第1話 宰相閣下はおそろしい
「あ、いいところに来たね、キリハ。この書類、魔王様に渡しといてくれる? で、明日までに片付けておくように伝言もお願い」
秘書よろしくお茶を入れに来た私にそう言って山のような書類を差し出してきた腰まで届きそうなサラサラの銀髪が美しい美男子は、魔王様を首長とする魔国の宰相閣下であらせられるティリス・フェラード様だ。
その冬のような容姿と公正な人柄、そして不正に容赦しない苛烈な性格から“魔国の氷血宰相”とも呼ばれている彼は、主である魔王様にすらも恐れられていると言うから物凄い。
事実、客観的に見て魔国は彼がいなければ回らない。
そんな彼は今、非常に優しげに見えながらも絶対に逆らえないと感じさせるSな微笑みを浮かべながら私にお仕事を申しつけているのであった。
「あ、はい。承知しました、ティリス様」
私は書類の束を受け取りながら何の気なしにそう言った。
そのままくるりと踵を返して<失礼しました>と深く頭を下げ、部屋を出ていくのが通常の秘書の在り方というものだ。
私はその信念に従い行動しようとした。
しかし、宰相閣下付き文官――秘書とも言える――の私は、そうはいかなかった。
書類を受け取るか受け取らないか、私が『ティリス様』と云った瞬間から、どくん、と空間それ自体が鳴動したような感覚と共に、急激に部屋の空気の重くなる。
元の世界で同じ事が起こったなら、私は直後に心臓発作を疑ったことだろう。
呼吸がしづらい。息が苦しい。
しかしここは地球ではない。
あの懐かしい青い星では起こり得ない、不可思議な現象と言うものが日常的に存在し、そしてそれを不思議な事とは言わずに『魔法』と呼んで慣れ親しむ社会がここにはある。
したがって、冷静に考えて、この現象は私の日頃の不摂生が祟った結果の突発的な病の発症、と言う訳ではなく、そういった不可思議な何かがなせることだ。
しかしその発生源は一体どこか。
魔法といえど、ただ結果だけが存在する、と言う訳ではない。
科学と同じように、そこには原因と結果が紛れもなく存在する。
だから周りを見渡せばその原因が発見できるはずなのだ。
そしてこの場で魔法を行使できるのは一人しかいないことからすれば、必然的に原因も分かる。
つまり――
ティリス様を見るとその体の周りから黒いオーラが噴出していた。
息を吸うのが辛くなる圧力の上昇は彼のそのオーラによるもので、ちょっと勘弁してくれと私は考える。
ちなみに、ぼんやりとした印象しか人に与えないアルトの声でティリス様に返事をした私は夏目桐葉という。
こんなところで宰相閣下お付きの文官なんてやっているのがいっそ不思議な生粋の日本人だ。
見た目は普通、としか評価しようがなく、別に美女とか美少女なんてものではない。
そう生まれたかったと思ったことも一度や二度ではないが、満員電車で痴漢に遭ってからは美人はおそらくもっと大変だろうと考えを改めた。
黒目黒髪はこの世界ではそれなりに珍しいようだが、目を引くところと言ったらせいぜいそれくらいだ。
身長は160ちょっと。もとの世界ならまぁ、低くはないかなと評される身長だが、この世界ではそうではない。
女の人ですら170近い身長を誇る魔族の美女たちに囲まれれば私などただのちんちくりん。
彼女たちの胸元を見ればさらにその気分はいや増すのである。魔族の胸はスゴイ。
そうそう、ティリス様の周りに発せられている真っ黒エフェクトは“魔力”である。
先ほども述べたことだが、この世界ではやっぱりファンタジー世界らしく魔法があるのだ。
と言ってもそれを使用できるものは魔族と一部の魔法使いだけであり、しかも何らかの技術によって魔力を加工して扱うのが普通だ。
ただ、高位の魔族だけは魔力を加工せずとも使うことができるという。
そういった魔族は感情が高ぶると自らの身に宿る魔力が勝手に迸るらしく、今のティリス様もまさにその状態にある。
私はティリス様を見ながら思った。
なんて迷惑な種族なのだろうと。
ちなみに、なぜ彼が魔力を発しているか。それは…。
「ねぇ、キリハ。僕のことはティリスって呼ぶようにって前に言ったよね?」
ティリス様は息が止まるように美しい笑顔でそう言った。
この笑顔一つで女性百人が一瞬にして落ちると評されるのだから、それはそれはすばらしい表情だ。
けれど、得てして美しいものというのはその背後に何かを隠している。
綺麗な薔薇には棘がある。
可愛い犬には牙が生えている。
小型犬でも噛まれると意外に痛い。
そんな訳で、綺麗な薔薇でいらっしゃる(どう見ても犬ではないだろう)、ティリス様の背景にはゴゴゴゴと描いてあるのが見えた。
実はこの宰相閣下、なぜか私に自分のことを呼び捨てで呼ぶよう強要する。
どうやら何かが気に入られたようだが、私のどの辺りにそう言った要素が存在しているのか謎だ。
当然、美形と親しくするなど私には分不相応であるから丁重にお断りした。
しかし、何度断っても彼はそれを認めようとはしない。
むしろ今日のように様付で呼ぶと本気で怒るのだ。本当に勘弁してほしい。
ティリス様ににっこり笑顔で見つめられた私は、蛇に睨まれた蛙のように怯えながら手や頭をぶんぶん振って言い訳を始める。
自己保身、万歳。
「い、いえ、そんな滅相も……わたしだって命はおしいっ」
そう、いつの時代だって、美男子は重宝されてきた。
女子にとって美男子は共有財産。
手を出すものには極刑を。
ここで言う“手を出す”という言葉が何を意味するかと言えば、それは時と場合によって異なるが、ティリス様程の天然記念物級美男子になると、“名前を呼び捨てで呼びあう”は確実に“手を出す”に該当すると判断される。
そしてその現場が目撃されたその日には女子全員に知れ渡り、裁判も為されずに噂が広まった直後から刑罰の執行が始まる。
刑罰、それは一番軽くて、無視、等閑視、ハブなどと呼ばれる小心者女子には非常に厳しいものだ。
重い刑罰にはどういうものがあるかなんて想像すら拒否したい。
当然、私にはとてもそんな罰を科せられることは耐えられないので、できるだけティリス様のことは様付で呼びたいっ!
しかしティリス様は、ふーんという顔をして私の淹れたお茶を飲みながら冷たく笑う。
こわい。
とてもこわい。
やはり綺麗な薔薇には棘があるという私の確信は正しかった…。
ティリス様は甘やかな笑顔のままで、続ける。
「ねぇ、キリハ。ガタルニアの森で魔物に襲われそうな君を助けたのって、一体誰だっけ?」
あぁ、そうきたか、と思いつつ私はぽつりと返答した。
日本人というものは、こういうのに弱い。
恩がある、と認識してしまうと、返さずにはいられない。
1の恩を、10や100で返そうとし、そしてたとえ返したとしても、まだ返し足りないとどこかで思ってしまう。
ティリス様はどうやらこの半年で、日本人――というより私――のそう言った性質を理解してしまったようだ。
いつもは尊敬する理解力・記憶力だが、今回ばかりはそれが恨めしい。
私は喉の奥から絞り出すように言った。
「…ティリス様です」
「そうだよねぇ。お金がないっていう君に、わざわざ魔王様に進言してまでこの城で務められるよう取り計らってあげたのって、誰だった?」
万年筆をその細く長い指で弄びながら、彼はにこにことした表情で楽しそうに言う。
対して私は苦い表情でぐぐっ、と言葉に詰まる。
しかしいくら上手い言い回しをしようと考えても、否定は出来ない。
「……ティリス様です」
「あぁ、そうだ。もとの世界にどうしても帰りたいって言うから、未だに異界への送還方法について調査してあげてるのって誰だったかな?」
さらに恩まで持ち出してきた。
この調査、実はティリス様の厚意で行われている。
あくまで厚意であり、彼には私に対する何の義務も存在しない。
にもかかわらず、費用も時間もかかるそんなことをやってくれている以上、私には感謝することしか出来ない。
問題は、その感謝の感情を彼は巧妙に利用すると言う事だ。
ずるい男だと思う。
しかしそこまで理解していても、私にはやはり否定の言葉など吐けない。
そこまで理解しているからこそ、吐けない。
だから私は言う。
「……ティリス……様……です……」
「うんうん。じゃあ、僕の事、キリハはなんて呼ぶのかな?」
さぁ、どうぞ!と、どこかのクイズ番組の司会者よろしく、彼は言った。
全ての逃げ道を封じた上でこうやって笑顔で聞くのはあまりにも卑怯だ。
もともとあまのじゃくな性格をしている私はこういうとき、期待とは逆の行動をとりたくなる。
多数決をとられるようなときは、いつも必ず少数派に属するように行動してしまう。
それが私だ。
けれど、今そんなことをしてしまうと色々まずそうな気がした。
ティリス様は、私にそう言う行動を望んでいない。
いや、望んでいないと言うより、そういう行動をとらないように巧妙に圧力をかけている。
今までの会話全てが、そのためにあったと言える。
本当に、頭のいい、そしてずるい男なのである。
彼は。
だから結局、私には答えは一つしか残っていない。
「……ティリス」
「良くできました!じゃあ、お仕事、たのんだよ~」
私が彼の名前を呼んだときの笑顔は、いつもの仮面じみた笑みとは違って、少し、温かくなる。
それだけでも呼ぶ価値は、あると思う。
でも。
とてもずるいと思う。
ティリス宰相閣下改めティリスは、いつもこのようにして私のことをいじめる。
全く酷いものだ。
私の何を気に言ったのかわからないが、魔国で様々な事を世話してくれる彼に、私が逆らえるはずもなく、いつもこうやって押し切られる。
嫌な気持ちもしないので、それ自体は別に構わない。
けれど、やっぱり無視等閑視ハブはこわい。
だからと言って、私に何かしらの策がある訳でもなく、これからもこんな風に押し負けるんだなと思ってため息をついた。
ご機嫌なティリスを置いて、宰相執務室をぐったりとしながら後にした私は、魔王様のところに向かうことにした。
そもそもどうして生粋の日本人である私がこんなところにいるのか。
その経緯は、約半年前に遡る…。