつ吐き、アルバムの表紙を見つめた。
三浦の訃報を聞いたのは、あれから三日後のことだった。俺は驚かなかった。知っていたからだ。
──あいつが、長くないことを。
いつだっただろうか。
隠された袋の表に書かれた文字が、アレルギーのものでないことを知ったのは。
あの日、全力でやらなかったのではなくできなかったのだと、気がついたのは。
入学金にらやたらこだわっていたのは、自分が入学できないことを知っていたからだ、と気がついたのは。
そして、いつも全力だったのは、後悔を残したくなかったからだと、気がついたのは。
もう何度も開けた手紙の封を開けると、春風に吹かれてはらりと何かが落ちた。
それは、白いライラックの描かれた栞。
俺はそれをそっと拾いあげ封筒に入れて、立ち上がった。
この花は、俺の胸に永遠に咲き続ける。
ライラック(白)の花言葉:友情