8話
群衆の恐怖は、もはや現場だけのものではなかった。通りを埋め尽くす叫びは、祭りの外へ漏れ出し、街全体を震わせていた。屋台の灯りは煙に霞み、提灯の赤は血のように揺れる。人々は出口を探し、肩を押し合い、泣き声と怒声が重なり合う。恐怖は群衆の中で増幅し、誰も止められない。
その様子を撮影した動画は瞬く間に拡散された。SNSには「現場にいる」「助けて」「出口が塞がれている」といった声が並び、コメント欄は恐怖の記録となった。数分後には「群衆雪崩」「テロの可能性」「行政の不備」といった言葉がトレンドを埋め尽くす。恐怖はデジタルの波となり、街の外へ広がっていった。
テレビ局の速報は繰り返し流れた。「都内の祭りで群衆事故か」というテロップが画面を走り、映像には押し合う人々と泣き叫ぶ子どもの姿が映し出される。アナウンサーの声は震え、スタジオの空気は緊張に包まれる。専門家は「偶発的な群衆雪崩では説明できない要素がある」と語り、視聴者の不安を煽った。
世間の議論は瞬く間に広がった。テレビのコメンテーターは「行政の不備」を指摘し、ネット上では「テロではないか」という憶測が飛び交う。現場にいた人々の証言が断片的に拡散され、「出口が塞がれていた」「信号が狂っていた」といった言葉が繰り返される。恐怖は群衆の中だけでなく、社会全体の不安へと変わっていった。
行政は記者会見を開いたが、言葉は曖昧で、責任を回避するような調子だった。「現在、詳細を確認中です」「警察と連携して対応しています」。だがその言葉は火に油を注ぎ、世間の怒りをさらに広げた。
警察内部でも混乱は広がっていた。無線は錯綜し、「救急車が入れない」「人が倒れている」といった断片的な報告が飛び交う。指揮系統は麻痺し、現場の警官たちは「偶発か計画か」という問いを口にし始めた。だが答えは出ない。情報は断片的で、組織は揺らぎ、秩序は崩れ始めていた。
その頃、交番に残っていた同僚は、室井の不在をただ気にするのではなく、過去の彼の言動を思い返していた。数日前、室井は「退屈を壊すには舞台が必要だ」と冗談めかして言った。報告書を処理する手際の速さ、時折漏れる笑み――それらが頭をよぎる。今、無線に彼の声が混じらないことが、ただの不在ではなく「意図的な沈黙」に思えてきた。
「室井は何をしている?」同僚は胸の奥で呟いた。疑念はまだ言葉にならない。だが、彼の存在そのものが現場の混乱と奇妙に重なって見え始めていた。
室井は現場の片隅からそのすべてを見ていた。群衆の恐怖が社会へ広がり、組織までも揺らぎ始める。そのざわめきは彼にとって拍手のように響いた。ニュースの速報、SNSの拡散、行政の混乱、警察の麻痺――それらすべてが舞台の一部となり、彼の胸の奥で炎を燃え上がらせた。
「これでようやく、秩序そのものが観客になる」室井は心の中で呟いた。群衆の恐怖は社会へ広がり、組織を揺るがし、秩序そのものを舞台へと変えていた。




