第一話:燻る武人と鋼牙の獣
第一話:燻る武人と鋼牙の獣
夕陽が、血のように空を塗りたくっていた。
董卓による焦土作戦の傷跡も生々しい洛陽の街並みが、遠く地平線に沈み、広大な中原の平原を茜色に染め上げる。
乾いた風が、戦乱で荒れた墓標のように点在する枯れ草を揺らし、陳統の汚れた頬を無感情に撫でていく。
その風に乗って運ばれてくるのは、鉄錆と腐臭の混じった土の匂い。
そして、今まさに彼の命を狙う、飢えた獣の荒く、湿った息遣いだ。
「……これが、今日の最後の仕事か」
陳統は、低く、ほとんど吐息に近い声で呟いた。
この終わりなき乱世で、名もなき遊侠として糊口をしのぐための、今日の、そしておそらくは明日も、明後日も変わらぬであろう、ありふれた、そして血生臭い稼ぎ。
彼の視線の先、十数歩の間合いを置いて対峙しているのは、今回の依頼の最後の標的。
その名を「鋼牙猪」という。
黄巾の残党が妖術を用いてその凶暴性を増幅させ、使役することもあると噂される猪系の妖獣の中でも、特に厄介な部類に属する。
その名の通り、鋼をも噛み砕くという牙は、並の鉄盾や粗末な鎧ならば紙のように容易く貫通し、全身を覆う針山のような赤黒く硬質な体毛は、生半可な剣撃を火花と共に弾き返す。
そして何より、その小山のような巨体から繰り出される、一度狙いを定めたら決して軌道を変えぬ直線的な突進は、粗末な土壁や村の城門にすら亀裂を入れ、時には粉砕すると噂されるほどの破壊力を持つ。
駆け出しの、武をもって生計を立てる者であれば、三人、いや五人がかりでも命がけの、あるいは一方的に蹂躙されるだけの相手だろう。
だが、三十路半ばを過ぎ、この血と泥に塗れた稼業で二十年近く飯を食ってきた陳統にとっては、見慣れた、そして少々うんざりするほどに知り尽くした仕事相手でしかなかった。
鋼牙猪が、血走った小さな眼で陳統を射抜くように睨みつけ、喉の奥から地鳴りのような低い唸り声を漏らしている。
太い蹄が苛立たしげに地面を神経質に掻き、その度に土埃が舞い上がる。
全身の、岩のように隆起した筋肉が、赤黒い獣皮の下で波打つように収縮しているのが、夕陽の最後の残照の中でも見て取れた。
その前足の踏み込みの深さ、怒張した肩の筋肉の張り具合、そして僅かに低く、獲物を見定めるように構えた頭の角度から、陳統は、奴が次の一瞬、全ての体重と憎悪を込めた必殺の突進を繰り出すことを、寸分の狂いもなく正確に予測していた。
一瞬の油断、ほんの一呼吸の判断の遅れが、即座に彼の惨めな死に繋がる相手だ。
斡旋所から受けた依頼の内容は「猪系の妖獣肉、質の良いものを三斤」。
遊侠たちが集う、街の薄暗い一角に設けられた情報交換と仕事の仲介を兼ねた場所で持ち込まれる仕事の中でも、もっともありふれた、そして報酬も雀の涙ほどしかない類のものだ。
だが、その討伐対象がこの鋼牙猪となると、大抵の遊侠は顔を青くして尻込みするか、あるいは「割に合わぬ」と鼻であしらって断る。
陳統がこの依頼を、他の誰もが手を付けたがらないような破格の安値で引き受けたのは、長年の経験に裏打ちされた、この種の獣に対する絶対的な自信と技術があるから、そして何よりも……今の彼には、こういった汚れ仕事しか、まともに回ってこないからだ。
実入りは少ないが、確実にこなせる仕事。それが今の彼の現実だった。
刹那、空気が爆ぜた。
予測通り、鋼牙猪が大地を蹴ったのだ。やはり来たか。
土煙をもうもうと巻き上げながら、その小山のような巨躯は、まるで暴走する攻城兵器のように弾丸と化して一直線に陳統へと突撃してくる。
ドッドッドッ、という地響きが、足の裏から内臓へと直接突き上げるように伝わり、周囲の枯れ草が、まるで見えない巨人に薙ぎ払われたかのように、衝撃波となってなぎ倒され、宙を舞う。
その凄まじい威圧感と、獲物を確実に屠らんとする、剥き出しの原始的な殺気だけで、経験の浅い者ならば思考が停止し、恐怖に金縛りになったまま、為す術もなくその鋭利な牙の餌食となるだろう。
陳統は動かない。
ただ、静かに、その小山のような巨躯が、恐るべき速度で迫りくる軌道、その突進の際の僅かな重心のブレ、そして牙の先端が狙う僅かなズレを、まるで時間が止まったかのように冷静に見極める。
彼の脳裏では、長年の経験と、幾多の死線を紙一重で潜り抜ける中で異常なまでに研ぎ澄まされた戦闘感覚によって、鋼牙猪の次の瞬間、コンマ数秒先の動き、そしてそれに対する最適な回避と、最小限のリスクで最大限の効果を生む反撃のパターンが、いくつも瞬時にシミュレートされ、その中から最も確実なものが選択されていた。
真正面から力で受け止めるなど、愚の骨頂。自殺行為に等しい。
それは、この陳統が誰よりも、そして何よりもよく理解している。
彼の魂に、まるで呪いのように刻まれた天命盤――その持ち主の運命の設計図であり、公的な身分証明の役割も果たすという、手のひらサイズの古びた銅鏡――に記された、彼の武才の限界。それは、この凶暴な妖獣の持つ、理不尽なまでに圧倒的な膂力には到底太刀打ちできず、下手に受け止めようとすれば、愛用の剣ごと腕を粉砕され、鋭い牙に胴を貫かれて即死だろうという、冷酷な現実を彼に突きつけていた。
だからこそ、彼は常に最小限の動きで、相手の力を利用し、受け流し、そしてその一瞬の隙を突くという、いわば「柔よく剛を制す」戦い方を信条としてきた。
それは、天賦の才に恵まれなかった弱者が、この過酷極まりない乱世で、化け物じみた強者どもと渡り合い、生き残るために、彼が血反吐を吐くような地道な、そして誰にも理解されない修練の果てに編み出した、唯一無二の生存術であり、今の彼に残された、最後の矜持でもあった。
突進の牙が、陳統の胸元を捉え、その獣特有の、血と泥と腐臭の混じった強烈な呼気が彼の顔に生暖かくかかる、その寸前。
彼は右足を軸にして体を僅かに、しかし絶妙な角度で半身にずらし、同時に左足の爪先で、まるで地面に杭を打ち込むかのように大地を強く蹴った。
まるで激流の中を滑るように進む老獪な岩が、荒れ狂う水の力を巧みに受け流すように、鋼牙猪の巨体を、あえて刃を立てることなく、長年使い込んだ愛剣の腹の部分で、しなやかに、そして確実にとらえる。
そして、その凄まじい衝撃エネルギーを、寸分の狂いもなく計算通りに、斜め後方へと、まるで水が流れるように巧みに逃がす。
キィィィンッ!!
耳をつんざくような甲高い金属音と、肉と骨が軋み、砕けるかのような鈍い音が混じり合い、夜空に鮮烈なオレンジ色の火花が、まるで鍛冶場のそれのように美しく、しかし危険に舞った。
陳統の鍛え上げられた鋼の剣と、鋼牙猪の名の由来たる、文字通り鋼鉄のような硬度を持つ牙が、激しく、そして火花を散らしながら擦れ合ったのだ。
ズシリ、と腕に、骨が砕けたのではないかと錯覚するほどの、重く、そして痺れるような衝撃が走る。
全身の関節が、まるで悲鳴を上げているかのように軋み、内臓が激しく揺さぶられるのを感じる。
天命盤に示される、どうしようもない武運の乏しさが、容赦なく、そして確実に彼の肉体に響いてくる。
もし昔の仲間――例えば、あの天賦の才に恵まれ、人間離れした規格外の武力を誇った、太陽のような男ならば、今の一撃を、まるで子供の攻撃でもあしらうかのように力任せに弾き返し、逆に相手の体勢を大きく崩して、そこから畳み掛けるようにして絶好の反撃の好機を生み出せただろう。
だが、今の陳統に、そんな芸当は逆立ちしたってできやしない。天命は、彼にそのような圧倒的な力を与えはしなかったのだ。
彼にできるのは、こうして老獪に、そして極めて緻密に相手の攻撃の威力とベクトルを読み切り、その力を殺し、受け流し、そして冷静に、虎視眈々と次の、ほんの僅かな、しかし致命的となりうる隙を窺うことだけだ。
陳統の横を、強烈な風圧と舞い上がる土埃を残して猛スピードで通り過ぎた鋼牙猪は、その馬鹿げた突進の勢いを殺しきれずに数メートル先で大きくバランスを崩しながらも、強引に、そして不格好に急停止し、周囲に土煙をもうもうと派手に上げる。
即座に、しかしどこかぎこちなく身を翻し、血走った赤い瞳をさらに血走らせて、憎悪と殺意を込めて陳統を睨みつけた。
その知性の欠片も見受けられない、ただ原始的な獣の瞳には、確実に仕留めたはずの獲物を逃したことに対する、単純で、それ故に厄介な苛立ちと、制御不能なまでに増幅された凶暴性が、剥き出しになっていた。
奴は、すぐには二度目の、あの馬鹿正直な直線的な突進を仕掛けてこない。
一度目の攻防で、目の前の人間が、ただ棒立ちで喰われるだけの、か弱い餌ではないと、その原始的な、しかし鋭い獣の本能が、ようやく危険信号を発したらしい。
代わりに、その鋼の牙で、まるで地面に八つ当たりでもするかのように、深く、そして激しく地面を抉り始めた。
次の瞬間、土塊と、親指の頭ほどの大きさで、不規則な形をした鋭利な石礫が、まるで投石器から放たれたかのような凄まじい速度と、予測不可能な不規則な回転を伴って、陳統めがけて雨霰と蹴り飛ばされてきた。
原始的ではあるが、広範囲を無差別に制圧し、回避を困難にさせる散弾のような効果を持つ、実に厄介極まりない攻撃だ。
夕闇で視界も悪く、一つ一つの石礫の威力も、決して無視できるものではない。
陳統は、その獣の短絡的で、しかしそれ故に次の行動が予測しづらい攻撃を、口の端に僅かな、しかし相手を完全に見下したような、侮蔑を込めた冷たい笑みを浮かべて見据える。
砂塵と共に見境なく、まるで嵐のように飛来する無数の石礫、その一つ一つの不規則な軌道、速度、回転、そして数瞬後の着弾予測地点を、彼の研ぎ澄まされた動体視力と、長年の戦闘経験が、まるでスローモーション映像でも見るかのように瞬時に見切り、最小限の、しかし最も効率的な身のこなしで的確に回避していく。
ヒュンッ、ヒュンッ、と風を切る鋭い音。ピシッ、と皮膚を浅く切り裂く鋭い痛み。
いくつかが彼の使い古された、しかし手入れだけは欠かさない革鎧を掠め、鈍い衝撃音を立てるが、どれも致命傷には程遠い。
二十年、この血と硝煙の匂いが、もはや体臭のように染みついた稼業で飯を食ってきたのだ。
獣の微細な筋肉の動き、攻撃の予備動作、殺気の流れ、それらは呼吸をするように、彼の肉体と魂の奥深くに、決して消えることなく染みついている。
石礫の雨が止んだ、その一瞬の、まるで嵐の目のような静寂。
陳統は、大地を強く蹴った。
静から動へ。守から攻へ。
戦いの流れが、今、劇的に反転する瞬間だ。
鋼牙猪が、陳統の気配の変化と、それまでのらりくらりとしていた動きからは想像もできないほどの急接近を瞬時に察知し、その巨獣らしからぬ、驚くべき俊敏さで、鞭のようにしなる長大な首を大きく振り、その両刃の戦斧にも似た、恐ろしく鋭利な巨大な牙を、横薙ぎに、空間ごと切り裂くかのような勢いで振りってくる。
陳統の剣の間合いの、さらに外から、回避困難な広範囲を薙ぎ払う、必殺の一閃。
その薙ぎ払いが生み出す、剃刀のような風圧だけで、周囲の枯れ草がざわめき、地面の砂埃が一斉に、まるで生き物のように舞い上がる。
だが、それすらも、この陳統の読みの内。
彼は、加速しかけた踏み込みを、その途中で、まるで時間が止まったかのようにピタリと止め、全身の筋肉と腱のバネを最大限に利用して後方へ、コンマ数秒の、常人には到底不可能な絶妙なタイミングで、音もなく跳躍する。
鋼牙猪の牙が、陳統が数瞬前にいた空間を、轟音と共に空しく切り裂き、その凄まじい風圧が、陳統の汗で額に張り付いた髪を激しく揺らす。
奴の最大の攻撃は、同時に最大の、そして取り返しのつかない隙を晒す。
完全に振り切った、バランスを崩した巨体。ほんの一瞬だけ、完全に無防備になる、頭蓋骨の継ぎ目である脳天。
必殺の好機は、ここしかない。この千載一遇の一瞬を逃せば、おそらく次はないだろう。
もはや言葉も、思考すらも不要。
着地と同時に、陳統の身体は、既に限界近くまで消耗した気力と体力を、最後の残り火を燃え上がらせるかのように振り絞り、再加速する。
もはや回避も防御も間に合わない、呆然と隙を晒す鋼牙猪の、眉間から脳天へと続く、頭蓋骨の最も薄く、そして最も脆い一点だけを、全ての神経を集中させて狙い澄ます。
彼の魂に、まるで業のように深く刻まれた天命盤が告げる、武勲は上限の五十。しかし、武運は最低の一階梯。
この絶望的なまでの非力さで、この屈強な妖獣に、たった一撃で致命傷を与えるには、急所の中の急所を、ただの一度だけ、寸分の狂いもなく、そして彼の持つ全霊を込めて、正確無比に貫くしかないのだ。
振り下ろされた陳統の剣は、まるでその一点に、見えざる運命の糸で吸い込まれるかのように、鋼牙猪の脳天――頭蓋骨の最も薄く、そして内部の柔らかな脳髄に最も近い、致命的な部分――に、深々と、そしてほとんど音もなく突き刺さった。
硬い頭蓋骨を砕き、その奥の柔らかな脳髄を貫く、鈍く、しかし確かな、そしてどこか不快な致命的な感触が、愛剣の柄を通じて、彼の両手に生々しく伝わる。
派手なエフェクトも、大袈裟な効果音も、そこには一切ない。
ただひたすらに洗練され、無駄を極限まで削ぎ落とした、必殺必中の一撃。
それが、陳統の、二十年の遊侠人生の全てだった。
断末魔の、獣の絶叫を上げる間もなく、鋼牙猪の巨体は、まるで陽炎のようにその輪郭を揺らがせたかと思うと、次の瞬間には青白い燐光のような無数の光の粒子となって、音もなく霧散していく。
その跡に残されたのは、獣のなめし革に丁寧に包まれた、まだ微かに温かい、赤黒い上質な肉の塊。
依頼の品である「上質な妖獣肉」だ。
短く、しかし深く、心の底からの安堵の息を吐き、陳統はドロップアイテム――討伐によって得られたささやかな戦利品――を拾い上げ、長年使い込んで年季の入った、しかし手入れの行き届いた革袋に手際よく放り込む。
依頼は、これで達成された。
身体のあちこちの関節が、まるで錆びついた機械のように軋み、打撲や切り傷から鋭い痛みが走る。
しかし、それ以上に、心の奥底に、まるで鉛のように重く巣食う虚無感が、彼の全身を、そして魂までもを重く支配していた。
懐から、手のひらサイズの古びた銅鏡を取り出す。
彼の全てを規定し、そして彼の無限の可能性を、まるで鉄の檻のように縛り付ける呪具とも言える、天命盤。
そこに淡く、そしてどこか冷ややかに発光して浮かび上がる文字を、陳統はいつものように、深い、そして救いようのない自嘲の念を込めて眺めた。
彼の名は『陳統』。
その隣に記されているのは、『武勲:五十(上限)』という、彼のこれまでの血の滲むような、そして報われることの少なかった努力を示す数値。
しかし、その下に続く『武運:一階梯』という、あまりにも冷酷で、そして絶対的な文字が、彼の全ての努力を、そして彼の存在そのものを、まるで嘲笑うかのように、厳然としてそこに在った。
武勲はこの世界での上限である五十に達している。
長年、危険な依頼を選り好みすることなくこなし、時には命を落とし掛けながらも、文字通り血と汗と涙を流して積み重ねてきた、誰にも文句を言わせない偽りのない結果だ。
だが、問題はその下の「武運」。
最低ランクである「一階梯」。
これは、彼がどれだけ経験を積み、武勲を上げようとも、その基本的な能力の伸びが、他の天賦の才に恵まれた者たちとは、もはや比較することすら馬鹿馬鹿しいほど微々たるものであることを、残酷なまでに、そして明確に示していた。
他の仲間たちが、武勲が一つ上がるたびに、まるで新たな才能が開花したかのように目覚ましい成長を遂げ、強力な新たな技や、人知を超えた力を次々と身につけていくのを、彼は羨望と嫉妬、そしてどうしようもない深い絶望と共に、ただ黙って、唇を噛みしめながら横目で見ているしかなかったのだ。
この、たった一つの「一」という数字が、彼の武才の、そして彼の運命の、絶望的なまでの乏しさを、これでもかというほどに示しているのは、嫌というほど明らかだった。
この銅鏡を、何度叩き割りたくなったことか。
何度、このあまりにも理不尽な天命を、そしてそれを定めたであろう、顔も見えぬ何者かを呪ったことか。
だが、そんなことをしたところで、天命盤に刻まれた、まるで鉄の枷のような運命が変わるわけではないことを、彼は二十年という、あまりにも長く、そしてあまりにも無力だった歳月の中で、骨身に染みて、痛いほど知っていた。
超一流には、なれなかった。
いや、なれるはずもなかったのだ、この呪われた天命では。
かつて、同じ夢を抱き、同じ未来を信じた、志を同じくする仲間たちと共に、天下最強の遊侠団となり、この混沌とした乱世にその名を轟かせんと、熱く、そして純粋に誓い合った、あの眩しいほどに輝いていた夢。
しかし、埋めがたい才能の差、天命盤が冷酷に示すステータスという、あまりにも冷酷で、そして絶対的な現実の壁の前に、彼はその輝かしい夢に、そして何よりも愛すべき仲間たちに、静かに、そして断腸の思いで背を向け、何も告げずに黙って彼らの下を去ったのだ。
斡旋所に戻り、馴染みの受付の娘に、まだ微かに血の匂いが残る妖獣肉と、依頼達成の証である、羊皮紙に書かれた納品書を渡す。
彼女は、その大きな、どこまでも澄んだ瞳に心底安堵したような、そしてどこか陳統の無事を、まるで自分のことのように心から喜ぶような純粋な笑みを浮かべ、「陳統様、今回もご無事でしたのね。本当に、あなたはどんな困難な依頼も、決して諦めることなく、必ずやり遂げてくださる。まるで、古の物語に語られる、民を救う英雄のようですわ」と、その細く美しい、しかしどこか影のある指を巧みに動かし、手話で伝えてきた。
彼女は、数年前の戦乱で心に深い傷を負い、それ以来、声を失っていた。
陳統は、「……それが、俺の仕事だからな。それ以外に、俺にできることなど、何もない」と、心の中で力なく呟き、無理に作った、どこか引き攣ったような愛想笑いを浮かべて応える。
その汚れを知らない純粋な優しさが、その一点の曇りもない揺るぎない信頼が、逆に自らのどうしようもない限界と、拭い去ることのできない深い無力感を、まるで鋭い刃のように残酷なまでに突きつけられているようで、彼の胸は、言葉にできないほどの、冷たい虚しさに締め付けられた。
壮年に差し掛かり、心の奥底には決して消えることのない深い燻りを抱えたまま、彼は夕暮れの喧騒の中へと一人、まるでこの世に存在しない、忘れ去られた亡霊のように、とぼとぼと力なく歩き出す。
今夜の酒は、きっといつも以上に、そして救いようがないほどに苦い味がするだろう。
彼の、色褪せて、どこへ向かう当てもない人生そのもののように。