閑話 グラーレンとミリアの出会い1
――また、この顔か。
グラーレン・クバトイラは目の前でどこか覇気のない笑みを浮かべている自分の父親の顔を見て、そう思った。
彼の父親は、いつもこうだった。
グラーレンと相対すると、必ずこの表情になる。
いつごろからそれが始まったのかはもう記憶の彼方だ。
ただ、これだけは言える。グラーレンはこの父親の顔が好きではなかった。
グラーレンは微妙な表情を浮かべる父の顔をまっすぐと見つめながら、質問する。
「もう一回、言ってくれますかね?」
父に対する口調ではない。ぞんざいで、投げやりな言葉だった。
ただ、これも父が浮かべている表情と同じで、いつごろからなのかはわからない。
気付いたら、こうなっていた。それだけの話だ。
グラーレンの父、ファリアスはそんなグラーレンの口調に注意もせずに、先ほど言った言葉を一言一句たがわずに繰り返した。
「この春から、魔導学院に行ったらどうかと思ってね。君もそろそろ学問を学ばないと」
グラーレンの家――クバトイラ家は一応、貴族の一角に名を占めている。
それもファリアスは領地を有する伯爵の位も持っている。
そのためその子息の教育は通常、家庭教師を招き行われる。
領地経営については父の後について学び、基礎教育については家庭教師に学ぶ。
そして親族との親交を深めながら、次の伯爵として経験を積んでいく。
しかし、今ファリアスはグラーレンにその“通常”に反する台詞を言っていた。
曰く、魔導学院に行け。
このセリフは一般的には廃嫡の宣言に等しいものだ。
魔法使いとしての技術を身に着けろというのは、それで自分の食い扶持を稼ぎ生きていけ、とそういう意味なのだから。
だから、グラーレンも確認した。もう一度言ってくれと。聞き間違いではなかったのかと。
しかし現実は無情で、父はあっけなくも二度、その台詞を息子に対し吐いたのだった。
――考えてみれば、当たり前なのかもしれない。
グラーレンは、俗に言う忌子、鬼子だった。
人の身にはあまりにも強力過ぎる魔力を持ち、生まれてから幾度となく魔力を制御しきれずに暴走を起こして周囲の人間を危険に陥らせてきたのだから。
いや、生まれてから、というのは語弊がある。
ただしくは、生まれる以前からと言うべきだ。
母の腹にいるときから、その魔力の強力さは母体に大きな影響を与えてきた。
魔力は毒ではない。ただ、あまりにも濃度の高すぎるそれは、毒にもなりうるのである。
グラーレンの母は、グラーレンをその腹に宿した十月十日の間、その毒に晒され続けた。
それでも決して堕胎しようとしなかったのは、なぜだったのか。もう聞くことはできない。
聞いても彼女は見当違いの事しか言わないのだ。濃すぎる魔力はグラーレンの母の精神を蝕んでしまった。今では介護されなければ食事することもできない。
ただ、そんな状態になってもグラーレンを見る目は優しかった。だからそれだけがグラーレンのよりどころだった。
物心ついてから、この屋敷の中に自分の居場所が見当たらなかった。
侍女はグラーレンの魔力を恐れて近づかない。
父も腫れ物に触るかのような態度で接する。
屋敷を抜け出して友人が出来たこともあったが、その友人もグラーレンが一度暴走を起こしてしまってからは寄り付くこともなくなった。
――結局、何もないのだ。
グラーレンの手元には、もう、母親の優しい目しか残っていなかった。
なのに、父はそれすらも奪おうと言う。
魔導学院へ、行けと。
そんなことを言うのだ。
とても許せることではなかった。そんなところに行って、一体何になるのかと、胸倉を掴んで問い詰めたい気分だった。
けれど貴族の家において当主の命令は絶対である。
それに逆らうことは社会的な死を意味していることを、未だ十歳に至らないとはいえグラーレンもよく分かっていた。
ぞんざいな口調で許されているのも、こうやって相対しているときだけで、人前に出るときは決してこのような口を利かない。
結局、自分は持って生まれた強力な力も何の役にも立たせることなく終わっていくのだ。
グラーレンはそう思って、暗澹たる気分になった。
下げた目線を徐々に上げ、父の目を見つめる。
何を考えているのかわからない、まるで推し測るかのような不快な視線だ。
――俺に一体何を求めてるんだ。
グラーレンは父の前に出るたびに、そう思っていた。
それもわからずに、自分は学院に行く。
きっともう戻ることも許されない。
それが分かっていながらも、グラーレンは父の提案に応える。
「分かったよ。魔導学院だな?」
「うん。もう既にユーベルグラッド魔導学院に願書は送ってある。試験は三日後だ。明日馬車が迎えに来る予定だ。君なら問題なく受かるだろう。さぁ、行きなさい」
そう言って、父はグラーレンに扉を勧める。
グラーレンが一瞬扉に目を向けた後、父の方を振り返ると、父は既にグラーレンを見ていなかった。
グラーレンは部屋を出て、ゆっくりと扉を閉めると胸の奥に凝っていた澱のような空気をすべて吐く。
そうして、母の部屋へと足を向ける。
こんこん、と扉を叩くと柔らかなソプラノが響く。
「――どうぞ」
「失礼します」
中には様々なぬいぐるみが転がっていた。
どれも母の手製の品だ。
父曰く、グラーレンが生まれる前に、子供にあげるのだと作り始めたものらしい。
それを母は未だに続けている。
そして、出来上がると自分のおなかを見つめて言うのだ。「いつ生まれてくるのかしら? 楽しみなのよ。わたしの赤ちゃん」。
悲しめばいいのか、喜べばいいのか、よく分からない。
でも、自分が母に望まれて生まれて来たということがはっきりと分かるその独白は、グラーレンの心に温かい気持ちを運んでくる。
グラーレンは、母が好きだった。
グラーレンはロッキングチェアに揺られながらどことも知れぬ方向を見つめ微笑む母に近づき、言った。
「母上。俺は明日、この家を出ていきます。どうかお元気で……」
「あらあら、そうなのそれは大変ね。赤ちゃんが生まれるころには戻ってこれるかしら?」
「……戻ってきますよ」
「そう。それは良かったわ。うふふ」
戻ってこない。来られない。
それが分かっているグラーレンは何ともいえない微笑みを顔に張り付け、部屋を辞去する。
自分の部屋に戻ると、荷造りを始めた。
持ち物は少なく、すぐに荷造りは終わる。
そうしてグラーレンは横になった。この屋敷で眠る、最後の夜を想いながら。
不思議なことに、今までにないほど深い眠りが得られた。
何かがふっきれたのかもしれない。
けれど、それが何なのかは、未だに分からない。
◆◇◆◇◆
魔導学院の試験はさほど難しくなかった。
いや、むしろ酷く簡単だったと言うべきだろう。
今まで誰かと比べたことはなかったが、幸か不幸かグラーレンの頭脳は優秀であったことが証明された。
その事実が、何もかもなくしたと思っていたグラーレンの心を僅かに慰める。
試験は問題なく合格し、そしてグラーレンはユーベルグラッド魔導学院の生徒となった。
魔導学院に学年と言う括りはない。
自分が学びたい科目を好きに選び、勉強する。それが魔導学院の基本方針だった。
ただあまりに自由度が高すぎても生徒が困惑するため、一応の年齢別モデル時間割表というものはあった。
ただそこから外れた組み方をしても全く問題はない。ただ年間で最低取得単位数が定められており、それに達していれば在学が認められる。卒業、というものは無く、十分学んだと思えばいつ出て行ってもいいし、足りないと思うならいつまでいても構わない。かなり自由な校風なのであった。
グラーレンはここで何をすべきか、悩んでいた。
自分に何があっているのか計りかねていたのだ。
確かに魔力は飛びぬけて多いのは確かである。人間としてはこれ以上望むべくもない量の魔力を持っている。
宮廷魔術師を目指すのが最も無難な選択と言える。
けれど、グラーレンは何度か自分の魔力をコントロールできずに暴走させている。
その事実がどれだけ不利に働くのか、わからない。
それに仮に宮廷魔術師になれば、城で父と会う羽目になるのではないか、と思った。
それはできれば避けたい、とも。
そうして考えていくと、時間割を手にしながら何を選択すればいいのか答えが全く出てこない。
――どうすれば。
入学して初日の説明会の会場で、グラーレンはそんな風に頭を抱えていた。
と、壇上に立つ学院の教員が、入学試験の順位の発表を始めるようだった。
入学試験は、二つの科目に分かれていた。
一つは筆記試験。歴史や計算、文章読解などの基本的能力を問うものだ。
もう一つが、魔力量検査。これは試験、というよりただの確認だ。人の持つ魔力量は後天的に変えることはできない。だからここで切られてしまうと、残念ながらどうやっても魔導学院には入れない。この点、グラーレンは全く心配せずに済んだ。人としては最高の魔力量をグラーレンは持っていたからだ。
したがって、筆記はともかく、魔力量検査はグラーレンが首位である。そう、教員が発表するはずだと思っていた。
「入学試験の順位上位三名を発表いたします。それぞれ、筆記と魔力量に分けて発表いたしますのでお聞きください。まず筆記試験。首席、グラーレン・クバトイラ、次席、エミリー・バレンシア、三席、サルーデス・ハント、でございます。次に魔力量検査……」
自分だ。筆記で首席になったのは意外だったが、魔力量については聞くまでもなかった。
だから、次の瞬間、グラーレンは自分の耳を疑った。
「首席、ミリア・アルトフォルテ、次席、グラーレン・クバトイラ………」
続きは耳に入らなかった。
なぜ。
なぜだ。
なぜ魔力量で自分を上回る人間がいる?
グラーレンはその“ミリア”がどこの誰なのか、周囲を探した。
けれど、見た目もわからず、名前だけではどうやっても探しようがなく、結局わからずにその日は寮に帰る羽目になった。
――ミリア・アルトフォルテ
寮の、実家の屋敷とは全く異なる固いベッドの上で、その名前を反芻する。
なぜか、会わなければならないような気がした。
必ず、会って……会って、自分は何をしたいのだろう?
グラーレンは、初めて見つけた自分の“仲間”らしき存在に心を躍らせていることを気付かずにゆっくりと眠りに落ちたのだった。




