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1.Meeting you



 あの頃の私は酷く孤独で、何一つ満足に出来ない子供であったと思う。

 男と一緒に蒸発した母。仕事しか頭になく家庭を顧みず、挙げ句には突然の発作であっけなく死んだ父。親戚はいない。父も母も天涯孤独の身だったから。

 父が一代で築き上げた会社は父の片腕だった人が引き継ぎ、その人は私の後見人として立ち、私には会社に関わらないかわりに一生遊んで過ごせるだけの莫大な遺産と、一人きりで暮らすには大きすぎる冷たい邸宅だけが残った。

 当時まだ高校生だった私の後見人は名ばかりで、成人して正式に遺産を相続するときまで二・三の電話や手紙のやりとり以外で会う事はなく、今では全く関わりがない。

 学校の友達と言う人たちは例外なく私の持つお金目当てに近づき、教師たちでさえなにかにつけて私の顔色を窺う様で鬱陶しかった。

 誰一人として私の心に気づく人はいず、誰一人として信用出来る人はいなかった。

 私の人間不信に磨きがかかり、いつしか誰もが表面では私に愛想を振りまくのに裏では聞き苦しい程の悪態をつくようになっていた。

 私はそれを知ってはいたけれど、どうでもよかった。むしろ好都合と言ってもよかったのかもしれない。

 他人と関わるのは鬱陶しく、人付き合いに縛られることのない自由を手に入れたのだから。



『それって寂しくない?』



 あの時、彼が言った言葉は酷く私の心を震わせ、その衝撃に私は怒りそして苦しかった。

 自分は一人でも大丈夫だという見栄と虚勢を張って、歯を食いしばって必死に立っていたのだから。

 彼の一言はそれまで頑なに守っていた私の中の下らないプライドを傷つけ、同時になにかを崩した。

 なにもかも揃って、なにもかも手に入れたような錯覚の中で生きていた私の中で、唯一の“本当”を彼は見つけるきっかけをくれたのだと、今でも信じてる。

 彼との出会いは本当に偶然で、その時の私の行動を一言に示すのなら“気まぐれ”というのが正しいだろう。



 あの日はせっかくの満開の桜を散らす、春の嵐の夜だった。霧の様な雨が途絶える事無く降りしきり、強い風が辺りを薙いでいた。

 私はじっとりと濡れていく制服に構うことなく、手にした傘も差さずにゆったりとした足取りで歩いていたのは、学校という憂鬱で鬱陶しい世界に疲れ果て絡み付く倦怠感を洗い流したかったからかもしれない。

 遅くなった帰り道、ただなんとなくいつもとは違う道を選び、ただなんとなく目に付いたその小さな公園を横切った時だった。彼を見つけたのは。

 最初は死んでいるのかと思った。

 その公園で一番大きな楠の根本にぐったりと座り込んだその姿に力はなく、俯き少し長めの濡れた茶色い髪から覗く青白い頬に生気はなかった。

 春といえども夜、特に雨の日はまだ寒いと言うのに、彼は薄手の白いTシャツとジーンズに、片足だけ脱げたスニーカーという出で立ち。

 暗がりでも解る程に、全身に殴打の後があり、肩口からは黒々とした紅い血を流していた。

 私は、しかしその姿に、そのまるで死んでいるかのような姿に一片の恐怖を覚える事もなく彼に近づき、その頬に触れた。雨で冷えた私の手よりも冷たい頬。

(死んでいる)

 そう思ったことは無理もない。

 もしもあの時彼が僅かに身動きをしなければ私は警察を呼び、もしもあの時彼がその髪に隠れた表情を見せなかったら救急車を呼んでいただろう。

 そうしたらきっと今の私はいない。あの時から始まった彼との時間は存在しなかっただろう。

 私が触れたことで意識でも戻ったのか、僅かな呻き声と共にゆっくりと顔を上げた彼の顔はいっそ怖ろしい程整っていて、前髪から覗くその瞳の色は暗青色に煌めいていた。

(犬だ)

 その目を見たとき感じた第一印象がこれだった。

 僅かに細められているもののその輪郭は丸く、濡れたように輝き縋るような色を浮かべたその瞳は、間違いなく哀れな捨て犬のそれだったのだから。

 だからこそ余計にその口の端から流れる紅い筋が、晴れ上がらせた頬が、傷が痛々しく見えた。

 そうしてふと気づく。

「泣いてるの?」

 これが彼を見て私が一番最初に発した言葉だった。

 そして彼は、その大きな瞳から幾筋もの雫を零してゆっくりと目を閉じた。

 どうしてこの時、彼を助けようと思ったのかは今でもあまり良く解ってはいない。

 ただ、あの傷ついた目が遠い昔の記憶に引っかかったのは確かだ。

 まだ私が人を信じることを諦めていなかった頃、まだ不仲なりにも両親があの家にいた頃。私が見つけて拾い、そして殺してしまった子犬の目と同じその瞳。

 だから私は彼を助けることを“捨て犬を拾ったんだ”と自分を納得させて、理性のどこかが訴えていた“常識”を無視したのだ。

 今でもこの時の気持ちの説明はできないし、やはり他人が聞けばいい顔をされないけれども、私はあれから数年経った今でもこの時の事を後悔はしていない。






 彼は二日寝込んで、三日目で元気になった。

 彼が眠っていた二日間、彼についてアレコレと様々なことを考えてなにかを期待しながら手当をし目覚めを待っていた私は、起きた彼が空腹を知らせる大音量のアラームと、開口一番の「腹へったぁ~」という言葉で現実に冷めた。

 自分の置かれている状況や近くにいた私のことなどまるで無視して、ただ必死にベットの上で食べ物を求めて叫んでいた。その凄まじい訴えようは、呆れるを通り越して感心してしまうほど。

 私はその勢いと驚きに押されて、彼のために食事を作った。

 二日間寝込んでいたのだ。意識のない彼に水や食事補助の栄養ゼリー飲料を飲ませていたものの、やはり胃が弱っているだろうからと、胃に優しい消化の良い物を急遽用意したというのに、それを彼はほんの一瞬で平らげあまつさえもっと食べ応えのある物を、と、私に要求してきたのだ。

「少し待ってて」

 そう言って私が新たに食事の用意をすれば、彼はベットの上で転がりながら、

「飯~~!! 飯~~~!! ごはん~~~~!! 死ぬぅ~~~~~!!!」

 と、ひたすらずっと叫んでいた。

「それだけ元気があったら、死ぬわけないでしょ!!」

 そんな私の怒声は、それでも彼の耳には届いていなかったようだ。

 それから彼は易々と私の五日分の食料を平らげて、少しも経たないうちにトイレへと駆け込んでいた。さすがにこの時は、なんでこんなのを拾ったのだろう、と真剣に後悔したものだ。今では笑い話だけれど。



「で、あんたは誰でここはドコ?」

 それがトイレから出てきた彼の最初の、そして初めてまともに交わした言葉だった。

 私は、短時間に色々な感情が起こりすぎて、少しぼんやりとしていた頭にこの一言は痛かった。言葉に表しにくい脱力感が肩にのしかかって私は笑った。力のない笑いではあったが。

「私は町沢碧まちざわみどり、ここは私の家。貴方は公園に落ちてたから、拾ったの」

「拾ったって……」

「で、貴方は誰さん?」

「……」

「誰さん?」

「……ん」

「は?」

「俺って誰でしょう?」

「………」

 あの時は自分でも信じられないほどの怒声が出たものだと、今でも驚いている。

 これほど流暢に言葉を話し理解し、そのうえ常識的なあたりまえの行動をしている彼が、事も有ろうに自分の事だけすっぽりと忘れたと言ったのだ。そんな物語みたいなことあるわけない。私が怒った事は当然だろう。

「じゃぁさ、じゃぁさ、碧が名付けてよ」

 どうしてあんな展開になったのか、あまり覚えていない。

 ただ記憶がないと言った彼に、ふざけるなと怒って、それからなにかを言い争って、結果として私が彼の名前を考えることになったのだ。

 どうしてかは解らないけれど、この時にはもう彼を自分の家に住ませることにもなっていた。今でもその経緯が解らない。

 ただ、この時の私の中にあった気持ちは“拾った責任”だったのだと思う。

「どんな名前でも文句言わない?」

「うっ……いや、それは……」

「貴方が言ったのよ、私に名付けてって」

「……わ、わかった」

 しぶしぶそう頷いた時、彼はなにを考えていたのだろうか。なにを思っていたのだろうか。

「じゃぁ、ポチ」

「げっ!! 何で!!!」

「だって貴方、犬っぽいわ」

「犬って、失礼だなぁ」

「じゃぁ……しろ、たま、みけ、コロ、こやし、大五郎……」

「碧ってネーミングセンス無いよね」

「……貴方はどんな名前がいいのよ」

「清楚でハイセンスで格好良くて可愛くて凛々しくて爽やかでグレイトでグローバルでナイスな名前」

「……具体的には?」

「…………」

「アオ」

「え?」

「目が青いから、“アオ”」

「碧って……」

「文句があるなら、本当の名前を思い出してみなさいよ」

「……アオでいいです」

 あの頃、私に「アオ」と呼ばれるたびに彼はなにを感じたのだろう。

 もしも今一つだけ知ることが出来るのなら、この時の彼の気持ちを知りたかった。

 そんなことは出来るはずもないけれど。

 今は、彼の『記憶喪失』が偽りであったのだと知っている。その理由も、大方の見当がついている。

 彼を責めるつもりはない。怒るつもりも恨むつもりもない。

 なぜならあの時、彼のついた“嘘”が私にとっては唯一の“真実”だったのだから。

 『本当』の彼を私は知らない。知る必要がない。私にとって、私の隣で笑っていた彼―――アオが彼の全てだった。

 それ以外の彼は知らなくていいことだ。今もそう思っている。



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