6話
祭りの夜は、最初は幸福に満ちていた。提灯の赤い灯りが風に揺れ、屋台から漂う甘い匂いが通りを満たす。子どもたちの笑い声が響き、金魚すくいの水面がきらめき、綿菓子の白い雲が夜空に溶けていく。人々は浮かれ、肩を寄せ合い、祭りの熱気に酔っていた。誰もが、この夜が永遠に続くと信じていた。
だが、群衆の流れは次第に詰まり始めた。屋台の列が不自然に曲がり、出口が塞がれていることに誰も気づかない。最初は小さな違和感だった。肩がぶつかり、足が止まり、笑い声が途切れる。誰かが振り返り、誰かが眉を寄せる。だが、群衆は止まらない。後ろから押し寄せる波が、前へ進むことを強いる。人々は押し合い、狭い通りに閉じ込められていく。
子どもの泣き声が最初の悲鳴だった。母親が抱き上げようとするが、腕は押され、足は踏まれる。泣き声はすぐに広がり、隣の人の不安を呼び起こす。誰かが転び、誰かが叫ぶ。叫びは笑い声をかき消し、群衆の中に波紋のように広がる。人々は出口を探すが、見つからない。出口は塞がれている。前へ進めず、後ろから押される。肩と肩がぶつかり、胸と胸が押し合い、呼吸が浅くなる。
「押すな!」という声が響く。だが声はすぐにかき消される。押すなと言っても、後ろから押される。誰も止められない。群衆は群衆であること自体が恐怖になる。人々は自分の足で歩いているのではなく、群衆の波に運ばれている。足が地面に触れている感覚が薄れ、身体が流れに呑まれていく。
屋台の灯りが揺れ、煙が目にしみる。匂いは甘さから焦げ臭さへと変わる。誰かが倒れ、誰かが踏まれる。踏まれた人の叫びは、すぐに群衆のざわめきに呑まれる。助けを求める声が重なり、誰も助けられない。手を伸ばしても、掴めるのは別の肩、別の腕。腕は押され、肩は押し返され、誰も自由になれない。
恐怖は熱となり、群衆全体を包む。人々は出口を探し、空を見上げ、提灯の灯りにすがる。だが灯りは揺れるだけで、道を示さない。煙が濃くなり、視界が曇る。視界が曇れば、不安は増す。不安が増せば、声は高まる。声が高まれば、恐怖は連鎖する。恐怖は群衆の中で増幅し、誰も止められない。
「助けて!」という声が響く。だが助けは届かない。救急車のサイレンが遠くで響くが、進めない。道は塞がれ、群衆は出口を見つけられない。絶望が広がり、群衆はさらに混乱する。人々は押し合い、叫び合い、泣き叫ぶ。泣き声と叫び声が重なり、街全体が恐怖の合唱となる。
室井はその光景を遠くから見ていた。彼の胸の奥では炎が燃え上がっていた。だが群衆はその存在を知らない。彼らにとって、恐怖は突然訪れた災厄だった。誰もが出口を探し、誰もが助けを求め、誰もが群衆の波に呑まれていた。
提灯の灯りが揺れ、煙が漂い、群衆の叫びが重なる。舞台は動き続け、観客は逃げられない。恐怖は群衆を支配し、群衆は恐怖に支配される。いい夜だ、と室井は思った。危険な夜は、面白い。面白さは、空虚の反対だ。反対があるなら、もう退屈は戻ってこない。
彼はゆっくりと息を吸い、吐いた。その呼吸こそが、次の合図だった。




