54話
甘く切ない感情が真直を支配して、柔らかい唇の感触に泣きそうな気持ちになる。
性行為を先に見据えた口づけとは違うただ触れ合うだけのキスに、魂が震えた。
そっと頬に手を添えると、何度も何度も愛おしい人の唇を食む。
うっすらとした闇のなか、雨の音に遮断され、まるで世界には二人だけしかいないような感覚に陥った。
時折大きな雷鳴に体を揺らす地央をそっと抱きとめ、あやすように唇を合わせる。
激情を伴わない優しいキスに満たされる心。
ああ。
このまま、この甘い時がずっと続けばいい……。
しかし真直の願いは届かず、数度点灯した後で蛍光灯が光を取り戻した。
「……日本の技術って、ほんとすごいね」
離れがたくてたまらない気持ちを抑え、溜息と共になんとか唇を離した。
目の前の地央を視界に入れてしまえば、きっとまたその唇が欲しくなる。
真直は明るさに目が慣れるその前に地央から視線を外した。
本来の地央の目的であるテレビドラマの前にテレビをつけておこうと体を捻ったその時―――。
地央の細い指先が真直の頬に這わされたかと思うと、グッと唇が押し当てられた。
「……!?」
状況が把握できず固まる真直へ、先ほど真直が与えたものと同じキスが与えられる。
何度も何度も角度を変えて優しく降るキス。
体に、脳に、甘い痺れが走る。
ああ……。
俺、もう、今死んだほうがいいのかも。
だってこんなに幸せで、こんなに―――。
「山口が怒られるから帰る……」
触れ合った唇から伝わる振動。
その震えとともに、テレビなんて口実だったのだということが伝わった。
なのに帰るなんて。
そんなこと言わないで……。
そっと離れる唇が名残惜しくて引かれるように追いかける。
地央はそんな真直の首に腕を回し、その肩口に顔を埋めた。
「ごめん。……俺には、これが精一杯だ。これ以上は……」
辛そうな響きさえ感じられる声。
キュッと心臓が絞られたみたいな甘い痛みに、真直は地央の体を強く抱きしめた。
真直は目を閉じて、泣きそうなほど暖かい温もりに頬を埋める。
キスと抱擁は地央が誠心誠意示してくれた最大の譲歩。
逆にとれば体を与えることはできないと、暗に言われたのだとしても。
でも、それを逆にとれば、心はくれるということのようで。
「……十分っす」
あんたの体が俺のモノにならなくてもいい。誰のモノにもならないでいれくれたら。それで。
「……まあ、ホームレスから小金持ちになったくらいには」
付け足された真直の言葉に、腕の中の地央が笑いに揺れた。
その揺れが、現実の地央が今確かに腕の中にいるだのと改めて実感させてくれる。
そしてそんな風に体を預けれくれるから、つい調子にのってしまう。
「急に金持ったら、どういう使い方していいかわからないかも」
地央の髪から頬へと唇を滑らせ、柔く笑うその唇を捉える。と、地央は迎えるように真直の上唇を食んだ。
ああ、ほら。そんなことされたら、調子にのっていいんだって思ってしまう。
真直の唇を食んだ地央の下唇をチロリと舌先で舐めれば、電気でも走ったかのように地央が唇を浮かせた。
「……成金」
ほんの少し離れた唇から、声が振動となって伝わる。
だって手にしたのはキスまでの制約かもしれないけど、そこまでは権利だろ?
ならそれを行使しないわけない。
「ん。でも使う相手は間違えないから」
真直の言葉に、地央に浮かんでいた柔らかい笑みが消えた。
そして完全に預けていた体を起こして二人の間に腕を入れると顔を背ける。
え……?
怒って……る?
いきなりの態度の変化に戸惑う真直。
「ちひ……ろさん?」
窺うように覗き込む真直に、地央はチラと流し目の視線をよこした。
ああ、色っぽ。
こんな距離でそんな目で見たら、怒ってるんじゃなきゃ舌ねじ込まれてるよ、ほんとに。
「バカ成金」
「へ?」
「あんなん撮られて、何が間違えない、だ」
「とられ……?」
地央の言葉に意味を測りかねていると、キュッと睨みつけられた。
「元カノ相手に腰に手回すようなキスして、すっかり間違えてんじゃねえか」
そこまで言われて、やっと芽依里の事を言っているのだと理解した。
「いや、あれは……」
あの時、妙なところでプライドの高い地央だから、きっとバカにされたと怒るに違いないと思ったのだ。
言葉と裏腹の不実な行為に呆れ果てて、関係を切られると。
でも、心の底ではかすかな期待もあった。
そしてそれは得手勝手な願望で。
なんなら自慰のネタみたいなもので。
「あの、地央さん?もしかして……ヤキモチ、妬いてくれてる?」
真直の問いに、バネじかけのおもちゃのように、地央が立ち上がった。
「寮監上がってくるからっ!!」
地央の耳か首筋にかけてが面白いほど赤く染まる。
な……。
や、やばい。
だって、まさかこんな風に嫉妬してくれるとか。
俺、愛されてる?
「うぁっ!!」
ドアに体をむけ、逃げるように足を踏み出した地央の腕をとるとこちらに強引に引き寄せる。
不安定な体制の地央は簡単に腕の中に倒れ込んだ。
目を見開いた地央のその視界が整うのを待って、きちんと目を合わせる。
「あの時いきなりキスされたから、ついつい無意識で」
真っ赤な顔をして目を瞬く地央に、優しく微笑みかける。
「俺の無意識の時の相手は地央さんなんだっていったでしょ?」
「そ、そんなん詭弁だっ」
慌てて腕で赤い顔を隠し、再び真直から逃れようとする地央。
この人はなんなんだ。
こんな可愛いなんて聞いてない。
ああ。
もう、なんか、幸せ過ぎる。
「ヤキモチとか超嬉しい」
心の底からの言葉だ。
だって、まさかのジェラシー。
テンションがあがらないわけない。
けれど、まあ、薄々分かってはいたけれど。
「さっさと飯食え!!!!」
案の定結構な勢いで顔面に張り手をされた。




