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エピソード④end

 夜の雨は、街の輪郭をやさしく削り取っていった。

 光は滲み、音は鈍り、急ぐ人の足取りだけが現実の重さを思い出させる。ぼくらはアーケードを抜け、川沿いの古い堤防に出た。護岸のコンクリはひび割れ、昇降の鉄梯子には赤錆が滲んでいる。ここにはカメラが少ない。世界の目が届きにくい、わずかな盲点。


「ここに置こう」

 久美は、濡れた髪を耳にかけ、息を整えた。

「消えないものに、君の名前を」


 彼女は鞄から、細いポンチと小槌を取り出した。DIYの残り物だという。堤防の角に、ポンチの先を当て、ためらいなく打ち込む。

 金属の高い音が雨に砕け、夜に散る。

 彼女の腕には、黒いペンで太く書かれた相沢翔の文字。雨に濡れて、滲んでも、まだ読める。

「……いいのか」

「違法じゃない、ちょっとだけ迷惑なだけ」

 彼女は笑い、叩き続ける。

 カン、カン、と刻むたび、翔の字がコンクリの表面に浮かび出る。

 ぼくは横で見守りながら、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。名前が、ひとつの石に宿る。システムが見落とす場所に、静かに住み着く。


 やがて彼女は手を止め、額の汗を腕で拭った。

 雨は相変わらず降り、刻んだ字の溝に小さな川を作っている。

「君は、ここにいる」

 彼女は指で、刻んだ文字をなぞった。

 冷たい石の感触。水の匂い。

 世界の巨大な画面が何を表示していても、ここには、相沢翔がいる——たしかに。


「帰ろう。体、冷える」

「うん」


 振り返った瞬間、堤防の上に黒い影が立った。

 傘も差さず、雨に濡れたスーツ。胸に小さなバッジ。

 ライトは持っていない。闇に慣れた目が、ぼくらをまっすぐ捉える。


「夜間の騒音は控えてください」

 男の声は、抑揚を持たない。だが、その抑え方が逆に不穏だ。

 久美は一歩、前に出た。

「ここは私有地じゃない。あなたに止める権限はないはず」

「権限の話をしているのではありません。整合性の話をしています」

 男は視線だけで、堤防の刻字を示した。

「相沢翔——抑制中の旧名義。軽い逸脱行為。記録しました」


 ぼくの背筋が強張る。

 記録——その一語が、すべてを氷の檻に変える。

 久美は、男を見据えた。

「あなたには、音がない」

「?」

「整合性ばかり見ているから。人の声の震えを、音として聴けない」

 男は少しだけ眉を寄せ、懐から端末を出す。画面の白が雨粒に砕けた。

「協力者・認知一貫性:51」

 数字が、刃の鈍い側でぼくらを押す。

「明日九時、大規模更新。あなたは“佐藤亮”として安定する。美しい一貫性です」

 それだけ告げて、男は踵を返した。

 傘も差さずに去っていく背中は、濡れていながら乾いて見えた。


 残された雨音が、やけに鮮明だった。

 久美が膝に手をつき、息を吐く。

「ごめん、少しだけ、めまい」

「座ろう」

 ぼくは彼女の肩を支え、護岸の段差に腰を下ろした。

 彼女は深呼吸を繰り返し、やがて落ち着いた声で言う。

「……明日の朝までに、もう一つ、置き場所を作ろう」

「置き場所?」

「君の名前を、人の生活の中に置く。毎日、誰かが触るところに。忘れさせない位置に」

 彼女の瞳に、雨粒を弾く小さな火が灯る。

「方法はある。古いけど、強い」



 夜明け前、古い商店街に灯りが点る。

 豆腐屋の軒先、焼きたての匂い。新聞配達のバイク。パン屋の鉄扉の向こうで、金属が擦れる音。

 ぼくらは、印刷所の前に立っていた。

 シャッターの隙間から灯りが漏れ、奥でインクの匂いが揺れる。

「うちの父が昔、ここにお世話になってた。挨拶はしてある」

 シャッターが上がり、痩せた老人が顔を出す。

「おお、久美ちゃんじゃねえか。朝っぱらからどうした」

 彼女は簡潔に頼みを伝えた。

 名刺の版を一枚、急ぎで刷ってほしい。

 老人は赤い目を瞬き、ぼくをちらりと見た。

「名前は」

 久美がこちらを見る。ぼくは頷いた。

「——相沢翔」

 老人は、何も聞かなかったふりをして、活字の引き出しを開けた。

 鉛の小さな文字をピンセットで拾い、ひとつひとつ並べる。

 あいざわしょう。

 活字の並びに、鈍い命の光が宿る。

 彼の手つきは迷いがない。

「活版はな、インクに刻み込むんじゃない。紙に、押し込むんだ。手で掴める“痕”が残る」

 彼は活字の板を組み、プレス機に取り付ける。

 ガシャン、と重い音。

 ローラーが回り、インクの匂いが濃くなる。

 白い紙が差し込まれ、黒い文字が、押し出される。

 古い機械のリズムが、ぼくの脈拍と重なった。


 束になった名刺は、温かかった。

 表には、黒々とした相沢翔。

 裏には、電話番号もメールもない。名前だけ。

 久美は一枚を取り、胸ポケットに入れた。

「これを配る。机の上、財布の中、コルクボード、雑誌の合間。生活の隙間に君を置く」

 老人が小さく笑う。

「若いの、理由は聞かねえ。けど、それは正しい抵抗だ」

 彼は活字の抽斗を閉め、古い布で指を拭いながら言った。

「名は音で、形で、触感だ。画面に勝てるのは、たまに、こっちだ」

 ぼくは深く頭を下げた。言葉は出なかった。ありがとうという文字が、喉の奥で重なりすぎて、うまく形にならない。



 朝の八時半。

 街の大型ビジョンの隅に、タイムラインのように流れる字幕。「九時、更新」。

 人々は、いつも通りに通勤し、改札を通り、エレベータに並ぶ。

 ぼくらは、社のフロアに散り、名刺を置いた。

 受付の脇に。総務のカウンターに。休憩室の雑誌ラックに。

 相沢翔という名だけの札が、白い矢のように、静かに差し込まれていく。

 久美は、自分の机の横の壁に、画鋲で一枚を留めた。

 忘れるな、未来の私

 彼女は、そこに小さく書き添えた。


 八時五十五分。

 スマホが微かな振動を伝える。

 **「更新準備中」**の文字列が、アプリの画面に揺れる。

 喉が乾いて、ぼくは水を飲んだ。

 久美が、視線だけで「大丈夫」と訊く。

 頷く。

 音は遠く、やがて近づいた。見えない波が、街をなでる。

 九時——更新。


 最初に変わったのは、社のゲートの表示だった。

 入館ログのスクリーンに、黒い文字が流れる。

 サトウ リョウ。

 サトウ リョウ。

 サトウ リョウ。

 ぼくはカードをかざし、顔を向ける。

 スクリーンがわずかにゆらぎ、決定する。

 サトウ リョウ。

 胸の奥で、小さな縄が切れる音がした。

 久美が、ぼくの名前を呼んだ。

「——しょう」

 音は届いた。届いたが、すぐに周囲のざわめきに薄められる。

 喫茶室の掲示板の名刺は、まだ白く光っている。

 その一点に、ぼくは視線を置いた。


 午前の会議。

 司会が「佐藤さん」と言い、ぼくは立つ。

 言葉は口を出、相手は頷き、議事録には佐藤亮と書かれる。

 休憩時間、給湯室で紙コップにお湯を注いでいると、背中から声がした。

「……しょう」

 久美だ。

 振り向くと、彼女は額に手を当て、少しだけ困った顔をしていた。

「ごめん、今、少しだけ、揺れた」

 スマホに通知。彼女の画面を横目に見る。

 協力者・認知一貫性:48

 数字は無慈悲だ。けれど、ゼロではない。

 久美は、胸ポケットから名刺を取り出し、指で縁を押した。

「触ると、戻る。紙の抵抗、効く」

 彼女の笑顔は、少しだけ無理があった。だが、その無理が愛おしい。


 昼。

 食堂のテレビが、政府の会見を映す。

「整合性指標の運用により、偽名使用や詐称の抑止、行政効率の向上が——」

 きれいな言葉、並んだ数字、統計のグラフ。

 ぼくは、トレイのスープに浮かぶ油の輪を見ていた。

 整合性という語は、味がない。だが、舌にまとわりつき、喉を滑って胃の壁に貼りつく。

 久美が隣で小声で囁く。

「午後、あの資料庫に行く? オフラインの隔離鍵、探せるかも」

「——いや」

 言葉が口から滑り出た自分に驚いた。

「今日は、行かない」

「どうして」

「逃げるだけの時間が、俺を薄くする。今日は、ここにいる。呼ばれたら、振り向く」

 久美は、目を細めて笑った。

「それも、強い」



 午後三時。

 総務から、個別呼び出し。

 統合連絡室の名で、会議室に来るように。

 恐れていた波が、予定通り、こちらへ。

 ドアの内側には、朝の男と、別の監査官がいた。

 机の上に、端末。

 監査官は、落ち着いた声で言った。

「最終判定を行います。名義は“佐藤亮”で安定。旧名義“相沢翔”は、公共表示から抑制」

 久美の席は、ぼくから二つ離れている。彼女の指が、机の縁を掴む。

「関係者・久美さん。あなたの認知一貫性、再評価します」

 端末のカメラが、彼女の瞳を捉える。

 質問が投げ込まれ、彼女は答える。

 翔の好きな食べ物は? 口癖は? 仕事の癖は? 休日の過ごし方は?

 彼女は答える。

 ぼくは、聞く。

 ぼく自身も、初めて知る小さな癖が混ざっている。

 監査官が、顎を引く。

「数値は保留域」

 男が、淡々と補足する。

「抑制の条件を満たします」


 ガラス越しの外で、夕陽がビルの縁に引っかかっている。

 監査官は、ぼくを見る。

「あなたは、この社会で“佐藤亮”として生きられます。何も困りません。給与も、保険も、生活も、現状維持」

「相沢翔は?」

「影として保管。必要なら、いつでも復元できる——理論上は」

 理論上。

 ぼくは笑ってしまい、すぐにやめた。笑うべき音ではなかった。

「最後に、言い残すことは」

 監査官の声は、慈悲のふりをして平坦だ。


 ぼくは、ゆっくり首を振った。

 言い残すという動詞は、終わりを前提にしている。終わりが確定していないなら、ふさわしくない。

 代わりに、横を見る。

 久美。

 彼女は、掌の中の名刺を強く握り、爪の跡で白い紙を歪めている。

 唇が動く。音にはならない。

 ぼくは、名を呼んだ。

「久美」

 監査官の視線が、わずかに揺れた。

 久美は、ゆっくりと頷く。瞳が、濡れて、それでも崩れない。


 端末の画面が白く光る。

 最終判定の文字。

 男が、キーを押す。

 世界が、わずかに、静かになる。

 耳の奥で、海のような低い音が膨らみ、遠ざかる。

 ぼくは、自分の名を心の中で繰り返す。

 相沢翔。

 相沢翔。

 相沢——

 光が、閉じた。



 目を開けると、会議室は同じように四角く、同じように白かった。

 監査官は、机上を整え、男は短く会釈し、形式通りの言葉を置く。

「手続きは完了しました。今後は“佐藤亮”として——」

 声は、滑り、ぼくの耳の表面で弾かれて落ちた。

 ぼくは立ち上がり、ドアへ向かう。

 視界の端で、久美が小さく立ち上がる気配。

 呼ばれない。

 彼女は、呼ばない。

 振り返る。

 彼女は、唇を噛んで、笑った。

 手のひらを広げる。そこに、インクの滲んだ文字。

 ——相沢翔。

 彼女は声にしない。声にしないで、読む。

 読みながら、涙をこぼす。

 監視は、声を拾う。読みは、拾えない。

 ぼくは頷き、ドアを開けた。



 夕方、川沿いの堤防。

 朝の刻字は、雨で少し丸くなっていたが、確かに読める。

 指でなぞる。

 硬い。冷たい。ある。

 ポケットから、活版の名刺を一枚取り出し、刻んだ字の溝に差し込む。

 紙は濡れ、やがて朽ちるだろう。けれど、溝は残る。

 風が吹く。湿った風。

 スマホが震え、画面には佐藤亮の名。

 アプリの通知も、メールも、銀行の残高も、すべてがその名に従って並び替えられている。

 世界の整合性は、美しい。不気味なほど。


「——佐藤さん」

 背後で声。

 振り返ると、見知らぬ若い男が立っていた。

 同じ部署の新人かもしれない。顔に見覚えはあるが、名前を思い出せない。

 彼はぎこちなく笑い、頭を下げた。

「すみません。これ、落としました?」

 彼の手の中に、名刺。

 相沢翔。

 ぼくは、受け取るべきタイミングを一瞬だけ外した。

 男は続ける。

「変な名刺ですよね、名前だけで。誰なんだろう……あいざわしょう?」

 発音は拙いが、その音が空気を震わせた瞬間、胸の奥で、何かがまだ燃えているのを感じた。

 ぼくは笑いそうになり、やめた。

「ありがとう。知り合いのだ」

「へえ。読み方、合ってます?」

「……合ってる」

 男は満足げに頷き、走り去った。

 その背中が遠ざかるのを見送り、ぼくは名刺をもう一度、刻みの溝に差した。


 少し離れた場所で、足音。

 久美が立っていた。

 ゆっくり歩き、ぼくの隣に並ぶ。

 彼女は口を開かない。

 ぼくも、開かない。

 ふたりで、刻まれた文字を見る。

 彼女は腕をまくり、滲んだ文字をもう一度、ペンでなぞった。

 ——相沢翔。

 その字は、震えて、しかし太くなった。


 やがて、彼女は小さく息を吸い、ほんの囁きより少し強く、口を開いた。

「——ただ一人、君だけが」

 続きは、言わなかった。

 言葉はそこで止まり、残りは風が引き受けた。

 ぼくらは、堤防の冷たい縁に腰をかけ、雨上がりの水面に街の灯が滲むのを見ていた。

 システムは、今日も世界の端から端まで、抜け目なく一貫させる。

 それでも、生活の隙間に、指の腹に、紙の歪みに、人の記憶は置ける。

 ただ一人で十分な夜が、確かにある。


 名刺は、やがて朽ちる。

 刻みは、やがて苔むす。

 彼女の皮膚の文字も、いつか薄れる。

 それでも、いつか、別の誰かが、この堤防の溝に指を触れ、声に出すだろう。

 あいざわしょう。

 そのとき、名前は、また少し、世界に戻る。


 風が、やんだ。

 遠くで、最後の更新を告げるアナウンスが微かに流れ、すぐに消えた。

 ぼくらは立ち上がり、濡れた石の上に足跡を残して歩き出した。

 世界は、整合されている。

 けれど、人は、まだ、覚える。



 ——ただ一人、君だけが。

読了ありがとうございました。

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