44話
鼻を押さえて呻く真直をその場に残し、地央は階下のトイレに駆け込み深く呼吸を繰り返した。
……やばい。
あいつ、また押せ押せモードになってる。
俺、昨日別に変なこと言ってないよな?何言ったっけ?
女と付き合ったことないってのにやたら食いついてた気がする。
うるせーよ。ほっとけ。
だって付き合うなら一緒に居て楽しいと思える相手じゃなきゃ嫌だし、お前と違って別にエロいことへの情熱もないから、要は啓太郎がいりゃそれで問題なかったんだよ。
おまえみたいな、寝ぼけて抱きしめてくるようなこと……。
『これからの無意識の時、例え俺がどっかの誰かを押し倒しても、俺の中じゃそれはあんただ』
そんな風に言って真っ直ぐ見つめた真直の目を思い出し、思わず腕で顔を覆った。
夢ん中で人に何してんだよ……。
そんな目で見てくんのは反則だろ。
何で男に欲情できんだ?
俺はお前とそういう関係になるのは望んでないんだ。
キスのことだって、どうかしてるって思ってる。
でも……。
このままじゃあ俺はいずれお前を失うのか?
俺はお前が思ってる以上にお前を必要だと思ってんだよ。
そして俺は……間違いなく、流されてる。
流されたその先、100歩譲ってその関係を受け入れたとき、その時、お前は俺を見切ってしまうんじゃないのか?
今はただ、手に入らないから熱望してるんじゃないのかとそう思えてならない。
たくさんの女を知っているお前が男との関係に目が覚めたとき、その時、俺たちには何か残るのか―――?
「てめ、さっきからキモイんだよ」
ローテーブルに肘をつき、カイが消しゴムを投げつけてきた。
「痛てっ!」
消しゴムの衝撃に一瞬顔をしかめたものの、その頬はすぐにまただらしなく緩む。
「なんつーかな、春?」
「は。お前の頭の中な。つうか勉強する気ねえなら帰れよ」
「何言ってんだ!勉強する気があるからこそ、わざわざお前ん家まで来たんじゃねえか」
じゃなきゃ地央さんと一緒にいるつうの。
グッと距離が縮まったような今、本当なら片時だって離れたくはないのだ。
けれど、さすが集中して勉強しないと地央と同じ大学にいくことそのものが危ぶまれる。とはいえ地央と一緒にいれば絶対勉強など手につかないことはわかりきっているので、イジけていた当初の約束通りカイの家へやってきたのだった。
が、しかし。目の前に地央がいなくても、ついつい思い出してニヤけてしまうのは致し方なく……。
いかんいかん。マジでやんねーと。
表情を引き締め、教科書に視線を戻す。
今日一日の「地禁」すれば明日はデートなんだっ。
デート……。
ふにゃん。
「てめえ、俺のことおちょくってんのか?帰れ!!」
「冷てえなあ。俺の恋が成就するかどうかって時にー。カイコちゃんひどいっ」
「知らねえよっ。変な呼び名で固定すなっ」
「あ。俺見た。怪物ランドのプリンスの彼女。結構お前に似てて笑ったわ」
「髪の毛で絞め殺すぞっ」
「物理的に無理だろ」
「はあ?マジレスすんな。ハズいだろ。マジ使えねえわ」
カイはその美しい顔を惜しみなく歪めてまたノートへと視線を戻した。
真直も同じように生物のテキストに目を落とし今度こそ勉学に勤しもうとしたのが、ついつい生殖という言葉にくいついてしまう。
微妙にエロく思ってしまうのは、やはり溜まっているからなのだろうか。
あああ……。
それにしても今朝やりそこなったキスが惜しいっ!!
鼻が折れたかと思った直前の地央を思い出せば胸がキュンとする。
大事に思ってると言ってくれた後の初めてのキスへの道のりは、それまで何度もキスをしたのが嘘のようにドキドキとした。
本当に、俺もまあ今までよくあんなに考えなしでブチュブチュできたもんだ。
地央さんが応えてくれるのは、俺に勢いでされたからそのまま済し崩しに許してくれてるんだなんて思ってたけど、そうなんだよ。よく考えたらキスだもんなあ。交際経験無しの人が応えるキスなんだから、挨拶ってわけはなかったんだよ。
つうことはやっぱり地央さんっ……。
「なあ、キスするってのは、やっぱ恋愛感情だよな?」
「ああ。チンパンジー、ケンカの後仲直りにキスするらしいな」
同意を求めたつもりの真直へまさかの返答。
「流動食代わりに噛んでグチャグチャにしたのを子供とか病人とかに口移しでやったりとかが起源らしいぞ」
「……えーと、桐山さん」
「なんだよ」
「おまえ、キスしたことないだろ」
真直の言葉にカイはハハンと鼻で笑った。
「ああ。されたことはあってもしたこたねえな」
されたこと……。
何やら手篭め系のいかがわしい想像をしてしまったのは、やはり溜まっているからなのか、カイの美貌のせいなのか。
「ま。恋愛感情なんじゃねえの?体売ってる姉ちゃんでも唇は許さないとかっていうじゃねえか」
「んーっ、表現に難がなくもないけど、そうだよな?やっぱ恋愛感情ありきだよな!?」
とりあえず望んでいた答えが手に入って安堵する。
「ああああ。やっぱ俺、愛されてるのかもしんない……」
ふにゃんと崩れる顔に、再び消しゴムがぶつけられた。




