プロローグ
室井は大学時代から退屈を抱えて生きていた。講義室に並ぶ黒板の数式も、教授の声も、彼にとってはただの繰り返しに過ぎなかった。解けない問題はない。驚きもない。周囲の学生が必死にノートを取り、試験に備えている姿を見ても、室井にはそれが滑稽にしか映らなかった。彼にとって世界は、すでに答えのわかっている退屈な問題集のようなものだった。
講義室の窓際に座り、室井はぼんやりと外を眺める。隣の席では友人が真剣に参考書に線を引いている。前列では女子学生が教授の言葉を一字一句書き写している。だが室井には、その努力がすべて無意味に見えた。彼の頭の中では、教授の問いかけが終わる前に答えが完成してしまう。彼は孤独だった。誰も彼の速度に追いつけない。誰も彼の退屈を理解しない。
退屈はやがて、奇妙な方向へと膨らんでいった。室井は「人間を対象にした実験」を思いつく。暇つぶしに、偶然目についた人間を標的に選び、完全犯罪を試みる。
彼の視線は、毎日同じ時間に同じ道を通る一人の学生に定まった。標的は偶然であり、必然でもあった。
「この人間を事故に見せかけて殺す」――そう決めた瞬間から、室井の頭脳は異常な集中を始める。
彼は階段の手すりの緩みを確かめ、足場の摩耗具合を計算した。被害者の歩幅や重心の癖、通過時刻までを観察し、転倒の確率を頭の中で何度もシミュレーションする。靴底に残る痕跡を消すため、現場に砂を撒くタイミングまで調整し、すべてを数式のように組み立てていった。
その日、被害者が階段を降りる瞬間、室井は背後からほんのわずかに肩を押した。力ではなく、角度とタイミング。計算通り、手すりが外れ、身体は宙に舞い、鈍い音を立てて地面に落ちた。血の匂いが漂う中、室井はただ冷静に見下ろしていた。
すぐに彼は現場を整えた。被害者のノートを階段の上に置き直し、足を滑らせたように見せかける。周囲の証言は自然に集約されていった。「不注意だった」「最近疲れていたらしい」――室井が流したさりげない言葉が、捜査を事故死の方向へと導いていく。
警察はあっさりと「事故死」と処理した。報告書には「学生、転倒による死亡。目撃者複数。不注意の可能性高し」と事務的に記されていた。室井は笑った。だがその笑いはすぐに消えた。
「やっぱり張り合いがない」
それからも室井は事件を重ねた。ガス中毒に見せかけた死では、彼は換気口を塞ぎ、被害者が眠り込むタイミングを狙った。警察は「本人の不注意」と処理した。首吊り偽装では、室井が環境を整え、ロープの痕跡を自然に見せかけた。警察は「自殺」と断定した。交通事故に見せかけた衝突では、室井が車両の整備不良を仕組み、被害者が夜道で事故を起こすよう誘導した。警察は「整備不良による事故」と片付けた。
そのたびに室井は捜査を撹乱した。目撃者として「徹夜していたらしい」「最近悩んでいたようだ」と噂を流し、証言を誘導した。警察はそれを鵜呑みにし、捜査は迷宮入りすらせず、凡庸な結論に落ち着いた。
「やっぱり張り合いがない」室井は繰り返し呟いた。完全犯罪は成立する。だが成功すればするほど、室井の心は空虚になっていった。頭が良すぎるがゆえに、彼は退屈を殺人でしか紛らわせられない。だがその殺人は、成功すればするほど無意味に見える。
室井は、いつしか「警察を鍛えるために内側に入る」という倒錯した考えに辿り着く。警察の凡庸さを正すために、彼自身が警察官になるしかない――そう信じ込むようになった。
こうして、殺人鬼は警察官になった。




