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3話

「俺総体出ない」

 HRの終わった放課後、真直は手の中のプリントを睨みつけながら、至極不機嫌そうに言った。

「あのなあ。おまえは。何言ってんだ。…ああ、バイバイ!また明日な!」

 地央は部活や家に急ぐクラスメイトからの声に返答しながら、横目で真直を見て軽くため息をついた。

「たかが遠足じゃないか。県予選出なきゃ全国大会だって出られないんだぞ?」

「なんで県総体と遠足の日被るわけ?ほんと意味わかんねえし」

 真直はプリントを机の上に放り投げると、椅子の背に体重を乗せて天井を仰いだ。

「全国決まったら遠い遠足できるじゃないか」

 地央の何気ない一言に真直は大げさに目を剥くと、眼球をグルリと回してため息をこぼす。

「ほんとわかってねーな」

「なんだよ」

 小学生じゃあるまいし。

 別に遠足に行きたいわけじゃないっつの――。

 遠足の行き先は遊園地だった。

 真直は地央とジェットコースターに乗り、お化け屋敷に入ってあわよくば抱きついてもらったり、観覧車のてっぺんでチューなんていうカップルの王道のようなことをしている場面を想像してから、再びため息をついて地央を見た。

「全国決まっても、地央さん一緒に来ないもん」

「まあ、そりゃそうだろ」

 地央は休学前に引退しているので、正式な手順は踏んではいないにしろ、もう射撃部員ではない。ライフルへの気持ちの整理はついているつもりなので一時はマネージャーとしての復部を考えないでもなかったが、志望大学の特待生枠を狙おうと考え、勉強に集中することにしたのだ。

「じゃあさ、県総体優勝したらご褒美ちょうだい」

 真直が机に肘をつくと、そこに頬を載せて隣の席に腰掛けていた地央に向けて婀娜っぽく微笑んだ。

 最近の地央から見る真直は基本的に幼稚だが、たまにこういう大人っぽい顔をする。そしてそんな真直は純粋にカッコ良いなと思うが、そんな顔をされると妙に落ち着かなくなった。

「ご褒美……?」

 真直の言葉を復唱した地央の脳裏に過去の記憶が蘇った。確かジュニアオリンピックの時に……。

「地央さんからキスしてよ。濃ゆいやつ」

「……バッ!!」

 慌てて教室の中を見回す。

 教室の中にはまだ数人残っていたが、誰にも聞こえてはいないようで胸をなで下ろした。

「おまえなあ――」

「よし!!そうと決まれば練習しょーっと!!」

 真直は苦言を呈しようとした地央の声を遮るようにして立ち上がる。

「誰が了解したんだよ!!」

「地央さんは優しいから可愛い後輩のリクエストには応えてくれますって。じゃ!!」

 本人の意見は聞く耳をもたず、真直は笑顔で片手を上げて挨拶しながら教室を出て行った。

 こ……こゆいやつって。

 ………あほか。

 

 

<p>

「あーあ。今頃遠足終わってんのかなあ」

 県総体の帰りの電車を待つホーム。真直の気分はドップリと沈んでいた。

 勝てると思っていた相手に僅差で破れ結果は2位。全国大会の出場は果たせたが、そういう問題ではない。

 元々ジュニアオリンピックに勝ったことは奇跡だったのだ。常勝なんてありえない。

 ただ、周囲の目はそれを許してはくれなかった。

 県総体なんて優勝して当たり前。

 そんなムードがとてつもないプレッシャーになった。

 そして何故か場内は王者を追いかける立場の者に味方する。自分がヒールになった気分だった。

 きっと去年真直がジュニアで優勝できたのは、そういう上位者の心の葛藤につけ込んだ結果だったのだろう。これからは自分もそんな気持ちを味わうのだと、本気で取り組んで初めて気づいた。

 去年、日韓戦に選出された地央のことを思い出す。

 あのとき地央はこのプレッシャーと戦っていたのだと、今更ながら初めてみた涙の奥底の感情がわかった気がした。

『負けた』

 それだけのメールを地央に送る。

 そして気づいた。

 あーあ。濃ゆいキスもなしじゃんか。

 地央さんからキスしてくれるなんてことはそれこそ奇跡だと思ってるから本当にしてくれるかなんてことはどうでも良くて……いや、それはしてくれた方がいいに決まってるけど、ただ、モチベーションを上げたかったわけだけど……。

 地央さんはどう思うのだろうか。

 ふいに思った。

 受身な地央は自らキスを仕掛けるという行為に対してどういう感情を持っているのだろう。

 宙ぶらりんな関係。

 それはそれでいいのだけれど。

 傍にいられるならいいのだと、真直自身言い聞かせているような部分もないわけでなく……。

 後ろ向きな気持ちは、どんどん思考をネガティブなものにしていく。

 結局のところ、地央の中の自分は、どういう位置にあるのだろう。

 そのとき、真直の手の中のスマホが震えた。地央からだ。

 ちょうど地央のことを考えていたこともあって、心臓が鼓動でその存在を主張する。

 通話ボタンを押すと、耳に当てるよりも先に慌てた声が聞こえてきた。

「もしもしっ?負けたっておまえ……」

「相楽に負けた。準優だった」

 その言葉に、通話口の向こうから、詰めていた空気が溶けるような息を吐く音が聞こえた。

「ビックリさせんなよ。準優だったら全国行けるじゃないか。おめでとう」

 おめでとうと言われ、泣き笑いのような顔になる。

「はは。優勝じゃなきゃ意味ねーし。せっかく地央さんからチューしてもらえると思ったのに」

 無理に作った元気は、やはり元気がない。

 おどけて軽口を言ったつもりだったのに、自分の耳で聞いても力無くて情けなかった。

「――――空気、やばかったろ」

 騒がしい駅の中でも、ストンと胸に落ちる地央の声。

 何がやばかったのか改めて聞かなくてもわかるのは、お互いあのヤバさを知っているから。

「うん。すげ怖かった。みんな敵なの」

「ん。それで、選手権も地区大会も勝ててたんだからお前すごいよ」

 ああ。それは生きてなかったらからだ。

 精神的なところで、生きていないような日々だったから、プレッシャーなんて感じなかったのだ。

「そんとき、地央さん居なかったから……」

「なんだ?俺のせいかよ」

「チューしてもらおうと思って欲が出た

「……」

「うそ。そういうの試合中忘れてた。たんに自分に負けただけ」

 目を閉じれば、すぐにでも思い出せる会場の雰囲気。

 と、そこへ電車の到着を告げるアナウンスが聞こえた。

「電車来た。もうちょっと話してたいけど、それよか早く会いたいから切ります」

 心が弱音を吐く。

 普段なら言わない言葉がこぼれてしまう。

「―――うん。早く帰ってこい」

 地央の声が疲れた心と体に温かくしみた。

 

 

<p>

心の弱い部分に響いた地央の柔らかい声は、電車に乗り、一駅過ぎた今もまだ耳に残っている。

 チームメイトや顧問にかけられた言葉は「残念だったな」という慰めの言葉。確かに負けて残念だと自分で思ってるし、気にかけてもらってありがたいと思う。

 でも地央がくれたのは「おめでとう」―――。

 純粋な祝福に心が溶けそうになった。

 さっきの電話の僅かな会話ですっかり浮上した、底に沈んでいた気持ち。

 とにかく会いたくて会いたくてたまらなくなって、その袖先でいいから触れたくて、全然変わらないことを解っていてそれでも少しでも近づきたくて、一番前の車両に移動して。

 そんな自分に苦笑し、誤魔化すように電車の外へ顔を向けた。

 空は昼間の太陽の強さを失い、ゆっくりとした落ち着きを見せ始めている。

 もう遠足から帰ってきてるよな?

 先ほど聞きそびれたけれど、プリントで見た予定時間的には寮に帰っているはずだ。

 ふと思いついてスマホを手にすると、クラスのLINEを覗いた。

 そして――――。

「なっ……!」

 世界が逆さまになったような、圧砕されるような衝撃。

 思わず声が出た。

 それは地央と同じ教科をとっている、比較的地央と仲のいい御崎健太みさきけんたが、地央の前で少し首を傾けキスをしている写真があがっていたからだ。

 一瞬呼吸ができなかった。

 御崎のバックショットの写真で、傾けた御崎の頭の向こうには地央の眼鏡のフレームと、その奥の笑顔が作られていると思われる目が写っている。

 心臓がバクバクと暴れ、スマホを握る手に無意識に力がこもった。

 どうやら今日の遠足バスの中らしい。

 ……なんで御崎とキスしてんの?

 胸の中がおかしな具合にねじられるような感覚に、思わず手の甲を噛み締める。

 頭がおかしくなりそうだ。

 

 

 <P>

 

 部屋が力なくノックされ、開けるとそこには深く俯いた真直の姿があった。

「よ。おかえり」

 真直は小さく頷くと、俯いたまま何か言いたげに何度か口を開け閉めする。

「とりあえず入れよ」

 地央は真直が通れるように身を引いて中へ促すと、真直はまた小さく頷いて部屋の中に入り、窓際の椅子に腰を下ろした。

 電話口からでも伝わってきたように、かなり凹んでいるらしい。

「紅茶と水しかないけど飲む?」

 聞けば真直は勉強机に目を落としたまま、小さく首を横に振った。

 本気で落ち込んでんだな……。

 地央が部活にいたころの真直は、試合に負けても凹むことなどなかった。それは本気を出していなかったから。だから今の真直を見て、少し羨ましい気持ちになる。

「そんな悔しいなら、全国で優勝しろ」

 地央はベッドに胡座をかいて座ると、真直の背中に向かってそう言った。

 すると―――。

「ポッキー美味かったっすか?」

 やっと口を開いたかと思えば、返ってきた言葉はあまりにも想定外だった。

 何も応えることができず、ただポカンと口を開くこととなる。

「……は?」

 また黙る真直。

 もしかして……。

「遠足のバスのことか?」

 そっぽを向いて答えない真直のそれが答え。

「はは。情報早ぁ」

 遠足のバスの中、女子の提案で男によるポッキーゲームが始まったのだ。

 半年前の自分には無かったノリだが、休学中よく遊んだ大学生の飲み会のノリですっかり耐性がついていたので深く考えず参加したのだが……。

 ちょっと待て。

 こいつは今、落ち込んでるんじゃなくて拗ねてるの……か?

「クラスのLINEに上がってた」

 ああ。

 確かにこの声は落ち込んでいるという種類のものではない気がする。

「は……はは。ほんとアホだな、あいつら」

「……」

 ―――きまずい。

 男同士の悪ノリのポッキーゲームでこんだけ拗ねると思わなかった。

 他の女相手じゃあるまいしと思ってみるが、そういうものでもないらしい。

 そもそも両端から咥えたポッキーを折っただけで口なんてついてないのに……。

 あー。心配して損した。

 損した?

 ん?……損したのか?

 ライフルで負けて落ち込んでたのは間違いない。それも今まで見たことのない凹み具合で。

 なんと言ってもご褒美のチューの話を忘れるくらい没頭した試合だったのだ。

 結局試合には負けて、地央からのキスもなくなって、そこへきてのポッキーゲームに何となく後ろめたいような気持ちが湧いた。

 別に俺悪くないのに。

 ……悪くない……よな

「……っとに」

 椅子に座っていよいよ窓の外に目を向け、地央の方を意地でも見ようとしない真直。

 っとにしょうがねーな。

 可愛いのか面倒くさいのか。

 地央は盛大にため息をつくと、まだ片付けていなかった遠足のリュックの中から、クラスメイトにもらったアルミ色の長細めの袋を取り出した。

 地央は眼鏡を外し、内鍵をかけてから窓辺へ近づくと、椅子に座る真直の肩に手を添えてその膝に跨った。

 その口には一本のプリッツ。

「ん」

 拗ねるのも忘れて驚く真直の口元にプリッツの反対側を差し出した。

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