第22話 改めて交渉
しんとして、生き物の気配の感じられない。太陽に愛された生き物たちは皆、寝静まり、地平線の向こうからまたお日様が昇って来るのを待っている。
けれど、自分はこの時間が一番好きだ、と月からの加護を受けた男は部屋に佇みながら思った。
それにしても、今日は面白かった、とも。
キリハはもう眠っている。今日は色々あったし、疲れているのかもしれない。
「おい、本当にあれでいいと思っておるのか?」
カップをニ脚持ってきてテーブルに置き、そう男に聞いたのは髭もじゃの大男、ガッスールだ。
「前から決めていたことだし、いいと思うよ」
答えたのは魔国宰相フェラードである。
銀月が柔らかに照らすその顔は美しく輝いている。彼が月に愛されていると言われれば誰もが真実に違いなかった。
ガッスールはそんな彼の対面に腰掛け、目をぎらぎらさせながら物騒に笑った。どこかフェラードを責めるような雰囲気がするのは気のせいではないだろう。
「はっ。前からじゃと。今日のやり取りは茶番なのじゃな?」
「そんなことはないさ。前から決めていたのは本当だけど、今日言われて初めて気付いたことが沢山あったよ。誇りとか、慣習とか、そういうものの扱い方って、確かに僕らにはよくわからないだろう?」
「確かにそうじゃな。魔族にはそんなもの、必要ないからのう」
「だから、そういうことを考えられるキリハに任せるのは悪くない判断だったなって思ったよ。茶番じゃない」
「そうか。理解はしておくかの」
ガッスールはフェラードの真意を聞けて納得したのか、目のぎらつきを収めて二階を見た。
銀月が柔らかに室内を照らしていた。
静かな部屋に、カップとソーサーが接触する音だけが響く。
二人とも、沈黙を好む男だ。このままいつまでも黙っていることもできる。それが苦にならないだけの関係もあった。
しかし、フェラードはそれを破って話しだす。
「それで、大臣のところにいた女の子は何だったのかな」
「十中八九、魔法大陸の高官じゃのう。近頃奴ら、フランドナル大陸の各地に乗り込んできて色々やっているようじゃ」
「魔法大陸か……面倒くさいところが出てきたな」
「まぁ、20年放っておいてくれただけ、いいじゃろ。対策はこれから考えればよい」
「問題山積で嫌になるね」
「宰相とはそういうもんじゃ」
「はぁ……」
フェラードはこれからしなければいけないだろう仕事の数々を思って、頭を抱えた。
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「……詫び、ですと?」
数日前に怒り狂ったゲルハルト侯爵の顔は今、非常に疑わしげな表情をしている。
それも当然のことで、フェラード氏が“命令”などと言って高圧的な態度に出た件について、私がわざわざガルタニアの正式な作法に則り詫びを入れているためだ。魔国の力を思えばそのようなことをする必要はなく、またゲルハルト侯爵にしてももはや暗殺されても文句は言えない程度のことをフェラード氏にしている訳だが、そのことについても全く触れず、とにかく全て水に流し話し合いを初めからしようと言っているのだ。怪訝に思わない方がおかしい。
しかし私はそのことについてはひたすらに無視して話を勧める。
「ええ。数日前に我が国の宰相が随分と失礼な態度をとりましたから……ついては侯爵殿の海のように広い心で許していただけないかと思いまして」
「しかし……私がしたことについてはどうお考えで?」
「……なにか、問題がございましたでしょうか。お孫さんを交渉の場に居座らせたことですか?」
どう見ても孫ではなかったあの少女について、そのような言い方をする私の態度にゲルハルト侯爵はこちらの意を酌み取ったようである。先ほどまでの表情とは打って変わって、気持ち悪い位の笑顔で話す。
「ええ、まぁ……我が孫可愛さとは言え、非常にご迷惑をおかけしたと思いまして……いずれあの子は我が領地を継ぐ身、いずれは魔国との橋渡しになればとの思いでございました……」
神妙な表情で出てくる嘘八百に正直笑いが出そうだがそれは抑えなければならない。ここで笑えば茶番は終わりだ。
「そうですか……私はまだ子がいないのでそう言ったお気持ちについては分かりかねますが……宰相閣下も心の広い方です。それくらいのことは構わないとおっしゃっておられます。ところで、この間の提案のことですが……」
「ああ、そのことでしたら、わが国でも前向きに検討させていただきたいと」
この点については未だに納得がいかないのだろう。ゲルハルト侯爵の顔は屈辱によって歪んでいる。
しかし実際それほど悪くはない提案なのである。彼がそれほどに拒否したいと考えているのは自分に旨みが全くないと考えているからだ。そこを解決できれば、彼も問題なく頷くはずだった。
「しかし、よろしいのですか? この間は封建制度の根幹を揺るがすとおっしゃっておられましたが……」
「まぁ……そう、ですな。しかし魔国の肩がそれほどまでに推進したいのであれば否やは……」
「なるほど、まさに命令には従わねばならぬ、と」
「いえいえ、そんなことは」
「いいえ。分かります。しかしそのような決め方をしてほしくないのです」
「と、申しますと?」
「我々が構築したい裁判制度のメリットとデメリットをご理解した上でのご検討をお願いしたい、と思っております」
「メリットとデメリットですか。しかし私にはどうにも……理解できぬのです。そんなものを構築して一体我々にどんなメリットがあるのかと。勿論、国民一般にはメリットがあるでしょうが……我々領主にとっては反乱を助長する危険な制度にしか……」
「おっしゃることは、理解できます。しかしそのような観点ではなく、経済面から考えて見てほしいのです」
「経済面……?」
ゲルハルト侯爵は私の話がどこに進むのか分からないようで困惑しているようだ。つまりこれはこの世界の人間の誰にも理解できない話である。だからこそ、これは交渉材料になりうるのだ。




