第10話 ミリアとお出かけ
――コンコン
私は出来るだけ耳障りにならないよう細心の注意を払ってマホガニーに似た木材で出来たフェラード家当主執務室の扉を叩いた。
扉には精緻な彫刻が施されており、細かいところにも気を使う屋敷の主人の性質が見える。
確かにフェラード氏は完璧主義者タイプだったなと、枝垂れ桜の下で出会った冷たい笑顔を浮かべるのが習い性となっている銀色の髪と赤い目の人を思い出す。
あの人が、この扉の向こうで静かに書類と戦っている。
想像すると、なんだか似合いすぎる光景だった。
こうやって、扉を叩いてからの、返事をしばらく待っている時間は嫌いではない。
返事が聞こえてくるまでの一瞬。
ほんの一瞬に過ぎないこの時間だが、なぜか目まぐるしく色々なことを考えてしまうからだ。
扉の形、模様に、匂い、廊下の明暗、扉の向こうから聞こえてくる音、そしてその音を立てているだろう人の表情。
色々な事を思うのだ。
それは幸せな事で、そして少しの緊張も感じる、素敵な時間だ。
小さな頃、夜中、ふと目が覚めて、父の書斎を訪ねる時は、いつもこんな気分だった。
眠れない私に、絵本を開いて低い声で朗読してくれる。
父の書斎は、私にとってゆりかごだったのかもしれない。
「――どうぞ」
あのとき枝垂れ桜の下で聞いた、硬く冷たい声が返ってくる。
抑揚の小さく、意識的に感情を抑えた声が。
けれど改めて聞いて見るとその声の中には様々な表情があることに気づく。
緊張、警戒、そして相手の出方を面白がる感情。
フェラード氏に会ったのは結局あの桜の下での一回だけだ。
けれど、私はたったそれだけのことで随分いろいろなことが分かったような気がしていた。
どうしてこういう結論に至ったのか、私にも説明出来ないが、ふと彼は、ミリアに似ているなと思った。
あの可愛らしい、小動物に。
猛禽類の方がフェラード氏には似合いそうなのに。
私は返事が聞こえてから二秒ほど置いて、がちゃり、と扉を開いた。
扉が開き、執務室の中からインクと油の燃える匂いがふわりと漏れた。
奥では、執務机に座る彼が、その赤い目で射抜くように真っ直ぐこちらを見つめていた。
余裕を感じさせる視線、そして仄かな笑みをその口元に携えて。
初めて彼を見る人は、きっと気圧される。
二度目でも、そう感じる人はいるだろう。
もしかしたら、一生そう感じる人のほうが多いかもしれない。
けれど、私はそうでなかった。
「失礼いたします。フェラード様」
私は深く頭を下げる。
地面を見るとよく磨かれた板張りの上に煌めきを帯びた糸で織られた敷き布が広げられていた。
こんなところにも気を遣っているんだな、と笑いが漏れた。
そんな私をフェラード氏は見咎める。
少し不快そうな表情だ。
と言っても気分を害したと言うより、私の行動を単純に訝っているのだろう。
「ん、どうして笑っているんだい?」
「いえ……」
私が口を濁すと、フェラード氏は手を広げる。
別に何を言おうとも咎めはしない、という意思表示なのだろう。
「いいからいいなよ、気になるじゃないか」
そこまで言われて、黙っている理由もなかった。
そもそも本当に大したことではないのだから。
屋敷に置いてある家具や、調度品の趣味が私の感性から見ると、とても素敵にうつる。それだけのことである。
褒めることになるのだから、気分がよくなりこそすれ、腹が立ったりはしないだろう。
「このお屋敷は本当に行き届いているな、と思いまして」
「ん?」
しかし意外な事に、フェラード氏は首を傾げた。
一体どういうことなのか、判断しかねる。
私は確認のためにさらに突っ込んで言った。
「扉の彫刻や、敷き布のセンスの良さ。フェラード様がこだわっておられるんでしょう?」
けれど、フェラード氏は何を言われているのかよくわかっていないようだ。
部屋の床に敷かれている敷き布を見たり、扉の彫刻を見たりしながら、ふーん、と言う表情をしてからこう言った。
「これってそんなにいいものなのかい?」
これはもう、確実だろう。
調度類は彼の趣味ではないのだ。褒めたのは間違いだったかもしれない。
けれどここで話をやめるのも不自然な話である。どうにかして広げようと努力した。
「特に見る目がある訳ではありませんので、直感ですが……フェラード様の趣味ではなかったのですか?」
「どうも僕はこういうのには疎くてね。セーラの趣味だよ」
やっぱりだ。
しかしセーラの趣味だったのか。
人間からのプレゼントだよ、とか言われなくてよかったと思う。
人間に徹底的に期待していない彼らは人間のものを褒められて嬉しいと思うのか謎だ。
とにかく、ここは安心していいところだろう。
私は頷いて言った。
「あぁ……それを聞くと納得ですね。なるほど」
「そう言われてしまうと僕の立つ瀬がないのだけど」
不思議なことを言うものである。
セーラを褒められるというのはダメなのだろうか。
「どうしてですか?」
「なんだか株が下がったような気がするからね」
フェラード氏は自分にセンスがないと言われたような気分に陥ったようだった。
しかし全くそんなことは無い。
そもそも、株の上下を問うなら、この部屋に入って、会話を始めた頃には既に上がっていたのだから。
「いいえ、そんなことありませんよ。むしろ上がってます。フェラード様は、ミリア様と似てらっしゃるんですもの」
「ええ!?」
私の台詞はフェラード氏にとってかなり驚愕の発言のようだった。
似合わず慌てている。
イスから立ち上がって、のけ反っているのだ。
「――意外ですか?」
こてりと私が首を傾げると、フェラード氏は自分の姿勢を恥じたようで、ゆっくりともう一度イスに座ってから落ち着いて話し出した。
「いやぁ……初めて言われたよ。似てるかな?」
そう言った表情は心なしか嬉しそうである。
どうやらまたしても私は選択を間違えなかったらしい。
ここから自然にお出かけの話に持っていこう。
「そう思ったのですが……」
「なんだか新鮮だな」
「やめておいた方がよかったでしょうか?」
「いや。嬉しいよ」
「やっぱり、ミリア様を大事にしておられるんですね?」
「当たり前じゃないか。たった一人の妹だよ」
どうやら、その前に、フェラード氏のシスコンの話が出てきてしまったようだ。
でもここからなら繋げやすい。
私は続ける。
「でもお出かけは断られたのでは?」
「あぁ…忙しくてね。どうしても無理だったから」
「ちゃんとミリア様に理由も言ってあげた方がいいですよ」
「ん?どうしてだい」
「ミリア様、セーラに泣きながら抱きついておられました」
この私の台詞を聞いた瞬間のフェラード氏の表情は見物だった。
絶望、というものを塗りたくったような能面のような表情をしていたからだ。
彼をして妹に嫌われるのは耐え難いことのようだった。
「なぜ」
「『お兄様に断られて大ショック!』ということのようです」
「あちゃー……」
頭を抱えて困惑した表情をとるフェラード氏。
こう見るともう一人の妹を持つただのお兄ちゃんである。
魔族が聞いてあきれるほどだ。
でも、好感と親近感を持てる。
人間と全く違う生き物、という括りではなく、近いものの考え方をする者として見れるから。
私は微笑んで返答した。
「そんな顔もされるんですね」
「たまにはね」
「そんなわけで」
ここからが本題だ。
フェラード氏は首を傾げる。
「?」
「私がフェラード様の代わりにミリア様のお伴を拝命しまして」
「あぁ……なるほど。外出の許可かな?」
「ええ」
流石に頭の回転が速かった。
いや、ここまでの話の展開で大体分かっていたのではないだろうか。
首を傾げたのはただ話を円滑にするために過ぎないのだろう。
「構わないよ。君は自由だ」
「そうなのですか?」
「うん。だからお出かけぐらい楽しんできなよ」
「はい。では、失礼します」
部屋をそのまま足早に去ろうとしたそのときだった。
「あ、待って」
「?」
「はい。軍資金。必要でしょ?」
そう言ってフェラードしたが執務机の引き出しから取り出したのは貨幣の入っていると思しき手触りのいい革袋である。
振るとちゃりちゃりと音がして、かなりの額が入ってそうだ。
しかしそもそも私が貰っていいのだろうか。
自慢ではないが、ここに来てからずっとニート生活をしているのだ。
「これは……けど、私、タダ飯ぐらいで、その上こんなことまでしてもらうわけには」
「でも無一文じゃ街に行ってもね」
「でも……」
「気になるなら、それは貸しにしておく?」
「貸し、ですか?」
「うん。後で働いて返してもらえば」
「魔国で仕事を探して見つかるでしょうか?」
「その辺は僕が紹介するから気にしないで」
「そうですか……でしたら、今回はお言葉に甘えさせていただきます」
「うん。楽しんでおいで。ついでに色々必要なもの買ってきなよ。働くなら、そのとき必要になるものとかもあるだろうから」
「はい」
こうして、私は当面の生活のための軍資金を手に入れた。
しかし私は気付いていなかった。
こんなアバウトな会話でとても重要な仕事を私に任す算段がフェラード氏の頭の中で動いているなどと言う事には。
気付けと言う方が無理なのだ。
だから、私は全く悪くない。
次の日、フェラード氏は朝早くに起きて早々、急いで魔王城に出かけて行った。
何か大切な用事があるでいつもよりも早めに仕事を終わらせるためだと言うことだった。
私はこれからミリアとセーラと一緒に人間国家の街へ出かける予定だ。
大型の馬車で行くらしく、日帰りではなく、ある程度の期間の滞在を予定しているらしい。
これを聞いてなるほどフェラード氏はいけないだろうな、と思った。
何日も開けると言うのは断らざるを得ないだろう。
だから、ミリアにはフェラード氏を次に誘うときには、一日で行って帰ってこれるプランを計画するように提案することにしようと思った。
そうすれば、フェラード氏も乗るだろう。