19話
目を悪くする前まで第三金曜日にずっとエアのメンバーで元メダリストに指導を受けに来ていた射撃場。
久しぶりの雰囲気にゴチャゴチャの気分が少しだけ高揚した。
視界を欠損した悔しさや苛立ちより、ほんの少しだけ勝ったその感情に、随分立ち直れたものだと実感する。
視界を失って、自分は随分と変わった。
目が見えていたときは周りを何も見ようとしていなくて、実際ライフルと啓太郎だけで構築されていたんじゃないかと思う。
目を悪くして、見ようとしなかったものを見ざる得ないようになれば、案外世界はそこそこ楽しいのだと気づかされ、視界と引き換えに手に入れた今は、見えない不都合をちょっと上回る程度には満たされていて。
「あれ、平林くん?随分久しぶりだねー。目の調子はどうだい?」
夕暮れのがガラスに反射している建物を遠目で眺めていたら、地元射撃クラブのコーチに声をかけられた。
「あ。どうも。ご無沙汰してます」
「ちょっと見ない間にますます色男になって。女の子がほっとかないだろう」
そんなことを言うから、口の中に一来の感触を思い出して思わず口を拭った。
女の子とベロチューなんてしたことないのに……。
自分の置かれている状況にため息が漏れた。
クラブコーチに無難な挨拶をしてガラス張りの射場に近づけば、24もある射座の中で真っ先に飛び込むのは他の誰でもない、真直の姿。
ガラスのすぐ手前まで歩みより斜めから真直を見れば、スコープを覗く立ち姿の良さにトクリと心臓が跳ねた。
……やっぱりカッコいいよな。
地央の前では見せることのない、ライフルを構えるときの周りを完全に遮断した鋭い顔つきは掛け値無しに好きだ。
真直の立射の構えと、背の高い男らしい体格は、同じ男としてただ惚れる。
ただこれは愛とか恋とかそんなんじゃなくて、自分にないものを持っている同性への純粋な憧れで 、ほら、そこで熱い視線を送ってる女子とは違う感情……のはず。
規定の弾数を撃ち終えたらしい真直が、ふっと息を吐いてライフルを置いた。
ああ、その、緩む瞬間も好きだな。
そんなことを思ってぼんやりと眺めていたら、突然真直がこちらを振り返った。
いるはずのない地央の姿を見つけた真直の目が見開かれ、口が地央の名前を形どる。
一瞬だけ浮かんだ泣き笑いのような顔を見てしまえば、胸にぐっと何かが刺さった。
それはこみあげる罪悪感。
一来に口づけを許してしまったことを後ろめたく思うほどには、真直は自分の心のどこかを占めている。
そして一来の腕も、唇も、違うと思うほどには、自分のどこかは真直を受け入れている。
そして、愛とか恋とかそんなんじゃないと思うけれど、毎日、どこかのタイミングで真直のことを考えている。
今まで自分の脳を、心を、体を、誰かがこんなに占めていたことなんてないから、どうしていいかわからない。
ただ一緒にいたいってだけじゃ、ダメなのか?
少しの笑顔を浮かべ首を傾げて見せるガラスの向こうの地央に慌てて駆け寄ろうとした真直。射座の後ろのパイプ椅子に勢いよくひっかかり転倒しかけた。
「……あほ……」
思わず失笑してしまう。
間抜けすぎる……。
狼が、バカ忠実な犬になったような瞬間。
標的に向かっているときとはまるで別人だ。
射場は全てガラス張りになっていて、真直が出口に走るのを見ながら地央もそちらに向かって歩き始める。
エントランスから飛び出した真直は当然まだ射撃コートを着たまま、グローブすらもはめたまま地央に駆け寄り、地央の腕に伸ばしかけた手を、思わずといった風に引っ込め、二歩ほど後ろへ下がった。
「そんなに慌てなくても逃げねえし」
その言葉に、真直は砂を噛んだような顔をした。
「逃げたし。今日」
ガラスの向こうから聞こえるライフルの音にかき消されそうな真直の声。
「白い手袋した人の車で……」
「ああ。あれ。あー、えと、紅茶もらいに」
その紅茶の代金代わりのキスが浮かび、つい言葉にはキレがなくなってしまう。
「で、なんでここに?」
学校や寮にハイヤーで乗りうけるのが嫌だった。そして何よりは……。
「ん?ああ、いや……」
お前に会いたかったから。
そう言えばなんて答えるだろう。
お前に腕に抱きしめられたいんだなんて。
お前のキスじゃないと違う気がするだなんて。
そんなことを言えば、きっと喜ぶんだろうな。
「ラーメン食いたい。けど、一人じゃ行けないから一緒に来い」
……何を言ってるんだ、俺は。
視界の関係で真ん前が見えないからラーメンは得意じゃない。誰かと一緒にいかないと、隣の人を見てるみたいになるから。
でも何がどうって俺は別にラーメン食いたいわけじゃない。
口をついて出たのは理不尽な命令の、勝手なわがまま。
なのに真直がビックリするほど嬉しそうに笑うから、胸が苦しくなった。




