3話
室井の退屈は、交番の中だけでは収まらなくなっていた。蛍光灯の白い光は机の上の書類を冷たく照らし、無線からは雑音混じりの定型連絡が流れてくる。時計の針が刻む音は、彼にとっては時間が浪費されていることを告げる合図にしか聞こえなかった。報告書を整理する手は機械的に動き、同僚の「今日は静かだな」「暇だな」という言葉は耳に入っても心には響かない。室井の思考は、すでに交番の外へと向かっていた。
ある夜、彼は銭湯に足を運んだ。湯気が立ち込める脱衣所は湿気を帯び、木の床は水を吸って軋み、古びたロッカーからは金属の匂いが漂っていた。常連客たちが「今日は冷えるな」「腰が痛くてね」と他愛ない会話を交わす中、室井は隣のロッカーを使う中年男性に目を留めた。背広を雑に畳み、疲れ切った顔で鍵を回すその姿は、凡庸な生活の象徴に見えた。彼は湯船に浸かりながら計算を始めた。ロッカーの電源コードをわずかに剥き、金属部分に触れれば電流が走るよう細工を施す。老朽化による事故に見せかけるため、周囲の配線もわざと乱しておいた。準備の間、彼は工具の音を湯気に紛らせ、誰も気づかないことに満足した。やがて男性がロッカーに手をかけた瞬間、身体が震え、声にならない呻きが漏れ、次の瞬間床に崩れ落ちた。湯気の中で人々が騒ぎ、管理者は「古い施設だから」と証言し、捜査は自然に事故死の方向へと傾いていった。室井は冷静にその様子を見下ろし、心の中で呟いた。「やっぱり張り合いがない」。
数日後、室井は図書館に足を運んだ。静かな閲覧室には紙の匂いが漂い、ページをめくる音だけが響いている。学生たちはノートに必死に書き込み、司書は静かに本を整理していた。室井は隣席に座る学生に目を留めた。真剣に参考書を読み、ペットボトルの水を机に置いている姿は、凡庸な日常の象徴に見えた。室井はすれ違いざまに微量の薬品を水に混ぜ、液体がわずかに揺れ、透明なままの水は誰にも怪しまれない。学生が口をつけると数分後に顔色が変わり、呼吸が乱れ、机に突っ伏した。周囲がざわめき、司書が慌てて救急車を呼ぶ。室井は冷静に「持病による突然死」と記録し、供述調書には「本人が持ち込んだ飲料」と強調した。医師の診断は「心臓発作の可能性」。捜査は自然死の方向へと傾いていった。室井はその文面を読み、心の中で呟いた。「完璧すぎて誰も気づかない」「自分の知能を試す相手がいない」。
二つの事件は、室井にとって退屈を紛らわせるための同時進行の暇つぶしだった。銭湯の感電死も図書館の薬物中毒も完全犯罪として成立した。だが成功すればするほど室井の心は空虚になっていく。事故死、突然死、強盗殺人風、どれも凡庸な結論に落ち着く。警察は疑わない。社会は動じない。室井は苛立ちを募らせ、机に向かって報告書を整理しながら心の中で呟いた。「もっと派手にやらなければ退屈は消えない」。その呟きは室井の暴走の始まりを告げるものだった。彼の知能は、もはや小さな暇つぶしでは満たされない。次に求めるのは、より複雑で、より大規模な仕掛けだった。




