第39話 闇に還るもの
「……つ!」
息を潜めながら、エリナはそうっと、陛下の枕もとに近づく。
あの猫を捕まえなければと、そう思ったからだ。
そもそも、動物というのはとても愛らしく、やわらかいものであるが、野生のものには触ってはならぬと母からも、教育係からも言われてきた。
それは、野生の動物と言うのはどんなところで生きてきたかもわからないし、どのような病にかかっているかも分からない不潔なものであるからだという。
ただ、だからと言ってエリナは動物に触れたことがない訳ではない。
しっかりと衛生管理のなされた清潔で健康な動物に、調教師や騎士の監視の下で、という条件のもとでなら、撫でたことも、一緒に遊んだこともあった。
ただ、野生のものは……。
あの猫は、不潔なのではないか。
もしそうであるならが、今の陛下のお傍に近づけるのは、よくない。
陛下は、父上は病にかかっていらっしゃる。体も普段よりかなり弱っている。
だから……捕まえないと。
エリナは、少しの勇気を振り絞り、猫のもとへと近づく。
手を広げ、頭上に掲げつつ、あくびをしながら後ろ足で自分の体を掻いている黒猫相手に飛びかかろうとしているその姿は、誰が見ても、エリナがあまり運動が得意ではないことを悟るだろう。また、若干の微笑ましさも、もしかしたら感じるかもしれない。
国王崩御の目前に迫るこの日に、少しでも彼女の負担が軽くなってくれればと、思う誰かもいるかもしれない。
しかしそんなことはエリナにはわからない。エリナはただ真剣に猫をとらえようとその神経を集中させているのだった。
「えいっ!」
そして、エリナは飛びかかった。
エリナにしては、頑張った方だろう。たとえ黒猫から見れば蠅の止まるような速度だとしても。
意外なことに、黒猫は少しため息をつきながらも、エリナの腕の中に収まった。
黒猫は、暴れる様子もなく、エリナの腕の中に捕まりつつもよじ登る。
エリナはその愛らしさに満足し、そして言った。
「この部屋に入ってはだめよ……陛下は、ご病気を患っていらっしゃるから……。そうね、中庭などは入り組んだ作りになっていて、あなたも気に入るんじゃないからしら。……連れてってあげる」
そんなことを言いながら部屋を出ようとエレナは扉へと歩く。黒猫も大人しい。
エリナは、動物が好きだった。管理されたものも、野生のものもだ。
ただ、野生のものは触れることを禁じられていた。だからこそ、これはいい機会だと、エリナは黒猫を撫でまわした。
さらさらとした毛並みの頭を撫でると、黒猫は目を細めた。
すんなりと伸びる前足に触れ、ぷにぷにとした肉球に至っては、天に上るような気持ちになった。
そして背中をさらりと撫でると……、
「……?」
こり、と。
猫には似つかわしくない感触がした。
毛並みの滑らかさではない、なんというか、不思議な感触。
体温の籠った温かさは感じるのだが、どことなく人工的なもののような手触りが……。
不思議に思ったエリナは一旦その場に座り込み、黒猫の背中を観察した。
すると、
「これは、羽、かしら……?」
黒猫の背中には蝙蝠のような皮膜が一対、生えていた。
あまり大きくはなく、これで空を飛ぶのはおそらく不可能だろうと思われるようなサイズ。
しかし確かに生物として黒猫が備えているものだと理解できるのは、その皮膜には血管が通り、どくりどくりとと血が流れているのがはっきりと視認できるからだ。
このような生物を、エリナは見たことが無かった。
「あなたは一体……?」
くりくりとした黒目を見つめつつ、あぁ、愛らしいわと思いながらも、エリナは首を傾げる。
猫、ではないだろう。猫に羽のような皮膜はついていない。
では何なのか。
エリナはその答えに一つの心当たりがあった。
確か、あの生物、近づいては絶対にならぬと言われてきた、あの生き物は、複数の生き物の特徴を備えているものも存在するのではなかったか。
闇から生まれ、闇に還るその眷属。
人を襲い、街を破壊し、国を崩すことに長けた、存在自体が許されざるそのいきものたち。
そう、それは、たしか。
「……魔族」
エリナの声が、部屋に不自然に大きく響いた。




