3.Coloured world
「どうでもいいわ」
なにがきっかけだったかは思い出せない。ただ、なにかの弾みでそう言った事は覚えてる。
ああそうだ。
たしか後見人からの電話が掛かってきた後だ。その中で今の私の生活ぶりとか学校のこととか聞かれて、それが酷く不愉快で答えるのも億劫で、適当な言葉で誤摩化していたのをアオに聞かれて、それからまた聞かれたんだ。
「ガッコウは楽しい?」って。
その日は学校で色々あって、心底他人と言う存在が煩わしくて、それに追い打ちを掛けるような後見人との会話で。
とても疲れていたんだ。他人という存在に関わる事に。
だからいつもなら適当に誤摩化せるその言葉に過剰反応して、それで捨て鉢な気分で言ったんだ。
「他人なんてどうでもいいわ。上辺だけで繕っておけば勝手に納得して勘違いして干渉してこないもの。煩わしいこともないし、自由でいいわ」
今思えば、それは逃げ口上だったんだろう。傷つきたくないための、自己防衛。
私は他人に自分の弱さ脆さを知られたくなかった。
少しでも弱みを見せれば同情と哀れみを誘って「可哀想」と言われる。それが嫌だった。
だから拒絶した。自分から拒絶すれば人は近寄っては来ない。打算と計略がある者は別。心のこもらない優しい言葉を並べ立てて私に近づく彼ら。それを不快に思いながら繕った態度で接する私。こうなって当たり前の悪循環。
自分を開かない人間に誰か己を開いてくれるのか。それを解らなかったあの頃の私。
そしてそれをアオは知っていたのだろう。
だから彼は私に言った。
「それって寂しくない?」
自分のエゴが作り出した現状を理解していなかった私は、その言葉に酷く乱れた。
「寂しくない、寂しいわけないっ、寂しくなんか無い!!」
目の前が真っ赤になった。唐突に吹き上がった感情は様々で、どんなものなのか整理できなくてぐちゃぐちゃする。
頭がガンガンと痛んで、鼻の奥が熱い。乱雑に波打つ鼓動が煩くて、気持ち悪い。
「貴方に何がわかるのよ! なにも知らないくせに! なんでそんなこと言うのよ!! 知らないくせに!!」
子供の癇癪のように全身で叫び怒鳴る私とは反対にアオは静かだった。
「知ってるよ」
「なにを!!」
「確かに俺は碧がどうしてここに一人で暮らしてるのかとか、家族のこととか、友達とか、学校でなにをしてるかとか、いろんなこと知らないよ。でも、学校に行く時も帰った時もスゴく疲れた顔して辛そうで、コウケンニンって人から電話掛かって来ると苦しそうで、一人でいる時スゴく寂しそうで、碧、笑わないじゃん」
見つめる青い瞳はとても静かで、頭に昇った熱がすっと下がって行くのを感じる。
「それにさ、碧、他人に関わるのが面倒だってどうでもいいって言いながら、俺の事助けてくれたじゃん。よくも解らない俺をこうやって住まわせてくれてるじゃん」
それは私の気まぐれだ。あの春の夜に気まぐれで拾ったからだ。その責任で置いているだけだ。
「碧はさ、優しいよ。優し過ぎて臆病で、だから傷つけるのも傷つけられるも嫌で拒絶するんでしょ」
私は優しくなんかない。独りよがりで自分勝手で、他人に関わって自分の時間が損なわれるのが嫌なだけなんだ。
「でもさ、俺を受け入れてくれた。赤の他人で正体不明の俺を。碧の時間をたくさんたくさん奪ったよ。でも、碧は俺を今もここにおいてくれてる。だからさ」
そう言葉を切って、アオは笑った。
「碧は独りじゃない。俺がいるよ。俺なにも知らないけど、碧が疲れた時や辛い時は抱きしめてあげれるし、苦しい時は支えてあげれるし、独りの時は側にいるよ」
なんて。
なんて、陳腐な言葉。
なんて陳腐で勝手な言葉。
「だからもう、無理しないで。拒絶の言葉で、自分まで傷つかないで」
なんて陳腐で勝手で、やさしいコトバ。
ぽたり。と零れた。
一度零れたそれは、堰を切ったように溢れ出し、後から後から止めどなく流れ出て来る。
最初はそれがなにか解らなくて呆然と零れるままにそれを見つめた。
そっとアオが動いた。それに気付きあがらう前に抱き込まれて、あやすように背中をぽんぽんと叩かれる。
「いいんだよ、泣いて。もう我慢しなくていいんだよ」
ぽんぽん。ぽんぽん。
触れる大きな手は温かい。穏やかなアオの鼓動が聞こえる。
「今はいっぱい泣いて。泣いて泣いて涙が終わったら、笑って、みどり」
私を抱きしめるアオの腕は温かくて、言葉は優しくて。
アオのシャツを涙でぐしゃぐしゃにしながら私は泣いた。
幼い頃に凝って固めた涙は今溶けて、溢れて溢れて止まらない。
強張っていた肩の力が抜けた気がした。
アオ。アオ。
私はあの時初めて、心から誰かがいる安堵を知ったんだよ。
ずっと私が泣き止んで泣き疲れて眠ってしまうまでそばにいてくれたでしょう?
私を想ってくれる誰かがそばにいてくれること。それがどれだけ安心なことか初めて知ったんだよ。
アオ。あの時私に泣いていいと言ってくれた貴方の言葉は本当だったと、あの優しさは本物だったと信じてるよ。
欺瞞と虚栄、猜疑心と虚勢で凝り固まっていた私を解放してくれたアオ。
偽りだらけの彼のくれた優しさは真実だったと、それは信じてる。
梅雨入りして不安定な天気が続く頃、家に辿り着く前に降り出した雨にうっかり傘を忘れた私は直撃を受け、ずぶ濡れで家へ帰った。
「おかえりぃ」
「ただいま」
いつものように出迎えてくれたアオの表情が私を見て一転するさまは中々見物だった。
彼は慌ててバタバタと家中を駆け回って、私が小さなくしゃみを二回繰り返す頃になってタオルを持ってかけてきた。
頭からばさりとタオルをかぶせて乱暴な手つきで拭いて来る。
「電話くれたら迎えに行ったのに!」
「途中だったのよ。迎えを待つより走った方が速かったの」
あまりにも雑な拭き方で髪引っ張られて痛いし息がしにくい。気持ちは嬉しいけどあんまりだからその大きな手を握って止めた。
「ありがと。あと自分でやるわ」
張り付いた制服が気持ち悪くて引っ張って剥がす。ブラウスはともかくスカートはすぐに洗って干さないと臭くなる。
タオルで簡単に拭っても濡れた気持ち悪さは変わらない。
その時、不意に視線を感じて顔を上げる。慌てたように逸らされる青の両目。
「風邪ひくよ」
不自然なほど急にそっけない声音。
掛けられたタオルに添えられた手。その温もり。
無言で見つめたその横顔、ちらりと様子を伺うように動く瞳、かちりと合う瞬間。
「……シャワー浴びなよ、温まるから」
また慌てて逸らされた瞳、垣間みたソレ。
ドクリと心臓が大きく波打つ。それは予感。
唐突に私とアオとの間に僅かな緊張が敷かれた気がした。酷く脆く細いそれは、ふとした瞬間に弾けて、私たちに変化をもたらすだろう。
不安とも期待ともとれないそれに私は震えた。
その日も雨が降っていた。
雨降りの夕暮れ、たそがれどき。
薄闇のその中で明かりもつけずにリビングのソファに座って、ろくな手入れもしていない庭の紫陽花に当たっては弾けるそのさまをぼんやりと眺めていた。
予感があった。
だからそれはきっと避けようと思えば避けれたのだろう。でも私は避けなかった。
期待と不安と僅かな恐怖。それでも私は逃げ出すこともなく、ただ紫陽花を見ていた。
不意に掛かった重み。包まれる温もり。ドクリとまた鼓動が鳴る。
しかしそれは不安を打ち消し、期待と安堵が入り交じった溜め息へと変わる。
ああ、弾けた。
恐怖は、消えない。
「みどり……」
いつもよりも低い声が耳元で聞こえる。当たった吐息がくすぐったくて、思わず笑ってしまう。
「みどり」
見つめる深い瑠璃色の瞳が青く輝いているのにどこか濡れている様で、見たことの無い熱を孕んだその視線に私は呼吸どころか鼓動の一つすら絡めとられた。
激しさを増した雨音が強く窓を叩いている。紫陽花は見えない。
私に触れる彼の手の熱さに身体の奥底に凝ったなにかが解けていくようで、彼によってもたらされる波に意識の全てが流される。
愛おしさが溢れた。
こんなにも、こんなにも誰かを愛おしく思ったことはない。
変化に怯えた心は、僅かな恐怖に震えた私は緩やかに解き放たれて、世界が変わる。
「みどり、みどり」
繰り返し呼ばれて、私も答える。言葉で心で身体で。
自分と自分以外の鼓動と荒い吐息。名前を呼ぶ声。少し弱まった雨の音が聞こえていた。
誰かを愛し、そして愛される。
朝起きておはようと挨拶をし、出掛ければいってきます、いってらっしゃい。帰ればただいま、おかえり。眠るときはおやすみなさい。そしてまたおはよう。
笑い笑い合い言葉を交わす。
触れ合えば満たされる、当たり前の幸福。生まれて初めて感じる満ち足りた幸せ。
あの雨の日から私の世界は鮮やかに変貌し、私は無理しなくても自然と笑えるようになっていた。
その頃になるとあれほど苦痛だった学校も、上辺だけの友人に対して感じていた疎ましさも緩和し、酷く穏やかな気持ちで接することが出来るようになった。
アオがいる。私は独りじゃない。
そう思うだけで息が楽にできた。
「みどり、みどり」
アオの声が聞こえる。
「碧、約束するよ」
やくそく?
「ちょっと時間かかるかもしれないけど、そばにいるよ」
なによ、それ。
「碧が笑っていられるように、寂しさに泣かないように、俺が守ってあげる」
わけわかんない。
「待ってて。大好き、碧」
私も、大好きだよ、アオ……。
包まれた温もりと安らぎの中で見た夢がある。
その夢は乳白色の微睡みに包まれていて、私は幸福を突き抜けた穏やかさの中でたゆたっていた。
優しくて愛おしい夢だった。




