4.Continuation of happiness.
目が覚めて、無意識に隣を見ればアオの姿はなく、時計を見ればまだ早朝でまたいつもの散歩かと私は納得した。
ここ最近のアオの習慣はこの早朝の散歩だった。
だから私は特別気にも留めずいつも通りの朝を過ごした。
その日は一学期最後の日で、昼前までには帰れる。そうだ、せっかくだから帰りにメシドールに寄って行こう。
あそこのケーキが一番好きだとアオは言っていたから。
七月の空は色濃く晴れ渡っていて、もくもくとした入道雲が頭を覗かせている。遠く響き渡る蝉の大合唱と開けた窓から渡る温い風。それに揺れるヒマワリ。今日も暑くなりそうだと思った。
明日から夏休みで、一日中アオといられて、二人で暇な一日どう過ごそうかと考えるだけで楽しくなる。
久しく忘れていた笑みが自然と溢れて、私は足取りも軽く学校へと向かう。
ああ、世界はこんなに鮮やかに輝いて眩しかったんだと、アオに出会って初めて知った。
「ただいまー」
密閉された室内独特の熱気が頬を撫でる。
おかしい、いつもなら利いてるはずの冷房が利いてない。
「アオー? アオいるー?」
忙しく鳴き続ける蝉の声がやけに耳についた。汗で張り付いた制服のブラウスが気持ち悪い。早く着替えなきゃ。
「お土産買って来たの。一緒に食べよー」
窓から射し込む陽射しが強くて、響く蝉の声が煩くて、乾いた喉が痛くて、水が飲みたい。
「アオー?」
氷塊が背中を滑り落ちるのを感じた。言い知れない焦燥に心臓が嫌な音を起てて脈打つ。陽射しが眩しくて蝉が煩い。ああ、吹き出る汗が鬱陶しい。
家のどこを探しても彼はいなかった。朝、散歩から帰った彼が食べれるように用意した朝食はそのままで、手をつけた様子はない。
私はずっと探し呼び続け、彼が現れるのを待った。けれど……。
「……アオ……?」
いつも私が帰ればかならず“そこ”にいた彼は、二度と私の前に戻ることは無かった。
あの時、彼はもういないのだと理解した時、ただ急にぽっかりと空いた穴をとても寒く感じただけで、特別なにかを悲しんだり悔やんだりはしなかった。ただ『アオはいない』という事実を納得していただけだった。
もしかしたら私は、心のどこかで彼がいなくなることを予感していたのかもしれない。だから突然の別離に動揺はしても、さほど取り乱しはしなかった。ただ、私の世界からあの目映い色彩が消えただけ。
お土産にと買ってきた二人分のケーキ。私の好きなチーズケーキと彼の好きなショートケーキ。けれどどんなにお腹が空いてもそれを食べる気にはなれなくて、結局そのままごみ箱に捨てた。
それでも私は泣くことはなく、ただ元通りの生活に戻っただけなんだと実感した。
私は夢から覚めたのだ。
それから幾日か経ってからだろうか、私は再び彼を見た。
そこは四角い箱の映し出す遠い世界の中。彼の肩書きは私とは無縁の世界の言葉で書かれていた。
良く知っていたはずの顔は、全く知らない顔をしていて、“アオ”ではなかった。字幕で示された名前も、知らないものだった。
『三ヶ月前からお忍びで短期留学の為に来日していた王弟殿下とその婚約者の――――――』
『――――――帰国の途につかれる為に今成田空港のメインゲートへと――――――』
『今まで滅多にカメラの前に姿をお見せになる事の無かった殿下ですが、今はにこやかな笑顔と共に我々に向かって手を振って下さっています――――――』
『日系の血が混ざっていることもあってか、愛日家でも有名な殿下でいらっしゃいますが、今回のご留学では――――――』
「へぇ、まるでどこかの映画のようね、王子様」
次々と流れてくるリポーターの言葉に、私は笑った。
笑って笑って、ただ笑っていた。
テレビの中で、上品に笑って婚約者の姫をエスコートする“彼”を見つめて、笑った。笑わずにはいられなかった。
なぜなら、その“事実”はあまりにも現実離れをしていたから。未だに信じられないけれど、物語の中だけの出来事だと思っていたことが、事実自分の身に起こっていたのだろうだから。これを笑わずに、なにに笑うのか。
ああ、多分、きっと、きっと彼は飽いていたのだろう。
よくある物語のように、飽いていたのだろう。彼を取り巻く毎日に。
この国に来て、ちょっとした悪戯心でも沸いて、それで抜け出して、自分ではない“自分”になったのだろう。そう、まるで映画の中の主人公みたいに。
そして詳しくは教えられなかったなんらかの理由で怪我をして私に助けられて、気まぐれで“アオ”を演じたのだ。
私は、彼の“非日常”の一要素として存在していた。
あんなに綺麗で可愛らしい婚約者がいるのに私の側にいて私を抱いたのは、そんな非日常を求めての遊びだったのだろう。
優しい言葉も、笑顔も、私が愛しく感じたなにもかも全てが、“アオ”という存在を演じることで得た遊びだったのだろう。
それを彼は楽しんだ。
楽しんで、楽しんで、楽しんで飽きたから“日常”に戻った。きっと、そういうことなのだろう。
私はそう考えて、そう考えることしかできなくて、また笑った。
恨むような気持ちは沸かない。沸くほどの気力も無かった。できるのは笑うことだけ。
“笑う”ことは、彼が私に教えてくれた“真実”だったから。
だから笑った。
でも…………。
涙が止まることはなかった。彼によって解き放たれた涙の止め方がわからない。
行き場のない寂しさや虚しさだけが胸に残った。
迷子で拾った犬は血統書付きで、懐いたと思ったら元の飼い主の所に帰って行った。
そんなことをふと思って、また笑った。
あれから何年も経って、未だ私はあの家に一人で暮らしている。
彼との出会いが私にとっては良い経験となったのだろうか、今では少ないながらも心を許せる友人を得た。結末はどうであれ、彼との時間は私自身を変えるのに良い要素となった。
恋人はいない。多分この先もきっと、私が恋人を作る事はないだろう。
そういう感情はあの時に凍り付いてしまったのだろうか。どんな出会いがあっても私の心が動くことはなかった。
私は高校卒業後、短大を出てからごくありふれた中小企業に事務として就職した。毎日が平凡な日常の積み重ねで、単調に日々を過ごしている。
こうして私は大した波風を起てることなく、歳をとり、独身のまま死んでいくのだろうと容易に想像がついた。
しかしそれを退屈だとも不満だとも思わない。
“アオ”という存在によって開かれた私の世界は色彩をなくしても広く限りなく、ささやかながらも自分が恵まれた幸福な環境にいるのだと知らしめてくれているからだ。
だから今はただ、穏やかすぎる時を流れるままに過ごしているだけ。
私にとって、彼と過ごしたわずか三ヶ月という月日は一生に値するものだったのだ。このまま薄れることなく、今も鮮やかに残るあの日々の記憶を宝に、私は生きる。とても愚かなことかもしれないけれど、そう思えることがとても幸せだ。
どんなにあの頃、彼のことを思い返しても、あの最後を繰り返し思い出しても、不思議なほど怒りも恨みも湧かない。ただただ楽しかった、幸せだった。そんな想いしか出て来ない。それどころか感謝すら感じてしまう。
ああ、本当に、彼に出逢えたことは幸福だ。優しい感情の中に混ざる寂しさや切なさすらも幸せに感じる。
もしももう一度だけでも“アオ”に逢うことができたなら、私は笑って彼に「ありがとう」と言いたい。叶うことのない、私の望みだ。
時折“彼”に関するニュースが世間を賑わせているようだったが、私の耳なにかが入る事はなかった。人の口にのぼる“彼”は私には全く関係がない人物なのだから。
ただ、今も不意に思うことがある。
例えばあの日のように春の嵐の夜や新緑の綺麗な午後、紫陽花を濡らす雨の夕暮れ、燦々と降り注ぐ夏日。今のような空高く月が綺麗な時やひらひらと舞い散る粉雪の夜。
移ろう時間の中でふとした時に、このなにもない広いだけの冷たい家の玄関を開けたとき、私を迎える温かな声があるのではないかと。
「おかえりぃ」
そう、その声に私は微笑んで答えるのだ。
「ただいま」
と――――――。




