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魔国文官物語  作者: 丘/丘野 優
第1章
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第2話 森の狼さん

――桜の花びらが風に吹かれてざぁっと嵐のように乱舞する景色は、とても美しい。


 その日私は、ぼんやりと公園のベンチに座って桜の木を見ていた。空は薄く曇っている。確か、こういう空のことを“花曇はなぐもり”と言うのだとどこかで読んだなと、どうでもいい知識が浮かんできた。随分と綺麗な言葉で、だから覚えていたのだろう。

 スーツ姿で公園のベンチに座っている真っ黒な髪の、どこか垢抜けていないそこそこに若い女。それが客観的に見た私だった。なぜ平日の三時過ぎごろにこんなところで虚ろな目で桜観覧なんてしているかと言えば、それは私が今年大学を卒業したにも関わらず未だ定職に就く事が出来ていない悲しい身分の人間だからだ。全くもって泣けてくる切ない立ち位置にいると言わざるを得ないが、私はそこまで悲観していない。これから頑張ればいいと思っているからだ。確かにこの酷く荒んだ現代社会と言う灰色の世の中は頑張ったからと言って必ずしも報われるとは限らないし、私はもしかしたらこのまま一生定職につくことが出来ずに死んでいくのかもしれない。けれどだからと言ってもう私は終わっている死にたいとか言いながら生きていくのはあまりにも辛すぎるし、そんなことを考えながら生きても、就職活動がうまくいく訳でもないだろう。そうであるならば、そこそこ未来への展望を持って一生懸命頑張っていくのが最も合理的で正しい道なのではないだろうか。


 しかし、そうは言っても私は合理的判断に従って感情のコントロールを出来るほどに人生経験を積んだ冷静な人間ではない。自分で言うのもなんだが、私はまだ若い。当然、頑張ったつもりだったのにうまくいかなかったら心底落ち込む。様々な会社の試験を受け、何社かは最終選考までいったにも関わらず結果的に全ての会社から私の『今後のご健康とご活躍』をお祈りされてしまったのだから、それくらいは許されてもいいだろう。


――何が、悪かったのかな。


 だから、いくら他のことを考えて気を紛らわせようとしても、結局思考はそこに戻って来る。一体私の何が悪かったのかと。なぜ毎回ご縁がありませんでしたねと言われてしまうのかと。

 友人たちのことを考える。

 大学の同級生たちは、今頃は皆会社でバリバリ仕事をしているころだろう。まだ三時過ぎだ。こんなところにいる私がおかしい。そして、同級生の中には私が受けて不合格になった会社に受かって働いている者も何人かいる。彼女たちと自分、比べて見て何か劣っているとはとても思えなかった。友人達は皆、大学において授業は適当に受け、レポートは人任せ、試験もノートを売買してうまく切り抜けているという体たらくだったけど、私は違った。授業は真剣に受けたし、レポートはしっかり自分で調べて書いた。ノートもこつこつとって、予習復習もしっかりやって乗り越えた。一番、私が頑張った。そう思う。

 そして、なのになんで私は……、とこんな風に思ってしまう。そんなことを考えても仕方ないのに。何が悪いのか、といえばきっと要領とか性格とか運とか巡り合わせとかが悪いと言うことは分かっている。私はお世辞にも要領がいいとは言えない。性格だって友人たちの方が明るく人当たりも良かった。運や巡り合わせなんて、私は今までいいと思ったことなど一度もない。だから結局のところ、多くの会社からご縁がないと言われてしまう理由は、私が悪いからだと言うことは分かっているのだ。

 それでも、自問せざるを得ない。何が悪かったのかと。そして、そんな風に考えずにいられない自分を、酷く滑稽でばかみたいだと見ている自分もいる。


――一回、何も考えないで頭を真っ白にしようか。


 そう思って、私はほんの一時、何かを考えるのをやめた。

 目に入って来るのは、大きな桜の木と、そしてそこからひらひらと落ちてくる花びら。


――本当に綺麗だなぁ。


 心からそう思った。すさんだ気持ちに一番いいのは、こういう、自然の美しさなのかもしれないと感じさせる。

 今、私の心は落ち込んでいて、どこまでも世界を呪ってやりたいと考えているけれど、それでもこの世界は美しいのだと恥ずかしげもなく思う自分もいる。人間は矛盾を抱えた生き物なのだと深く思った。だから、昔から美しいものを愛すると同時に、戦争をしたりするんだろう。本当に、なんてどうしようもない種族なんだろう。


 私は、ひらひらと落ちるはなびらにゆっくりを手を伸ばした。なぜそんなことをしようと思ったのかは分からない。けれど、なんとなく掴みたいと思った。掴めば何か変わると、どこかで感じたのかもしれない。数えるのも面倒なくらいの会社から『あなたは必要ありません』と言われ続けた、合格を一回も勝ち取れなかった私は、何かを掴まないといけないと深層心理で思っていたのだろう。


 けれど。


――掴めない。


 何度掴もうとしても、花びらは私の手の中に入ってこない。掴むことが出来ないのだ。掴めたと思っても、ひらひらと落ちていく。私はどんくさいのだろうか。いや、どんくさいのだろう。小学校からずっと、そう言われ続けたような記憶もある。そう、私はどんくさい。

 何度も掴もうとしては失敗し、掴もうとしては失敗し、を繰り返した。傍から見れば頭のおかしい女に見えただろう。桜の花びらを掴むのに必死な、新入社員風の二十代前半の女。あやしすぎる。

 けれど、私はそれだけ必死になっても掴むことができなかった。


 ふと、涙が出てきた。


 必死になってもなにも掴めない私。重ねてしまった。何度就職試験を受けても受からなかった私に。何十社、何百社の就職試験を受けてもいらないと言われてしまった私に。

 涙は止めようと思っても止まらなくて、次から次へとぼろぼろ流れてくる。


――あんまり涙もろい方じゃなかったんだけどな…。


 今までの人生を振り返っても、私はそんなに泣いた記憶がない。悲しくないと言うわけではないのだが、それでも“泣く”という行動で何かを示そうと言う気には今一ならないのだ。高校の部活動で吹奏楽部だったのだが、三年生最後の県大会で金賞獲得と同時に引退が決まったときに皆泣いていた。みんな泣いていたのだけど、私だけはどうしても泣けなかった。部活には結構力を入れていたし、同級生ともそれなりに仲は良く、戦友のような気持ちもあったし、後輩たちは可愛かったから別れると言うのはさびしい、とも思っていた。だけど、泣くほどのことか?と、そんな風に思ってしまった。周りはみんな泣いているのに。ふいに、何となくいたたまれない気持ちになった。泣かなければならない場所で、泣けない私。なんて薄情な、と。幸い、部活仲間の皆は、私の性格を良く理解してくれていて、そういう場であんまり泣かない私を“こう言う場面で一番泣き出しそうな顔と性格をしている癖に、見かけの割にクールな女”だと好意的に見てくれていたから、村八分的立場に置かれることはなかった。でも、私はそういう私が、なんとなく、悲しかった。

 なのに、今は泣いている。不思議だった。もしかしたら私は自分のためにしか泣けない女なのかもしれない。どれだけ自己中なんだろう。でも、それが一番しっくりくるような気がする。結局、私は誰も大切ではないんだろう。自分が不当に扱われている、と感じるときだけ、泣けるほど悲しいのだ。友達とか後輩とか、そういうものには、愛着は抱いても惜しいとは思わない。そういう性格なのだ。紛うことなき、薄情者。それが私。

 ただ、それでいいとは思わない。いつかこんな私にも、大切な人が出来る日が来たらいい。そうじゃないと、人間としてさびし過ぎる。誰も大切な人がいないなんて悲し過ぎる。

 そしてそのためには、とりあえず生きていかなければならない。生きていくためには、生きる糧が必要だ。生きる糧を得るためには、お金が必要だ。

 



――明日からも就職活動頑張らなきゃ。


 私はそうやって自分を鼓舞して、立ちあがることにした。とりあえず、涙を拭おう。

 ポケットには、朝にティッシュと共に突っ込んでおいたハンカチがあるはずだ。

 真っ白なハンカチが。

 それを引っ張り出すと、私は涙を強めに拭った。化粧がとれた気がするが、まぁ、いいだろう。ここから家まで歩いて五分だ。帰ったらすぐに落とせばそれでいい。それからお風呂に入ってすっきりしよう。


 涙を拭ってるとき、一瞬、ゆらりとめまいのようなものを感じた。目を瞑っていたから、平衡感覚が少しおかしくなったのかな、と思ってあんまり気にしなかったのだけど。


 だから、そのめまいが、とても大変な事態を招いたのだとは全く気付いていなかった。


*****


 目を開けて、酷く驚いた。


――月と、桜。


 夜空に浮かぶ銀色の月が煌々と地上を照らしていた。

 地上には、柔らかに輝いている桜の木々があった。その数はとても数え切れない。

 桜の森。

 そう評するべき風景が、そこには広がっている。

 

 私は、ふわふわと落ちてくる桜の花びらに手を伸ばした。

 手に落ちた桜は、数秒そこで柔らかに輝くと、消えてしまう。

 不思議な現象だった。


――どうして…。


 首を傾げて、何度も同じように花びらを掌の上に乗せるが、同じことだった。

 桜の花びらは、ぼんやりと輝いては消えていく。

 地面にも落ちていくが、見ると、やっぱり落ちて優しく輝き、しばらくするとその姿を空気に溶かして消えていく。

 不思議で、幻想的な光景だった。

 あまりにも美しくて、夢ではないかと思った。けれど、そうじゃない。

 ほっぺたをつねると痛いし、確かにここは現実なんだと、勘が告げている。

 私はいつの間にか、どこかに飛ばされて来たらしい。

 さっきまでは綺麗に成型された人の手でつくられたベンチに座っていたのに、いま自分のおしりの下にあるのは大きな切り株だ。


――ここは一体どこだろう。日本のどこか?それとも…。


 考えても全く分からない。けれど、日本だと考えるのは難しい話だった。桜だけなら、きっと日本のどこかだ、と思ったことだろう。けれど、ここにある桜の花びらは、落ちてしばらくすると消滅するのだ。こんな不思議な現象は日本のどんなところでも聞いたことは無い。あったら確実に観光名所になっているし、きっと私も行っていたことだろう。そもそもそんな存在自体が美しい桜があったら、実家の庭にでも植えたい。桜は虫がつくから育てるのは難しいと聞くけれど。

 しかし日本でないとしたら、どこなのだろう。どこか別の国か?いや、それも違うのではないだろうか。地球上のどこかにこういう場所があったら、やっぱり話題になる。そしてやっぱり私は行くだろう。となると、ここは地球上ではないどこか、と考えるべきではないか。妖怪とか、そういう不思議ないきものが統べる世界なのかもしれない。神隠しとか、その結果たどりつけるどこか。そう言う話は聞く。ただ実際にあるものだとは思わなかったが。それとも、地球と同じように人間も存在する、並行世界というやつなのだろうか。俗に言う、異世界、のような。そうだとすると、魔法とか使えたりして。いや、結論を出すのは早い。というか出しようがない。ほとんど情報がないのだ。分かるのは、ここにある桜がおかしいということ。そして…。


――月が、二つ。


 地上を照らしているのは、二つの月だった。大きいのと、小さいのが一つずつ。小さいのは、大きいのの三分のニくらいのサイズだ。と言っても、どちらの月も今まで地球で見ていたものよりずっと大きい。すごく月が近い、そう感じるくらいに。

 照らす光はとてもやわらかで、綺麗で、そして優しい。息を吸うと、空気は少し冷たく、だけど今までの吸い慣れたものとは比べ物にならないくらい清浄だった。

 私はしばらく見とれて、ぼんやりとしていた。

 こんなところに来てまで、やっていることはもといたところと同じとは、少し笑えてくる。

 でも、落ち着く時間が必要だった。混乱している、というわけではなかったけど、ただこれからどうするかとか、考えなければならないなと思ったから。


 そうやってどのくらいの時間が経っただろうか。

 がさがさと、何かが近づいてくる音がした。こんな場所だ。なにか野生動物がいてもおかしくはない、というかむしろいないと不自然だろう。あの桜を食料に出来るとは思えないが、もしかしたら地面に落ちたりする前に食べたり出来るのかもしれないし、そうでないなら木の幹とかは食用に適しているかもしれない。ともかく、なにか動物がいるのは確実だ。私はその音の方向を、警戒しながら見ていた。

 そして、それはあらわれた。


 私はあまりのことに息を呑む。

 そこにいたのは、狼。それも、象よりも大きいのではないか、と感じるくらいに巨大な狼だった。

 目は赤く、獰猛な光を宿しているように見える。牙は大きく、どんな生き物の皮も、一瞬で噛み砕くことができるのだろうと感じさせる。爪は鋭く、そこらに生えている木など、腕の一振りで薙ぎ倒せそうだ。

 そして、目を見張るべきはその毛皮だった。月の光に照らされて、銀色に輝いている。滑らかで、さわさわと美しい。月に愛されている。そんな風に感じさせる、美しい狼だった。


 二つの月と、輝く桜と、銀の狼と。


 キャンバスに描けばさぞ絵になるだろうその風景は、けれど私にとっては絶体絶命の景色だった。

 狼、というのは肉食ではないのか。そしてそれはこのよくわからない場所においても同じではないのか。もしかしたら、ここでは狼は肉が主食と言う訳ではなく、桜を食べるとても動物に優しい生き物だという可能性もないではないが、それを期待するのは虫が良過ぎるだろう。ここは、あの狼は肉食であり、私のことを獲物だと認識している、と考えるべきだ。そして、そう考えるなら、私がこれから採るべき行動は、一目散に逃げることだ。もしあの狼が肉食だったら当然逃げないと食べられてしまうし、草食だったら、逃げても逃げなくても食べないだろう。であれば、逃げる、という行動をとったときが最も生存率が高いはずだ。いや、本当にそうか?野生動物と言うのは、逃げたら追ってくるものではなかったか。こういうときは、目をあわせながらじりじりと後ずさりつつ、遠ざかってから逃げる、というのが最も正しい行動ではなかったか。となると、私がとるべきは後ずさることか。あの狼の目を見ながら。


 私は意を決して、狼の目を見つめた。

 赤い。そして、怖い。

 狼は動かずに、私を見つめている。すぐに襲いかかってこないのは、私の対処法が適切だからだろうか。

 もしかしてこのまま後ずされば私は助かるのかもしれないと思った。


 じり。私、後ずさる。狼が一歩こっちに近づく。


 じり。私、後ずさる。狼が一歩こっちに近づく。


 おかしい。私が下がると、狼がその分近づいてくる。これではいつまで経っても距離が遠ざからない。やっぱり本気で走るべきか。そうしないと食われるのか。

 私がそんな風に心の中で葛藤していると、遠くの方から、ばきばきばき!と木が薙ぎ倒される音が聞こえてきた。

 なんだか、嫌な予感がした。あの音で、人間がやってきた、ということはまずありえないだろう。となると、おそらく何らかの巨大生物がやってくるに違いない。そうなったら、もう私はおしまいだ。狼か、その何かに食われるしかなくなる。いや、いまの時点でも十分終わりは見えているのだけど。

 その音は徐々にこちらに近づいてきている。目の前の狼も、ぴくぴくっ、と耳を動かせながら木が薙ぎ倒される音を拾っているようだった。とりあえず私を襲うよりもそちらが優先のようで少し安心する。いずれ食われるのかもしれないけど!

 

 しばらくすると、私から見て左側、狼から見て右側の桜の木が大きな音を立てて倒れた。

 狼と私は、そこから現れたそれを一緒に見つめた。なんだか狼と心が通じ合ったような気がした。一方的な勘違いかもしれないけど。


 そこに現れたのは、狼と同じくらいの大きさの、熊だった。


 もう、ダメだ。

 私は心の奥でそう叫んだのだった。

 

 

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