第42話 提案
――キィィィ
と、何か姿も想像できぬ鳥が鳴いたような音と共に、国王の眠る部屋の扉がゆっくりと開く。
私はその部屋に体を滑り込ませた。
その瞬間を見ていた衛視はいない。扉の音も聞こえていないようだ。誰か人が来る気配もなく、問題はない。
ただ、この部屋にある国王の容体を監視するための機器は24時間稼働しており、それによって異変が隣の部屋に控える医師達に伝わる可能性はあった。
写真やビデオカメラのような映像記録用の機器は幸いなことにないので、その意味では安心してもいいのだが、どことなく不安ではある。
国王の眠るベッドの横に近づく。
すると、
「……誰だ」
皺枯れた老人の声が、部屋に響いた。
この部屋に、声を発することの出来る者は二人しかいない。
そのうちの一人であるところの私は、何も言っていないし、年齢を経た声を出すことは出来ない。
つまり、誰が喋ったのかは、私と、彼の間において明らかな事実だった。
「国王陛下。意識が戻られたのですね」
そう、私が言うと、寝台からぎしり、と音がした。
寝台に近づく。すると、先ほどまで横になっていた筈の国王が、上半身を起こし、こちらを見つめていた。
私の姿は、未だ魔法で眩惑されているはずなのに、よく解るものだと感心する。
「見えるのですか? 国王陛下」
「馬鹿にするでない……とも言えぬか。お前が、ここにいる時点で、我が王宮の質が知れる」
くっく、と暗い笑いを漏らす彼の声には、怒りの感情も非難の意も込められていない。ただ、純粋に、面白いことを見つけて嗤っている、という風にしか聞こえなかった。
自分の眠る部屋に曲者が自由に入ってこれる環境を、そうやって笑える人間と言うのは、極めて奇妙な存在である。
私がそのことを指摘すると、
「人であれば、責めようもあるが、相手が人でないとなれば……我々にはどうしようもないことだ」
諦めたような国王の口調。それは私が誰か分かっているかのようである。
「私が何者か、お分かりなのですか?」
「分かっている。死神であろう?」
「……」
「……違うのか?」
随分な存在に間違えられたものである。
確かにそのようなものならば、衛視の監視などいくらでも潜り抜けることができるだろう。責めるのも確かにお門違いと言うことになる。国王の余命から考えても、そんなものがそろそろ来てもおかしくないのかもしれない。
けれども、私は全くそんなものではない。
「違いますよ。分からないなら……これでどうです?」
息を吸い、魔力を集中する。
湧き上がってきた力を、形に変える。
この体ではない、別の私へと。
国王は、目を見開いてその様子を見つめていた。
それも当然だろう。人型をしていた物体が、何か不可思議な現象でもってその形を作り変えているのだ。
この世界において、人間の魔法に身体そのものを変化させる術式は一般的には存在しない。
あるのは、例えば付属的に背中に羽をつけるとか、その程度である。
そうして、私は、下から国王を見上げた。
国王の寝台は、今の私にとっては遥か上にあるのだから。
「……その姿は」
「分かりますよね。私が何か」
猫の姿に変わった私をしげしげと見つめる国王。
私は体中のばねを使い、国王の寝台まで跳躍する。
とすり、と柔らかい布団の感触が肉球に感じられた。
部屋には命の蝋燭の消えかかった老人の饐えたような匂いに満ちている。
どこか悲しい、虚しいような、そんな匂いだ。
それは鼻につくというほど強くもなく、このまま存在ごと消えてしまいそうなほど微かで薄い。
ふんふんと鼻を動かす私に、国王は笑いながら言う。何もかも諦めたような笑顔。彼はどうでもいいと思っているのかもしれない。この国も、そして自分の命も。
「死の匂いでも嗅いでいるのか……魔族。まさか我が寝室に貴様らがやってくる日がこようとは思わなかった」
非難するような響きではない。驚きも、感じられない。
「出来ることなら、我々もわざわざ国王の寝室に押し入るような無礼な真似はしたくはありませんでした。ただ、そうせざるを得ない理由がありまして……」
ぴくり、と眉を動かし、国王は視線で続きを促した。
その姿はとてもではないが死にかけている人間には見えない。
国王として十分な頭の冴えと王威を持ち合わせる彼は、数日後に迫るそれがなければ、これからも国を平穏に収められたのかもしれない。
しかし、彼をしてすら見抜けなかったものも、この国には確かにあったということを私は知っている。
「こんなことを陛下のご存命中に申し上げるのもまた無礼を通り越して不敬かと思いますが、申し上げざるを得ない私の立場も慮っていただけると光栄です。……陛下、陛下の命はあと数日ですね?」
「……そんなこと、不敬でもなんでもない。大体お前の言葉には国王に対する敬意という物が感じられん」
「あれ、そうですか? 敬意はあるつもりなんですが」
割と丁寧に話しているつもりだったのだが、そうは聞こえないらしい。
もっとへりくだるべきだったか。まぁ、いまさらそんなこと思っても遅いかもしれないが。
国王は不機嫌そうな顔を更に顰めて言う。
「ふん。魔族と言うのはどいつもこいつも人の神経を逆なでしおる……しかし、事実は事実だ。わしはもう七日もせずに死ぬだろう。医者どもの話では五日が限界だと言う話だったな。それで、それがどうかしたか?」
「私はかなりマシな方だと思いますが……あぁ、そうでした。それで陛下、陛下は近々訪れる、ご自分が身罷られた後の事をどのようにお考えで?」
「本当に一切の遠慮がないな、貴様は」
国王はそうして、ため息をついた。
なんだろう。確かに最近、人に対する遠慮というものがなくなりつつある気がしないでもない。魔族に近づいたからか……だから、考え方もそのようになってきているのだろうか。失敗してもいいと言われている手前、気負いがないのも理由だろうか。
でも、国王は私の口調に珍しさは感じていても、嫌がってはいないような、そんな雰囲気がした。むしろ楽しそうに思えるのは、決して間違ってはいない気がする。
まぁ、死を前にした人間である。敬意とかそういうものをへりくだって表されるよりも、こうやって普通の会話をした方が嬉しいのかもしれない。
けれどとりあえずは謝っておくことにする。不敬罪で逮捕は嫌である。
「性格です。すみません」
「……もうよい。儂が死んだ後の事か……万事、宰相に任せておるからな。儂の国葬の後、王位は順当にいけば長男のアマデウスが継ぐだろう。アマデウスはそれなりの器だ。突出した国王にはなるまいが、それなりに国を治めるだろう。戦も貴様ら魔族がいるからもう起きまい。心配も無用だ」
少し考えてから、国王はそう言った。
この世界において、様々な国で様々な政体がとられているが、ミュレイン王国は男女を問わない長子相続をその基本とする王政である。ごく稀に、長子ではない者が相続することもあるが、それは例外だ。
だからこそ、普通に考えれば国王の言った通り、彼にいる子供たちの中で調子であるアマデウスが継ぐことになるだろう。
けれど――
「陛下。それでは困るのです」
「何?」
怪訝な顔をする国王に、私はゆっくりと言った。
「国王陛下にお願いがございます。今回の王位継承は、どうかアマデウス殿下ではなく、エリナ殿下にしてください」
私は、そのためにここに来た。




