第38話 死神の使い
それは大変ではあるが、かつて地球において職に就けずに仕事すらもらえずぼんやりと過ごしてきた私には充実したものであった。
こちらの世界――魔法や魔族がいるファンタジーな世界――に来てから、いくつかの仕事を覚え、またいくつかの出来事を経て、よくわからない謎体質を得た私であるが、それでもその根本は、「お仕事頑張ろう」という気持ちである。
だから、たとえどのような仕事でも、それが紛れもなく「仕事」であるのならば、私としては一生懸命邁進する覚悟であって、その内容に文句を言おうとか、別の仕事に変えてくれないかとか、そういうことはあまり言おうとは思わないわけである。
たとえそれが――
◆◇◆◇◆
いま、その部屋には、普段では考えられない数の人間がひしめき合っていた。
その部屋の中心には、大きな天蓋の据えられたベッドが置かれている。それは国内の高名な家具職人が数年を費やして作り上げた逸品だった。そのため、たとえどのような場所においてもその芸術性の高さは隠しきれずに人の目を集めるものであるはずだが、こと、この場所においてはそのような事態には至っていない。
なぜか。それは別に耳目を集めずにはいられないものが、そこにはあるからだ。
それに、その部屋は、広さもさることながら、ベッドから羽ペンに至るまで全てがどんなに金を積もうとも望むべくもない豪奢で洗練された品に統一されていた。見るべき者が見れば、それだけでこの部屋に生活する人間の権威が理解できることだろう。
強力な権威を持つ彼。それこそが、この部屋で人の注目を集めずにはいられないものだった。
しかし、今、部屋の主であるはずの彼は、自らの就寝台の上で静かに胸を上下させるのみである。その眼も口も閉じられ、顔色は闇のように暗かった。
ベッドの上に眠る彼を取り囲むように、様々な器具を持った者たちが、険しい顔で彼の様子を見つめている。
器具を持ったものの一人――不思議な色に輝く水晶を持った男――が、背後にいる人々に向かって言う。
「多少持ち直しましたが……未だ予断を許さない状況です。体内魔力の循環が滞っております。また、その影響でしょう、臓器の一部に異常な魔力の集中が見られ、結果としてその機能に異常をきたしており……」
その者は、器具を持つ者たちは、医師だった。それも極めて高名な。
だからこそ、男の言葉は重い。
それは紛れもなく、彼を助けることは他のどんな人間をしても難しいということに他ならない。国一番、いや、大陸でも一番と呼ばれる医師たちを、集めた。金に糸目はつけなかった。その結果がこれか、と思うとその場にいる誰もの口からため息が漏れる。
「……それで、あとどれくらい……?」
命が持ちますか、とまでは言えなかった。
ひしめく人々の中から、一人の少女の声がそれを聞いた。
人の壁を押しのけるように前に出ると、少女は青い顔で医師たちを見つめる。
「非常に申しあげにくいのですが……五日が限度かと」
医師の明言に、人々がざわめいた。
少女は予想はしていたとはいえ、はっきりと言われると衝撃があったのか、床に崩れ落ちる。どこからともなく侍女たちが現れ、少女の体を支えた。
少女はしばらく、掌を額につけながら、息を整えると、侍女たちに二、三事言って自らの足で立ち上がる。
「申し訳ないことです……取り乱しました。五日、とおっしゃいましたが、それは長くなることはないのですか?」
縋るように、少女は言う。
しかし、医師は非情だった。
いや、高名な医師であるが故の、高度な職業意識がそうさせたのかもしれない。
医師は言った。
「最大五日、と申し上げております。実際のところ、明日身罷られてもおかしくは……エリナ殿下」
少女は――ミュレイン王国第二王女エリナ=ミル=ミュレインは、再度崩れ落ちそうになる自らの体をその精神力で支えて、ひしめきあった人々に向かう。
部屋に集まる多くの人々。
ミュレイン王国の屋台骨を支える貴族たち、主要な国家機関の長、それに、今ベッドに静かに眠る彼――国王と親交の厚かった者たち。
彼らに向けて、エリナは言う。
「皆様。お聞きになりましたでしょう。父は……国王陛下の命はあと、僅か。時は非情でございます。私たちに陛下とのお別れを嘆き悲しむ暇すら与えようとしてくれないのですから。国王陛下が病に臥せって数か月、皆様はその不在を埋めようとその身を砕き、骨を粉にしてこの国を支えてくださいました。……数日後には、その不在が永遠のものとなるのです。どうか皆様、いま、このような時だからこそ、陛下の寝室から外に出て、国をこれからも繁栄に導いていかねばなりません。お気づきの方もいらっしゃるでしょうが、いまここに兄はおりません。父の代わりに執務に奔走しておられますゆえ……皆様、陛下のためにも、そしてこの国のためにも……」
エリナの台詞を最後まで聞かず、部屋にいた人々は丁寧に頭を下げて、部屋を辞去していく。自らの仕事を、彼らは思い出したからだ。
国王の容体の急変を聞き、執務を部下に任せてこの場に来てしまった彼ら。
エリナは最後の人が部屋から出ていくのを見送ると、医師たちに向き直る。
医師たちは様々な設備が正常に動いているのを確認すると、エリナに頭を下げる。
「それでは殿下、我々も下がらせていただきます。陛下の容体につきましては隣室から24時間、監視しておりますので……」
そう言って、医師たちは部屋から出て行った。
残ったのは、エリナ一人。
エリナは国王を見た。
髭は綺麗に剃られているが、頬はこけ、顔色は悪かった。
かつて自信と威厳に満ちていたはずのその顔は、今やただの老人のものに過ぎない。
「お父様……なぜ、今なのです。あなたには、とるべき責任がまだ残っているのに……」
少し責めるようなエリナの声に、国王は何も答えない。
ただひたすらに眠るだけ。
それを見て、エリナは諦めたのか、部屋を出ようと扉を開いた。
「……きゃっ」
黒い影だった。どこまでも暗い闇色の。
国王の寝室に飛び込んできたそれは、エリナにはまるで死神の使いのように思えた。
エリナは部屋を出る前に、反射的に扉を閉め、それが何なのか、見極めようとする。
部屋には、エリナと、国王と、それがいる。
エリナは振り返り、部屋を隅々まで見回すも、どこにもその影が見えないことに気づく。
「……どこ……どこにいったの……?」
ゆっくりと、歩き、家具の隙間や、死角になりそうなところを覗いていった。
そして、
「……っ!?」
見つけた。
それは、こともあろうに、最も不敬な位置にいたのだ。
陛下の枕もと。
黒いそれは、何か不吉な曲線を描く長いものを陛下の首にかけているように見えた。
それは、まるで陛下の命を奪い取ろうと大鎌を首にかける死神ではないか……。
しかし、エリナがそう思ったのも一瞬のことであった。
真黒く、不吉なものの象徴のように思えたそれ。
よく見ると、しかしそれは正反対の存在であったことに気づく。
「……あら。……黒猫……?」
そう、それは艶やかで、優美な色合いの毛皮を誇る、美しい黒猫だった。




