あなたは修正した。私は保存した。 ——『君がおかしい』と言われ続けた私が、株主総会で元恋人を刑事告発した話
第1幕:嘲笑
誰かの笑いを堪える喉が鳴った。
「A社第二契約の単価ですが——」
私は手元の資料を確認しながら切り出した。営業本部の定例会議、出席者は十二名。
全員の視線が私に向く。
「前回合意した二百四十円から、二百二十円に下がっています。
この変更について、正式な承認プロセスを経ているでしょうか」
静寂。
営業本部長の黒木が、小さく溜息をついた。
「榊くん」
その声は穏やかだったが、どこか疲れたような響きがあった。
「また始まったね」
誰かが、プッと小さく吹き出した。
会議室に、忍び笑いが広がる。私の顔が熱くなった。
「数字はね、作るものなんだよ」
黒木は独り言のように呟き、慈愛に満ちた目で私を見た。
「A社との交渉では、最初から二百二十円で話を進めていたよ。三月一日の営業会議で決まった内容だ」
黒木は手元のタブレットを操作し、プロジェクターに議事録を映し出した。
『A社第二契約・単価改定について協議。榊課長より二百二十円での提案。全会一致で承認』
私の名前で、記録されていた。
「……そんな」
「薬は飲んだかな?」
黒木の声に、優しい心配の色が滲む。
「最近、ちょっと記憶が曖昧になることが多いって、人事部からも相談を受けてるんだ」
周囲から同情的な視線が向けられる。私は何も言えなかった。
会議後、自席に戻った私は震える手でバックアップフォルダを開いた。
営業部時代から続けている習慣——全ての会議資料を、日付ごとにローカルドライブに保存している。
三月一日のフォルダを開く。
『A社第二契約について報告。単価は前回同様二百四十円で継続予定』
私の発言は、どこにも記録されていない。
——カチッ。
マウスのクリック音。私は、このファイルを外付けUSBメモリにコピーした。
「20240301_営業会議_原本」
保存完了。
でも、心の奥で小さな声が囁いた。
——これも、お前の妄想かもしれないぞ。
第2幕:診断
その後、似たような「記憶違い」が続いた。
四月十五日。顧客への提案内容が、私の記憶と食い違っていた。
五月二日。クレーム対応で私が提案した解決策が、「誰も聞いていない」と言われた。
五月二十日。予算会議で指摘した経費の不整合が、「君の計算ミス」として片付けられた。
その都度、黒木は優しく訂正してくれる。周囲も頷く。
そして五月末。人事部から産業医面談の案内が届いた。
「最近、お疲れのようですね」
産業医の中年女性は、穏やかに笑った。
「上司の方から、少し心配だと連絡がありまして」
「私は、問題ありません」
「そうですか」
彼女は私の手元のノートを見た。確かに、無意識に文字を書き続けていた。
「信頼関係が築けないと、仕事は難しいですね」
診断書には『適応障害の疑い。強迫的な記録行動が見られる。経過観察が必要』と書かれていた。
メールを開くのが怖くなった。
返信の文面を何度も確認する。送信ボタンを押すとき、手が震える。
この内容で合っているのか。後で「そんなこと書いていない」と言われないか。
トイレで吐いた。
六月。人事異動の内示が出た。
「内部監査室への配置転換です」
人事部長が申し訳なさそうに言った。
「営業本部長からの推薦で、少し環境を変えた方がよろしいかと」
実質的な左遷だった。
私は、自分が本当におかしいのかもしれないと思い始めていた。
---
異動の前日。
荷物を整理していると、廊下で黒木に呼び止められた。人気のない窓際のベンチ。
「榊くん、少し話そう」
彼はいつものように、穏やかな表情を浮かべていた。
「君は昔から、記録魔だったよね。メールも資料も、全部バックアップする癖がある」
私の背筋が凍った。恋人時代のことを、彼は覚えていた。
「でもさ、記録に頼りすぎると、現実が見えなくなることもあるんだ」
黒木は窓の外を眺めながら、淡々と続けた。
「この会社には三百人が働いている。売上が落ちれば、何人の家族が路頭に迷うと思う?」
「……それと、契約改ざんと、何の関係が」
「数字っていうのはね、現実そのものじゃない」
彼は指を一本、ゆっくり立てた。
「現実を、会社が飲み込める形に『調整』するための道具なんだよ。未来の業績を先取りして見せる。それで資金をつなぎ、雇用を守る。そうやって会社は続いてきた」
それは、彼なりの「正義」の顔をしていた。
「でも、君はそれを『粉飾』って呼ぶ。君の辞書では、きっとそうなんだろう」
黒木は私の目を見た。
「君みたいな人間は、組織にとっては危険なんだ。正しすぎて、折れないから」
「だから監査室に異動させた。君を守りたかったんだ」
「……どうして」
声が震えた。
「どうして、私の記憶と違うんですか」
黒木は優しく微笑んだ。
「それが心配なんだよ。君、本当に疲れてるんだと思う」
「私は確かに——」
「うん。君はそう思ってる。それは分かる」
黒木は私の目を見つめた。
「でもね、周りから見たら、ちょっと違って見えるんだ。それが現実なんだよ」
現実——。
「どうして」
気づいたときには、その言葉が漏れていた。
黒木は少しだけまばたきをして、それから微笑んだ。
「どうして、って?」
私は言葉を失った。
「……どうして、なんでしょうね」
結局、出てきたのはそんな曖昧な答えだった。
黒木は少しだけ寂しそうに笑った。
「それが分からないうちは、やっぱり休んだ方がいいのかもしれないね」
彼は立ち上がろうとして、ふと足を止めた。
「ああ、そうだ」
振り返る。
「社外にデータを持ち出すのだけは、やめておきなよ。君、そういうの、昔からやりがちだから」
いつもの穏やかな笑みを浮かべて、彼は去っていった。
その背中を見送りながら、私は心の中で呟いた。
——覚えておく。
この会話を。この優しさを。この、何もかもを。
第3幕:恐怖の照合
内部監査室は、地下の資料庫の隣にあった。窓のない部屋。
私は「仕事のできない元エース」を演じながら、来る日も来る日も過去の記録を整理していた。
そして、ある夜。
深夜の会社で、私は私物のハードディスクを取り出した。社内規定違反だが、これだけが私の命綱だ。
「……頼む、間違っていてくれ」
震える指でファイルを開く。
自分が狂っていれば、この苦しみは終わる。黒木が正しいなら、自分は治療すればいい。
二つの画面を並べる。左は現在の社内サーバー、右は三ヶ月前の私のバックアップ。
カチッ、カチッ。静かな部屋に、マウスの音だけが響く。
ファイルの作成日時は同じでも、中身が違う。
A社、B社、C社——同じパターンが繰り返されていた。
契約単価を事後的に修正し、売上を水増しする。
議事録を改ざんし、正当な手続きを経たように見せかける。
そして、私のような「気づいた人間」を、記憶違いとして処理する。
「……一足す一は、二だ」
私は小さく息を吐いた。
私は間違っていなかった。
黒木は知っていた。私のバックアップ癖を。
だからこそ、彼は別の方法で私を壊そうとしたのだ。
記録ではなく、「記録する人間の信用」を失墜させることで。
私は外部監査法人に連絡を入れた。
電話帳の名前を押す指が、やっと震えなくなっていた。
第4幕:静寂の断罪
八月。外部監査法人との面談を経て、私は告発の準備を進めていた。
十月二十日。本社ビル最上階の大会議室。
株主総会が開催された。私は監査役の隣、外部監査法人の代表として出席している。
黒木は壇上にいた。営業本部長として、業績報告を行っている。
「今期の営業利益は、前年比一二〇パーセントを達成しました」
大会議室に、割れんばかりの拍手が起きる。
黒木が一礼すると、その音は潮が引くようにすっと弱まり——完全に、止まった。
空調の低い唸りだけが残る。
「議長」
その静寂の中で、監査役の声はやけに大きく響いた。
「緊急動議を提起します」
会場がざわつく。前列の老年の株主が、手にしていたペンを床に落とした。
カツン、という音が響く。彼はそれを拾おうともせず、ただ食い入るようにこちらを見つめている。
「営業本部長・黒木取締役に対する解任動議、および特別背任行為に関する調査報告です」
黒木の表情が一瞬固まった——ように見えた。だが、すぐに穏やかな笑顔に戻る。
「何か誤解があるのでは」
「誤解ではありません」
私が立ち上がった。
「これより、証拠を開示します」
プロジェクターに最初の資料が映し出される。
「契約条件の不整合について」
画面には、A社との契約書が並んで表示される。
「左が現在社内システムに保存されている契約書、右が実際にA社で保管されている原本です」
単価の数字が、明らかに違っていた。
咳払いが、あちこちから聞こえた。
「同様の改ざんが、複数の案件で確認されています」
私は淡々と証拠を開示していく。
黒木が手を挙げた。まだ、穏やかな表情を保っている。
「少し待ってください」
黒木がマイクに手を伸ばす。その指先が、わずかに震えていた。
「それは、部下への権限委譲の結果で——」
『けん……』と、言葉がそこで切れる。喉が音を拒んだように。
彼はマイクを握り直そうとする。だが、指が滑った。
マイクを握ろうとした手が、空中で微かに震え、そのまま力なく演台に落ちた。
コトッ。
乾いた音が、マイクを通して会場に響く。
一秒の沈黙。
もう一度、マイクを握り直す。だが、今度は何も言葉が出てこなかった。
その瞬間だけ、彼の穏やかな表情にひびが入った。
「黒木本部長」
私は彼の言葉を遮った。
「本日付けで、顧問弁護士を通じ、所轄警察署に刑事告発状を提出済みです。
既に受理され、捜査準備が進んでいます」
会場後方に立つスーツ姿の男性二人が、ゆっくりと前へ出る。
胸元には、警察手帳の黒い革が覗いていた。
「特別背任罪の疑いで、捜査が開始されます」
黒木の顔から、ついに笑顔が消えた。
彼は口を開きかけて——言葉が出てこなかった。
数秒の沈黙。
「……君」
声が、わずかに震えていた。
会場を出る直前、黒木は私の前で足を止めた。
「君を守ったんだ。俺の会社から」
沈黙。
「……バックアップの癖、直ってなかったんだね」
その声は、最後まで優しかった。
私は何も答えなかった。ただ、スクリーンに映る「改ざんのない正しいログ」を見つめていた。
第5幕:決別
株主総会の翌日、社長室に呼ばれた。
「君には感謝している」
社長は深く頭を下げた。
「営業本部長のポストを用意したい。君に戻ってきてほしい」
それは、会社員としては最高の勝利だろう。名誉回復、栄転。
だが、私は用意していた封筒をデスクに置いた。
「辞表です」
社長が目を見開く。
「なぜだ? 君の正しさは証明されたじゃないか」
「ええ。証明されました」
私は微笑んだ。久しぶりに、心からの笑みが浮かんだ気がした。
——私は、あなたを信じていました。
心の中で、そう呟いた。黒木に向けてではない。かつての自分に向けて。
「でも、あの四ヶ月間、誰も私を信じませんでした。ここでは、息ができませんから」
「……そうか」
社長は引き止めなかった。
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会社を出ると、秋の風が吹いていた。
行き先は決めていない。だが、不安はなかった。
私は外付けHDDを取り出し、最後のファイルを開いた。
改ざんのない、正常な決算書。正しい数字が並んでいる。
「ああ、やっぱり」
私は小さく呟いた。
「一足す一は、二だったんだ」
当たり前のことが、涙が出るほど嬉しかった。
スマートフォンを取り出し、記録しようとする指が止まる。
スマホをポケットにしまう。
私は、私の記憶を信じる。
【完】
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
この物語は、派手な魔法も大きな奇跡もありません。
あるのは「記録」と「信じる力」だけです。
誰かに「君は間違っている」と言われ続けること。
それは、数字を奪われるよりも、ずっと静かで残酷なことかもしれません。
榊は最後まで泣きませんでした。
けれど、その代わりに――自分を取り戻しました。
もし、この物語のどこかが心に残ったなら。
一足す一が、ちゃんと二だったと感じていただけたなら。
ブックマークや評価、感想をいただけると、とても励みになります。
あなたの読書時間の中に、この物語があったこと。
それだけで、十分に嬉しいです。
また次の物語でお会いできましたら。




