2.Every day of you and me
「碧はこんな朝早くから何処へ行くの?」
「学校」
「学校? 行ってるの?」
「当たり前でしょ。私は高校生よ」
「学校へ行って、何をするの?」
「勉強」
「そんなの、家に教師を呼べばいいじゃないか」
「……アオ、貴方いったいどこの生まれよ」
「……わかんなぁい」
「…………」
「碧っててっきりシェフだと思ってたよ」
「何で?」
「だってこんなに料理が上手いじゃないか」
「褒めても、これ以上は出ないわよ」
「……そうなの? 少なくない?」
「貴方はいったいどれだけ食べれば気が済むの?」
「碧、碧、こんなにお風呂が小さくて、どうやってくつろぐの?」
「アオ、いい加減にしないと怒るわよ」
「碧はすぐ怒るね。カルシウムが不足してるんじゃない?」
「アオっ!!」
「みどりぃー! みどりぃーー!!」
「なぁーにぃーーー?」
「着替え手伝ってぇーーーー!!」
「っっっ!!! ひとりで着ろ!!!!」
アオは変である。
暮らし始めた当初は、あまりにもズレた彼の感覚に、私は常にイライラさせられた。
けれどどんなに私が怒鳴っても、アオが悪びれることは無く、むしろそんな私の反応を楽しんでいるようでもあった。さすがに私の怒りがピークに達して、まる一日無視し通した時には、必死に謝って来ていたが。
『世間知らず』
そんな言葉で治められないほど、彼の常識外れは酷かった。当初一般常識は知っているだろうと思ったのは大間違いだったのだ。
彼が知っているのは“食材は食べれる”“排泄はトイレ”“朝起きたら顔を洗い歯を磨く”“寝るのはベット”“服を着替える”“汚れたら洗う”“お風呂に入る”という、人間が生活していく上での基本中の基本だけ。それ以外は全く解っていないようで、どうにも私の感覚からずれた発言や間違いばかりを繰り返すのだ。
それを一つ一つ修正し教えていくのは正直もどかしく、腹立たしく、同時に楽しかった。まるで本当に子犬を育てている様な錯覚を覚えていたのだろう。
彼の表情は今まで見た事もないほどにころころとよく変わり、その感情の起伏の激しさや奔放さは幼い子供のそれで、私が遠くに置いてきてしまったなにかを彼は持っている様だった。
私は彼ほどの役者を知らない。
彼ほど見事に“誰か”を演じきった人物を知らない。
たった一人の観客である私は、見事に彼の演じた“アオ”を実在のものとして信じ込んだのだから。
今でも時々わからなくなる。彼のその殆どが偽りだったのだと理解はしていても、その中のどれが真実だったのだろうかと。
あの頃、ただただ彼に振り回されていただけの私には、 あの“常識外れ”すら演技の一つだったのではないだろうかと、その事にムキになって教える私を眺めて面白がっていたのではないのだろうかと、疑うことがある。
けれど、すぐに思い直す。
なぜなら彼がなにを思い、なにを考え、なぜああも見事に“アオ”を演じていたのか、私の理解を超えている。ならば、時折浮かべるその疑問は全て、どうでも良い些末なことなのだと思うからだ。
私の中にある真実は、一つしかない。
「ねーねー」
「何?」
「俺も学校いきたーい」
「へー」
「へーって、行ってもいいの?」
「そうね。貴方が戸籍を持って義務教育終了の証を用意して、来年の入学試験を受けて合格出来たら行けばいいわ」
「……碧」
「何?」
「駄目なら駄目ってちゃんと言ってよ」
「あら、私は駄目だなんて言わないわよ。学校なんて条件満たせば誰でも通えるんだから」
「……碧のいじわる……」
ある日の朝。学校へ行く準備をしていた時に、そうアオが言ってきた。
私は急いでいたし、この頃になるといちいちアオの不可思議な発言に気を留めるような優しさも残っていなかった。それに、学校なんて場所に好きこのんで行きたがるアオの気持ちが解らなかった。
アオを拾ってから一月が経った頃だった。不意にアオの服を買いに行こうと思い立ったのは。
それまで整理するのが面倒だった父の残した衣類を与えていたのだ。そろそろ夏の陽射しを感じ始める頃。いつまでも古びた父の服だけでは可哀想だろうと思ったのだ。
あと、いつも一日中家の中にいるアオが可哀想になったから。たまには気晴らしに外に出掛けるのも良い気がした。
しかしアオはそんな私の思いとは裏腹になぜか外出を渋り、そんな彼の態度に私は腹を立て意地でも引きずり出してやると息巻いた。
そうしてあーだこーだと言い合って、外出をしたがらない理由を聞き出してみれば「恐い」のだという。
詳しくは話してくれなかったが、彼が行き倒れた原因となった暴行の加害者に顔を覚えられているかもしれないから嫌なのだと。
「なによ、せっかく人がデートに誘ってあげてるっていうのに!」
「デート……?」
「だいたいもう一月も前じゃない! 貴方を殴った人たちだってもう忘れてるわよ!」
「……」
「いーよもう! アオが絶対着たくないっていう服見繕ってきてやるから!!」
「やっぱ行く!! 俺行くよ!!」
「外、恐いんじゃないの?」
「帽子被ってれば大丈夫!」
あんなに渋っていたくせに、急に行くと言い出したアオ。そんなに私の選ぶ服は嫌だったのか、ただ単に気が向いたのか。
彼はどうも気まぐれな所がある。なんだか少し振り回されているような気がするけど、初めの頃みたいに腹が立ったり悪い気がしないのは不思議だ。彼のテンポに馴れたんだろうか。
五月の柔らかな陽射しに当たって揺れる新緑の桜並木。黒いメッシュキャップを被ったアオと並んで歩く日曜の午後。
父のお古のそれは大きくて、頭の小さなアオが被るとあまりに不格好でおかしい。そうだ、服のついでに帽子も買おう。
何度も何度もずり落ちて来る帽子を上げる様がどうにもおかしくて、口の端が引き攣ってしまう。それをあまり直視したくなくてわざとらしいほど視線をそらしていたら、不意に手を掬われた。
見ればしっかりと繋がれたアオと私の手。
「なんで手を繋ぐのよ」
「だってデートでしょ?」
「それは、方便であって……」
「いいじゃん。デートで。それに俺道わかんないもん。だから碧が引っ張ってってよ」
目深に被った帽子の下、いつも以上に上機嫌にニコニコと笑うアオに、おかしさを忘れて私は無性に照れた。
デート。
アオの気を引く為に使った言葉だが、的を得ている気がして気恥ずかしい。
だってこうやって二人、手をつないで歩いていたらそう見えるでしょう?
「碧ってさぁ、優しいよね」
「何よ」
「だってさぁ、こんな身元もわかんない正体不明の奴の面倒見てくれるんだもん」
「……拾った首輪も付いてない犬の身元なんて調べようもないし、拾った責任ってあるでしょ」
「犬って……」
「ハイハイハイハイ。くだらない事でいじけてないで、さっさと手を動かして! いつまでたっても片付け終わんないでしょ!」
「へいへいへーい。ゴシュジンサマ」
アオと暮らし始めてから、私の生活は妙に慌ただしくにぎやかで、他愛もない会話や軽い口喧嘩なんかも多い。
それは今思い返しても楽しくておもしろくて、静かで冷たく沈んでいた家があの時間の間だけは明るく温かく華やいでいたように思える。
その生活に違和感なんて感じなかった。当たり前のようにアオがいて、私がいて。冷静に考えればあまりにも不自然だったあの日々は、私にとっては当たり前の日常だった。
そう。夢のような日常だった。
「ガッコウ、楽しい?」
ある日突然そう聞かれた。
「……なによ急に」
「たのしい?」
覗き込んで来るその青い目はあまりにも綺麗で、脳裏を過った『友人』達や教師達のことが不快で、それに伴う自分の心が見透かされてしまいそうで、気分が悪くなった。
「別に……なんとも思わないわよ」
でもそれを悟られたくなくて私はそう嘯く。
「ふーん」
そう言ったきりアオはなにかを考えるように黙ってしまって、私はなんともいえない居心地の悪さを誤摩化すために読んでいた雑誌に目を落とした。
「やっぱ俺も行きたーい」
不貞腐れた様なその響きが妙に心に引っかかった。
「どうして碧は笑わないの?」
また突然聞かれた。
あんまり笑う方だとは思っていなかったが、全く笑わない的なことを言われて一瞬頭が混乱した。
「……楽しくないのに笑えるわけないでしょ」
なんとか頭を動かして答えた声は我ながら愛想の欠片も無い声だった。
「俺と居て、楽しくなぁい?」
「べーつーにー」
「ヒドいなぁ」
そう言って困ったように笑うアオに、なんだか急に苦しくなる。
「碧はとっても可愛いもの、笑ったらもっと可愛いよ」
心底といった具合に溜め息まじりにそう言われて、瞬間身体が強張る。
「ア、アオってさぁ……そーやって女の子口説いてたんじゃないの?」
「えー記憶無いからわかんなぁーい」
ドキドキしていた。
必死にいつもの表情を繕いながら、いつもの態度を崩さない様にしながらアオをあしらう。
けれども心臓はまるで全力で走った後みたいに脈打って、顔が異常に熱かった。心が、震えていた。
アオの顔はとても綺麗だ。映画スターにも引けを取らないどころかそれ以上に整っていて、正直直視するといたたまれなくなるほどだ。そんなアオの真っ青でキラキラとしたあの瞳に覗き込まれて、あんな柔らかい微笑みで「可愛い」などと言われたら誰だって恥ずかしくなる。
でもそれを、アオに知られるのはなんだかとても嫌だった。




