1話
交番の一日は、室井にとって耐え難いほど単調だった。狭い室内には蛍光灯の白い光が満ち、書類の山が机の上に積み重なり、無線からは雑音混じりの定型連絡が繰り返される。時計の針が進む音すら、室井には退屈を告げる合図にしか聞こえなかった。
「今日は静かだな」
「暇だな」
同僚の警官がぼんやりと呟く。室井は相槌を打つだけで、心の中では苛立ちを募らせていた。凡庸な会話、凡庸な仕事。頭の良さを使う必要がない。落とし物の受理、道案内、酔客の介抱――どれも退屈な繰り返しに過ぎなかった。
ある日、老人が「自転車のベルが壊れた」と相談に来た。室井は事務的に修理業者の場所を教える。若い母親が「子どもがランドセルを忘れた」と駆け込んでくる。室井は淡々と対応しながら、心の中で「こんなことに頭を使う必要はない」と呟いた。交番の仕事は、彼の知能を試す場ではなかった。
夜勤の交番はさらに静かだった。書類の束を整理し、無線の雑音を聞き流しながら、室井は窓の外を眺める。街灯に照らされた通りを、同じ時間に同じ人間が通り過ぎる。毎晩、自転車で帰宅する中年男性。疲れ切った顔、無防備な姿勢。室井の視線は自然にそこへ定まった。
「この人間を事故に見せかけて殺す」
そう決めた瞬間から、室井の頭脳は異常な集中を始める。彼は数日間にわたり男を観察した。帰宅時刻、速度、坂道での重心の傾き。室井はその姿に「退屈の象徴」を見た。毎日同じ時間に同じ道を通る男は、世界の凡庸さそのものだった。だからこそ、標的にふさわしかった。
室井は街灯の位置を確認し、道路の傾斜を測り、ブレーキの効き具合を調べた。雨上がりの夜を選び、タイヤに細工を施すタイミングを見計らう。彼は自転車のブレーキワイヤーをわずかに緩め、タイヤの空気を抜いた。計算は美しかった。傾斜と速度、視界の悪さが重なれば、転倒は必然になる。
その夜、室井は交番から少し離れた路地に立ち、男の帰宅を待った。自転車は予想通りの速度で坂を下り、タイヤが滑った瞬間、男の身体は宙に投げ出された。鈍い音が響き、血がアスファルトに広がる。室井は冷静に現場を整えた。
警察官としての役割を果たすのは簡単だった。室井は無線で通報し、現場に駆けつけた同僚に淡々と説明する。
「雨で足元が悪かったようです。本人も疲れていたみたいで」
同僚は頷き、メモを取る。室井はさらに近所の住民に「最近体調が悪そうだった」とさりげなく話を振る。住民は「そういえば顔色が悪かった」と同調し、証言は自然に集約されていった。捜査は事故死の方向へと傾いていく。
翌日の捜査会議では、上司が報告書を読み上げた。
「自転車転倒による死亡。雨天、視界不良。本人の不注意」
事務的な声が交番に響く。室井はその文面を読み、笑った。だがその笑いはすぐに消えた。
「やっぱり張り合いがない」
「完璧すぎて誰も気づかない」
「自分の知能を試す相手がいない」
室井は心の中で繰り返した。完全犯罪は成立した。だが成功すればするほど、室井の心は空虚になっていく。交番勤務の警察官として、彼は自ら仕掛けた事件を処理する同僚たちを眺めながら、苛立ちを募らせた。誰も彼を疑わない。誰も彼の頭脳を追い詰めない。
室井は夜の交番に戻り、机に向かって報告書を整理した。窓の外には雨に濡れた街灯が光っている。蛍光灯の白い光が机の上の書類を照らし、無線の雑音が途切れ途切れに響く。彼はペンを置き、心の中で呟いた。
「次は、もう少し複雑にしてみようか」
退屈を紛らわせるための殺人は、まだ始まったばかりだった。




