第40話 道を急ぐ
エリナはそれに気づくと同時に、黒猫を強く抱きしめる。
この生き物は、きっと魔族だ。そうであるならば、他の誰かに見つかってしまうと処分されてしまうかもしれない。
そう思ったから。
魔国にフランドナル大陸が統一されて、20年経った。
魔族は、もはや人間の敵ではなく、指示を仰ぐべき対象となったはずだった。
にもかかわらず、住む者の大半を人間が占める国家において、魔族に対する忌避感情は一向に薄れることはなかった。
人の憎しみというものは、たった20年でなくなってしまうような、軽い感情ではなかったという事だろう。
遥か千年の長きに渡り、ふつふつと醸成し続けられたその感情は、どこまでも広がってもはや換気することすら不可能なのだ。
たとえどんな場所にいこうとも、人と魔族の間に争いの香りは漂い続ける。
どんな国の、どんな街に行っても、今だに魔族を迫害することに命を燃やし続ける人々がいることは周知の事実だ。
魔族と戦争を継続している中で生まれた戦いに慣れた者たちで作り上げられた互助組合――冒険者組合――も、魔族に人類が敗北してからは表向き解体されたが、闇の社会で未だに暗い執念を燃やしながら生き続けている。
魔族に敵対する勢力は死んだわけではない。ただ、地下に潜っただけなのだ。
だから。
魔族を見つけたときに、誰が、どんな反応をするのかは予想することができない。
騎士の中にも、貴族の中にも、また侍女や使用人の中にさえ、魔族と敵対する彼らがいないとは限らない。
隠さなければ。
この小さく弱いであろう魔族を、人の目の触れないどこかに隠さなけば。
そう思ってからのエリナの行動は早かった。
陛下が目覚めていないことを確認し、静かに陛下の寝室の扉を開けると、自室へと急ぐ。
王宮はどんなところにも人がいる。
精緻な彫刻の施された壁が目を楽しませる廊下には忙しなく働く官吏たちが、世界中から取り寄せられた植物の濃密な香り漂う中庭には陛下の側室やその取り巻きたちが。
エリナが自らの寝室に急ぐ度、彼らの視線が猫に向かうのを怯えながら歩いた。
黒猫の背中が見えないように、強く抱きしめ、道行く誰かと視線が合っても挨拶もそこそこに、意味ありげな笑顔でかわしていく。相手は不思議そうに首を傾げながらも、あまりに華やかなエリナの微笑みに一瞬言葉を詰まらせる。その一瞬のうちに、いつのまにかエリナは遠くに行ってしまっているのだ。
それからしばらく呆けたあとに、そういえば殿下は猫を抱いておられたが、と思い出し、しかし先ほどの微笑みのなんと美しかったことかと想い、瞬間的に猫の存在を忘れた。
エリナは、あまり自分では認識していなかったが、多くの人間を魅了してやまないほど美しかった。
そうして、エリナは永遠とも思える長い時間をかけて、自らの居室に辿り着く。
扉に手をかけ、開けようとしたその瞬間、
「……殿下? 何を抱いておられるのです」
後ろから、声がかかった。
エリナは驚きのあまり肩を震わせて、ゆっくりと振り返る。
そこにいたのは、エリナよりも遥かに背が高く、がっしりとした体型に白銀の鎧を身に纏った美丈夫だった。
「……ゴード騎士団長」
喉から絞り出されたその声が、思いの外、細く聞こえた。
自分の声はこんな声だったかと、エリナは困惑した。
その男は、ハルファル・ジョーと言った。彼は王国と隣国カンドとの間に存在するゴード砦を守護する騎士団の最上位に位置する人物で、本来なら砦にこもり、王宮などにいるはずもないのだが、何か用事があったのだろう。
ゴード騎士団長ハルファルは普段とは異なるエリナの対応に首を傾げる。
エリナは、慌てて、けれどその感情を表に出さないで余裕のある微笑みを浮かべて見せた。
これで、ハルファルの不審は買わないはずである。
エリナとて、王族の一員である。
ミュレイン王国における古今の法では、王位を継げるのは男子に限られない。
ただ、優先的に国王の子のうち、男子にまずその権利が与えられ、国王の子に男子が存在しない場合に初めて女子にその権利が与えられるという形式的順位が存在するため、現在次期国王とされているのはエリナの兄である。
ただもしものときのために、エリナも帝王学を学んでいたし、それがために、エリナは追い詰められれば追い詰められるほどその表情と仕草に余裕が出てくるという奇妙な精神構造が作られていた。
だからこそのその表情、その微笑みだったのだが、先ほどまでこれで騙されてくれた他の者とハルファルは違った。
常に王宮にはいない武辺者である彼には、そう言った機微に対する嗅覚とも言うべきものが、薄かったのかもしれない。
ハルファルは、もう一度繰り返す。
「殿下、その、抱いておられるものは一体なんなのです?」
焦るエリナとは正反対に、その胸元にぶら下がる黒猫はあくびをしてエリナを見上げていた。




