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悲しいほどに純粋な者たちや美しいほどに愚かな者たち 1/2

 四〇年後に地上で死ぬ空中勤務者

 俺は今、倒れたな。

 平衡感覚を無くして、ふっと体の力が抜けた。立っていられなくなったのは、分かった。目の前が暗くなった。そして、倒れた。

 左の頬を濡らしているのは、俺の血だろうか。生暖かい。べたつく感じだ。血の臭い。

 戦場でもこれ程間近で、血の臭いを嗅いだことは無かった。臭い血だ。血の下の床は、頬に冷たい。

 倒れるとき、手で体をかばっただろうか。多分できなかった。頭を床にぶつけた音を、聞いた気がする。頭にもどこにもほとんど痛みを感じないのは、かえって相当ひどい状態なのだろうか。

 戦場には、痛くて泣き叫ぶ奴がいた。痛さに、必死に耐えている奴もいた。痛がることさえできない奴は、直ぐ死んでいった。

 だるい。体のどこにも力が入らない。手も足も動かせない。どこも痛くはないが、息苦しい。俺は、このまま死ぬのか。

 こんなものか、俺の死に様は。こんな幕引きが似合っているか。今更考えても、だな。

 俺の人生の頂上は、九九双軽に乗っていたときか。同時に、戦争というどん底でもあったな。どん底の環境で人生の絶頂期、皮肉なのか、それとも、珍しくもないことなのか。人はどんな劣悪な環境にあっても、その中で最高の瞬間を得られるものなのかも知れない。

 あるいは、そうでも思わなければ生きていけないものでもあるか。人間の欲望には限りが無いが、特攻にやらされる前夜でもなければ、その中でも何かの楽しみを見つける、どんな些細なことにでも喜ぶものだな。

 かといって、飽くことなき欲望が醜くて、足るを知ることが美しいわけでもない。欲望が人生の原動力になる事もあるだろうし、諦めることが心の平穏、幸福の入口になる事もあるだろう。

 多分俺は、今死ぬか、明日死ぬか、よっぽど運良く病院に運ばれても、何日かで死ぬだろう。今更ジタバタしても遅いし、意味が無い。生きたいという欲望より、生きたという事実を優先しよう。


 一九八五年三月、まだ寒い新潟の早朝、永友美博(よしひろ)は、口から胃潰瘍の血を吹いて自宅台所で倒れた。赤黒い血が畳二枚ほども広がっている。永友は自らの六七年の人生を、映画を見るように思い出した。人生の忘れられない断片だけを。

 永友は一九一八年、新潟、亀代(かめしろ)村の貧農に長男として生を受けた。農閑期の出稼ぎで漁船に乗っていた父を、遭難で早くに失った。一九歳の時、母と妹と二人の弟の生活を助けるために、高等小学校しか出ていない身には軍隊に入るのが最良の選択だと気付いた。軍隊という望んで得た舞台で、彼は自らの人生の主役を演じた。


 陸軍の歩兵から始めて、一時は憲兵になろうかと試験を受けた。が、無理だった。大学出とは、とても競争にならなかった。小学校卒と大学卒の差を思い知らされた。

 自分を馬鹿とは思わなかった。ただ、スタート位置が違った。大学卒は五〇メートル先からスタートして、五〇メートルだけ走ればゴール。俺は一〇〇メートル先がゴールだ。同じ条件の競争ではなかった。

 これが、五〇〇メートル先がゴールなら競争になっただろうし、一〇〇〇メートル先なら俺が勝ったかも知れない。

 金持ちの子は馬鹿でも学校に行けば、学ぶ時間は得られる。機会が得られる。貧乏人の子は機会が得られない。かといって、完全に平等な公平な社会など有るはずがない。もしそんな競争の無い社会なら、堕落して消滅するだろう。

 人には、運の良し悪しもある。俺は五体満足で生まれ、軍隊でも生き残ってきた。まぁ、良しとする。

 憲兵はだめでも飛行機くらいは乗れるだろうと、努力した。いつまでも鉄砲を肩に担いで行軍する歩兵は、それこそ馬鹿だ。

 九九式双発軽爆撃機の操縦者になった。爆撃手、機銃手、通信手の三人の命を預かって操縦した。海軍の零戦に護衛させて、オーストラリアに爆撃に行ったこともある。

 八年軍隊にいて、最後は曹長にまでなった。士官にはなれなかったが、下士官の最高位だ。

 しかしそれが、飛行機が何だったのか。曹長が何だったのか。戦争が何だったのか。俺の青春は何だったのか。俺の人生は、戦争で死ななかっただけ、指の一本さえ無くさなかっただけましなのか。

 だが、何も誇るものが無いなら、食って死ぬだけの人生だ。飛行機でも階級でも、人に誇ることは恥であっても、密かに自らに誇ることくらいは許されるとも思う。

 俺はどうして結婚しなかったのか。どうして子供を残さなかったのか。妹には息子がひとり、上の弟には息子が三人、下の弟には娘がふたり。俺にはひとりもいない。

 絶望だ。絶望があった。特攻にやられず終戦になって、その時はホッとした。その後、徐々に絶望した。軍、政府、女、社会、文化、理性、きっと自分への絶望もあった、それらが俺を結婚から遠ざけた様な気がする。

 家族を持たなかったからというわけでもないが、こうやって血を吐いてひとりで死んでいくのが似合っていると言えるか。

 まぁ、人生など、こんなものだ。戦争で死んだ奴は一杯いる。特攻にやらされた奴もいる。あいつらを特攻にやった戦隊長は生き残った。それはそうだ、天皇さえ生き残っているのだから。

 六七年生きた。父親は三六で死んだ。母親は七七で死んだ。母親ほどは生きることはできなかったが、父親よりは大分長く生きた。人生の価値はその時間の長短では計れないが、赤ん坊で死んでは生きたことにならないし、二十歳かそこいらで戦争で殺されるのは辛い。そういう意味では、俺は生きた、な。充分だろう。

 戦争の時代だった。ろくな教育を受けていないから、戦争の是非、善悪を考える能力が無かった。この国のどこにも、今でさえ、ろくな教育は存在しないし、ものを考える奴は一握りだろうが。

 ともかく、戦争と軍隊に命を懸けた。くだらないものでも、命を懸けるものがあった。命を懸けて生きて、運良く生き残った。そして今日まで、老いさらばえることまでできた。

 あの世があるとしても、父親や母親に会いたいとは思わない。戦友たちに会いたいとも思わない。戦隊長にひとこと言ってやろうかとも思わない。俺が爆撃で殺した奴に詫びたいとも思わない。あの世でも、俺はひとりで良い。第一、会えるはずがない。そうだ、死んだら、全て終わりだ。あの世は無い。

 倒れてから一分経ったのか、二分経ったのか、時間の感覚が分からない。どうせ死ぬのだから、分かっても分からなくても良いが、もうしばらく過去を思い出して楽しめるのか。それとも、もう俺は死んでいるのか。そんなわけはないな。


 撃つしかないのか

 小林一等兵は、吐き気を抱えていた。

(撃つしかないのか。撃たなければだめか。撃ったら、あいつは死んでしまう。弾は外れるかも知れないが、中るかも知れない。中ったら、あいつはかすり傷か重傷か、下手をすると即死するかも知れない。俺は人を殺してしまうのか。人殺しになってしまうのか。戦争とはいえ、俺は人を殺すのか。

 人を殺した後は、何を考えるのだろう。後悔するのか、意外に何ともないのか。最初は苦しんでも、次からだんだん楽になっていくのか。勲章を貰うために、もっと殺したいと思うようになるのか。

 そんなはずはない。取り返しのつかないことだ。

 だが、敵を殺さなければ、俺の方が敵に殺されてしまう。それだけは絶対に嫌だ。殺されたくない。俺は死にたくない。戦争などで殺されたくない。人のために、死にたくない。人に言われて、死にたくない。天皇のためになんか、死にたくない。日本の国が無くなっても、俺は生きていたい。

 まだ、結婚もしていない。老人になるまで生きていたい。病気で死ぬなら、戦争で殺されるよりあきらめが付く。敵に殺されるより、国に殺されるより、病気で死ぬ方がましだ。

 俺は人間だ。働き蟻や兵隊蜂じゃない。貧乏で飯が食えなかったから、軍隊に入るしかなかった。それが戦地に送られ、あげくに命まで取られるのか。貧乏だから、死ぬしかないのか)

 小林一等兵がかまえる三八式歩兵銃の照門の先に照星があり、その一五〇メートル先に敵がいる。右手の人差し指は、引き金に掛かっている。

(敵は俺に気づいていない。狙いを付けたまま息を止めて、この人差し指をゆっくり絞るように、握るように縮めれば、撃鉄が落ちて一瞬後にきっと弾は敵に中る。

 外れたら、敵は俺に気づいて撃ち返してくるだろう。その弾が中ったら、俺は死んでしまうか、手足を無くしてしまうだろう。そしたら、一生片輪で生きていくことになる。

 撃たれて死にたくはない。死なずに済んでも弾が中ったら、肉が千切れて、骨が砕けて、痛いだろう。それが嫌なら、敵を殺すしかないのか。そうやって戦争は続いて行くのか。

 殺したくもないし、殺されたくもないが、それでも戦争は続くのか。殺すか、殺されるかしなければ、俺の戦争は終わらないのか。

 俺が死んだ後は、戦争が続こうが終わろうがどうでも良い。俺が生きているうちに、誰も殺さないうちに、戦争が終わって欲しかった)

 帝国陸軍一等兵小林和夫は、実戦での最初の一弾を撃てずにいた。小林一等兵の銃口の先にあるのは板に描いた的ではなく、敵兵といえども生きている人間だ。

 戦争とは言え、敵とは言え、人が人を殺すことは、そう簡単にはできない。殺してしまったら、人殺しになってしまったら、別の人間になるような、後戻りできないような、最低の人間になるような、自分でなくなるような、親に合わせる顔がなくなるような、いろいろな怖さを感じていた。

 出征前はみんなから、立派に戦って来いと言われ、彼もその気だった。その時は、人を殺すことが想像できなかった。入営して訓練を受けているときも、人を殺すことがどういうことか、具体的に考えることは無かった。ただ、訓練がつらかった。

 今、自分の意志で、指を一本動かすだけで人を殺せる瞬間になって、怖くなった。殺されるのも怖いが、殺すことも怖い。それが、正常な人間だろう。

 背広や将軍の軍服を着て戦争することを決めた人間は、人間を殺したことがあるのか。自分が殺されそうになったことがあるのか。殺し、殺される怖さを知っているのか。

 戦争をやると決めたら、その結果として自分には見えないところで何千、何万の人間を殺すことになるが、個人として、自分の手で、たった一人でも殺すことができるのか。鉄砲の弾が身体をかすめて、自分が殺される現実的な恐怖を感じたことがあるのか。その覚悟があって、戦争をやると決めたのか。言葉だけの覚悟ではない。自分の指一本でも切り落としてみろ。自分の娘の耳を切り落としてみろ。それをやってから、人を戦地に送れ。敵と撃ち合いをさせろ。

 小林の周囲は、銃撃の音と硝煙と味方の叫び声と土埃に満ちていた。銃撃の音は腹に響き、硝煙は鼻を刺し、味方の叫び声は小林を僅かに勇気づけ、土埃は時折視界を遮った。そして、味方の悲鳴は小林に恐怖を与え、同時に理性を取り戻させた。

(殺せと命令する人たちは、殺したことが無いか、殺すことに何ら罪の意識を、僅かな心の痛痒さえも感じない、生まれながらの殺人者であり、異常者なのだ。

 包丁を持った強盗に殺されそうになっているのなら、迷う余裕も無く反撃するかも知れない。敵わずとも、むざむざ殺されるよりはできる限り抵抗する。

 だが、今、戦闘の真っ最中とは言え、あいつは俺に気づいていない。俺の方から一方的に、何も知らない、罪も無い人間を殺すことになる。親もいるだろうし、妻子がいるかも知れない。本人にも家族にも恐ろしく残虐なことだ。

 それでも国は、天皇陛下は、人を殺せ、ひとりでも多く殺せという。俺が人殺しになる事は、そんな国に生まれてしまった俺の宿命なのか)

 小林の周りにはまた、死そのものも満ちていた。敵に撃たれて動かない者がいる。おそらく死んでいる。撃たれたところを押さえて、呻いている者もいる。助かるだろうか。手や足がもげている者もいる。多分、助からないだろう。まだ戦闘は続き、血止めもしてやれない。

 小林の心は、戦友ではある他人とそして自分自身の、死の恐怖で埋まっていた。それでもまだ、小林は引き金を引くことをためらっていた。

 兵隊の誰もが引き金を引かなければ、戦争は成立しない。しかし、敵も味方もほとんどの兵隊が、引き金を引いている。撃ち合っている。殺し合っている。

 恐怖でまともに考えられないが、迷ってばかりもいられない。撃つしかない。撃たないでいるより撃つ方が、少しは恐怖が紛れる。少しは生き残る確率も上がる。

(撃て。撃ってやれ。撃つぞ)

 小林は決心した。決心と言うより、ヤケになって思い切った。人差し指を絞った。耳を襲う轟音と同時に、目の前に硝煙がパッと開いた。しかし弾は、狙いを付けた敵に中らなかった。引き金を引きながら、銃口を上にそらしたような気がした。無意識に、人を殺したくないという本能が、あるいはなけなしの理性が、銃口を敵からそらしたようだ。銃口の先にあったのは、標的ではなく人間の命だったから。

 殺さずに済んでホッとしたような気もしたが、今度はあいつから自分が撃たれて殺されるかも知れないという恐怖が湧いてきた。

(戦争だから仕方が無い。例え戦争でなくても、殺さなければ殺される状況なら、殺してしまっても、正当防衛か緊急避難か知らないが、罪にはならないはずだ。いや、例え罪になっても、殺されるよりは生きて刑務所に入れられる方がましだ。殺人罪を課されようとも殺すしかない)

 小林も敵兵も国家に強制されて、殺し合いをやっているのだ。愚かで空しく悲しい現実の中で、しかし、本能は生き残れと言っている。

(俺は撃つ。殺して、生きる)

「毛唐、死んでくれ」

 小林はつぶやいて、二弾目を発射した。狙いを外さないように、銃口を上げないように意識した。が、その瞬間だけ、目は瞑っていた。

 照星の向こうで、敵がピクッと一瞬震えて崩れた。これが俗に言う手応えというものか。そんな何かを感じた。

(きっと死んだ。俺は初めて人を殺した。とうとう殺してしまった。あいつには妻がいたかも知れない。子供もいたかも知れない。あいつの人生だけでなく、あいつの家族にとってかけがえのない人を、奪った。

 これから俺はあと何人殺すのか。何人殺せば戦争が終わるのか。それまで俺は生きていられるのか)

 しかし、人を殺した恐怖と自分が殺される恐怖から少しでも逃れようと、一瞬後には直ぐに次の敵を探した。

 砲弾が遠くではじける低い音と小銃弾が周囲を掠める高い音が、ひっきりなしに耳を打つ。それらが、戦場にいる事を小林に思い知らせ、いつまでも後悔などをさせてはおかない。次の敵を撃ち殺すのだ。生き残るために。

 国という、訳の分からないもののためなどでは無い。ましてや天皇という、赤の他人のためでも無い。自分が生き残るためだ。あえて言うなら、父母兄弟のためだ。

 銃の遊底を起こして引き、押し戻して下げる。すると空薬莢が排出され、次弾が薬室に送り込まれる。狙いを付ける。引き金を絞る。耳元で爆発する。五発で空になり、五発込めて繰り返す。

 中ったのか外れたのか、分からない。中った方が良いのか外れた方が良いのかも、分からない。中れば、人殺しだ。外れれば、自分が殺される。

 とにかく撃った。くそったれ、アメ公、くたばれ、馬鹿野郎、死んでたまるか、などと叫びなら、走り、匍匐前進し、穴に飛び込み、物陰に隠れて撃った。叫んだり走ったり撃っている瞬間だけ、死の恐怖を僅かに薄めることができた。


 帝国陸軍一等兵小林和夫は福島県会津若松出身。農家の三男で、尋常小学校卒。

 どうせいつか徴兵されるなら、いや、それよりも腹一杯飯が食えるなら、と一七歳で軍隊に入った。稲作農家でありながら、自分で作った白米を腹一杯食えない。それが天皇陛下の赤子、現人神(あらひとがみ)の子の現実だ。

 訓練は厳しかった。言葉を覚えることから始まった。家にはラジオも無く、読書の習慣もない小林は、標準語というものを知らなかった。だから話すときの訛りは、直しようがなかった。入営当初は聞いても分からない言葉も多く、逆に自分の言葉を理解して貰えない事もしょっちゅうだった。

 軍隊は出身地別に隊が構成されていても、実戦では別の隊に補充されたり、補充兵が来たり、出身地の違う隊同士がさらに大きな隊を構成したりもする。その時言葉が通じなくては、軍隊としての効率が著しく低下する。戦闘時の命令伝達や情報交換が不充分では、徒に損害が増える。兵隊は最初に、標準語を覚えなくてはならない。

 次に、軍隊式の言葉を覚えなくてはならない。入ります、帰ります、自分は、上官殿、であります、などがある。

 軍隊の階級名を覚え、階級章を覚え、軍人勅諭を覚え、銃の分解、清掃、組み立てを覚え、毛布のたたみ方を覚え、ゲートルの巻き方を覚えなくてはならなかった。行軍や射撃訓練の前に、山ほど覚えることがあった。覚えられないと、班長に殴られた。

 訓練はつらかった。兵隊だから体を鍛えるのは当然だが、理不尽な制裁があった。納得できなくても抗議は許されず、殴り倒されても直ぐに立ち上がって、気を付けの姿勢を取らなければならない。さもないと、今度は蹴られる。ゲンコツではなく、革のスリッパで殴られることもあった。

 装備を汚したり壊したりすると、天皇陛下からの預かり物である装備をなんだと思うのか、と殴られた。軍隊では、人間より銃の部品一個の方が大切なのだ。

 差別もあった。天皇を神とし、それ以外の日本人をその赤子とする、日本人同士での差別と、志那や朝鮮や全てのアジアを劣った国とする、外国人に対する差別だ。

 軍隊には論理や知性、理念は無いが、愚かさと暴力、矛盾は絶望的に有る。小林一等兵は、そんな環境での訓練をなんとか耐えた。そして戦線へ送られた。

 小林は、元々は気の弱い男で、戦争で人を殺すことなど射撃訓練中でも想像さえしなかった。それが、今、敵を撃ち殺した。あの理不尽な訓練の成果なのか。人を、単なる人殺しの機械に変えるために、あの訓練が必要だったのか。

 小林には、例え殺す権利は無くとも、生き残る権利は有る。だったら、生き残るために殺すことは、権利の行使として許されるのだろうか。


 走っているうちに右足の靴が脱げた。長靴と違い、短靴はヒモが解ければ脱げることもある。命を懸けるには貧しい装備だが、天皇からの預かり物だ。かといって、戦闘中に靴を探すことはできない。もしこの戦闘に生き残ったら、またビンタか、と一瞬思った。自分の命よりも支給された靴を心配するのが、帝国陸軍一等兵だった。

 敵の機関銃が咆吼している。銃口が光った一瞬後に発射音が聞こえ、それとほぼ同時に着弾の証拠に周りの土が跳ね上がる。目をつぶって、頭を下げる。

 喉がからからだ。水を飲みたい。水筒は携帯しているが、飲む暇は無い。

 歩兵銃はボルトアクションだ。一発ごとに空薬莢を排出し、次弾を装填する操作が必要だ。闇雲に撃っても、機関銃とボルトアクションでは勝負にならない。機関銃が自分以外を狙っているときに、できるだけ精密な狙いを付けて撃つことだ。恐怖の中のほんの少しの理性で、小林はそこに気づいた。

 機関銃が沈黙した直後に敵を観察し、弾帯の装填時や排莢不良を起こしているときに、ゆっくり狙えと自分に言い聞かせて、敵兵の胸に狙いを付けて、撃った。結果を確かめる余裕は無い。素早く遊底を操作して、次弾も同じように意識的にゆっくりと狙いを付けて、撃った。

 三発撃ったところで、弾倉が空になった。まだ、敵の機関銃は沈黙したままだ。

「やったのか」

 しかし、安心はできない。敵兵が死んだとしても、機関銃が無事なら射手が代わるだけだ。弾丸を込めて五発全弾を、機関銃を狙って撃ち尽くした。機関銃は撃ち返してこない。それなら、次の標的を探すまでだ。

 片方の靴を無くしたので、足をかばいながら走る事になる。それは危険だ。小林はできるだけ今の位置を維持することに決めて、次の殺すべき敵を探した。

 胸を棍棒で叩かれた。そう感じた。息ができない。空気が吸えない。胸が壊れたと思った。

(撃たれたのか。弾が中ったのか。死ぬのか。やっぱり俺は死ぬのか)

 硝煙と土埃の向こうに、青空が見える。

(俺は撃たれて、仰向けに倒れたのか。だから、青い空が見えても息ができないのか。

 どうやったら、生き残れるのか。どうやったら、会津に帰れるのか。どうやったら、時間を戻せるのか。軍隊に入らなければ良かった。

 息ができない。

 どうせ死ぬなら、敵を撃たなければ良かった。人を殺さなければ良かった。

 誰が戦争を始めたのか。毛唐が悪いのか、天皇が悪いのか。

 どうして、俺は死ななければならないのか。苦しい。痛い。空気が吸えない。

 母ちゃん、苦しい。人殺しの罰が当たったんだな。苦しい。

 父ちゃんと母ちゃんに、人に迷惑を掛けるなと言われて育てられたのに、人を殺してしまった。

 息ができない、母ちゃん、助けてくれ)

 小林は全身を二、三度痙攣させて、二度と動かなくなった。指一本も動かず、まばたきもせず、呼吸もしなくなった。永遠に。故郷の会津若松から遠く離れた沖縄で。

 一七歳で、国家に殺された。アメリカという国家か、日本という国家か、あるいはその両方に殺された。

 たったひとりの兵隊が、たったひとりの敵兵が死んだことは、両方の国家にとって蚊に刺されたほどのこともなかった。自由のために、正義のために、国家のために、天皇のために、大東亜共栄のために、資源のために、金儲けのために戦争をしているのだから、多少の崇高な犠牲はやむを得ないのだ。必要経費であり、想定内なのだ。

 この国では、天皇のために、と言う名目で兵隊はいくらでも集められる。かの国では、自由と正義のために、というスローガンで兵隊はいくらでも志願する。

 天皇は如何程の者なのか。誰の自由と正義なのか。天皇や自由や正義は、人に人を殺させ、人が死ぬほどのものなのか。そうしなければ手に入らず、維持できないものなのか。

 国家のメンツのため、国家の利益のため、敵をやっつけろという国民感情のため、戦争で儲ける財閥のために、愚かな政治家のために、小林は一七歳の命を奪われた。

 そして小林は、靖国神社で神として祀られる。望んでも望まなくても。

 だがきっと、小林は靖国ではなく会津若松に、父母の元に帰るだろう。死んだあとの自由までは、天皇でも奪えないだろうから。

 小林の両親には、息子をお国に捧げたとして、名誉が与えられる。その名誉は、戦争が終わった時、世間的には無価値になるが、今でさえ、両親には無価値である。

 父と母は、息子を失った哀しみを隠して生きて行く。息子を戦争で殺しただけでは飽き足らず、親に、息子を失った哀しみを表現することさえ許さない国家だから。


 死ぬしかないのか

 六七(ろくなな)重爆の星形一八気筒、二、〇〇〇馬力発動機は、二機とも調子良く爆音を響かせている。全ての計器は正常範囲内を示している。補助翼、昇降舵、方向舵の動きにも全く異常はみられない。きっと、爆弾が飛行中に外れ落ちる事も無いだろう。

(いよいよ、六七と五〇〇キロ爆弾二発を道連れに地獄行きだ)

 帝国陸軍航空隊軍曹高旨征二は、覚悟を決めた。いや、これから何度も、飛行中も、敵目標を見つけたときも、目標に向かって急降下するときも、衝突のその瞬間まで、何度も覚悟を決めるのだろう。

 彼はこれから、死にに行くのだ。自らの意志で自殺するのでは無い。国家の意思に従って、死ななければならないのだ。形式上は志願となっている。実態は、他に選択の余地がないのだ。

 志願しなければ、臆病者、卑怯者、非国民、日本男子の面汚し、陸軍の恥などと最大級の罵倒がぶつけられる。加えて、親も兄弟も親戚も不名誉な誹りを受けるだろう。人の命の前に、志願だ、強制だ、と言葉をもてあそんでも意味が無い。

 上官は美しい言葉で志願者を募った。おまえたちだけを行かせはしない、俺もいずれ後に続く、鬼畜米英からこの美しい国を守るためだ、天皇陛下に忠誠を尽くすのだ、潔く散って靖国で会おう、特別攻撃隊への志願は日本男子の本懐を遂げる名誉である、皇国は必ず勝つ、そして亜細亜の盟主となる、その礎になるのだ、、、。

 飛行機の操縦をやるほどの者に、そんな言葉を信じる馬鹿はいない。全ては嘘であると知っている。戦局がここまで危うくなって、今更盛り返せるはずがないことも分かっている。

 国とは何だ。国民ではないのか。国民を殺して、天皇と高級将校だけが生き残れば良いのか。

 死んでしまった後で、靖国も蜂の頭もあるものか。こんな絶望的な作戦しかできない、武器も燃料も合理的思考も無い状態で、勝てるわけがない。分かっていて、何故認めないのか。戦争には、大和魂などより小銃弾一発の方が必要だ。

 軍部は、どこまで犠牲を増やせば納得するのか。政府は、何故軍部を制御しようとしないのか。

 天皇は、何を考えているのか。自分の名において、あと何人日本人が死ねば充分なのか。あと何人アメリカ人を殺せば満足するのか。

 亜細亜の国々を侵略して、殺戮して、略奪して、なにが大東亜共栄圏だ。

 軍が配付した遺書用の参考資料を充分に参考にした美辞麗句を羅列しただけの遺書を書いた戦友もいたが、高旨は検閲に引っかからないだろうギリギリの自分の言葉で遺書を残した。

(何故俺が、無意味に死ななければならないのか)

 ついさっき覚悟を決めたつもりだが、高旨は心からの納得はできないでいる。


 フィリピンの空は、青く美しい。空の二割ほどを占めている雲は、白く美しい。

 六七の発動機は、相変わらず頼もしい爆音を放って軽快に回っている。

 滑走路の脇に整列して帽子を振っている整備兵らに敬礼をする。

(将校の馬鹿どもが。特攻など考えやがって)

 そう簡単に、生きることを諦めることはできない。ひとりになって、冷静になれば、特攻志願を募るという時は、募る方と志願する方を含めた集団が、なにか異常な心理状態にあったように思える。酒に酔うように、雰囲気に酔っていたように思える。

 戦友の中には、心から望んで特攻に行く奴もいるかも知れない。しかし、このような時代で、このような世の中で、そのように教育を受け、現実的な選択が存在しない状況で、本当に自分で選んだ、決めた、望んだ、と言えるか。

 純粋であるからこそ、疑問を持たないだけなのかも知れない。戦友の特攻死を決して冒涜はしないが、汚れを知らない子供が狡猾な大人に騙されるようなものではないのか。真っ白の紙は、どんな色の絵の具をも拒否しないように。

 たとえ騙されたとか愚かだと言うことではなくとも、純粋な心につけ込んだ唾棄すべき人間がいたのではないか、と後生(こうせい)に検証して欲しい。

 少なくとも飛行機の操縦者には、何百年も前の神風が昭和二〇年にまた吹いて、米英を撃退すると信じるやつはひとりもいない。

 戦争が終わったら結婚しようと約束した加藤雅子のハンカチを、右手首に結んである。雅子の写真を、飛行服の胸ポケットに入れてある。

 今、結婚の約束は、間違いなく果たせない。だから、二つ目の約束を雅子には守って貰いたい。もし自分が死んだら、自分のことは忘れて別の幸せを探す、という約束を。雅子を真実に愛しているからこその、嘘偽りの無い高旨の気持ちだ。

 機は滑走路に出た。

 発動機の回転を上げ、ブレーキを解除した。

 六七はスッと走り出し、直ぐに背中が座席に押しつけられる加速を感じた。

 発動機の回転計と速度計を確認する。

(良し、行くか)

 操縦桿を引いた。六七は、二度と着陸することの無い最後の離陸をした。


 高旨は、静岡県清水港の漁師の長男だ。長男だが、沿岸漁師の生活は貧しく、漁師になることを嫌って陸軍に入隊した。

 一〇ヶ月前台湾での訓練中に負傷し、療養のために帰省した折、父の姉に加藤雅子との見合いをさせられた。高旨は、いつ死ぬか分からぬ身での見合いには乗り気ではなかった。

 しかし、叔母のためにとやむなく会った雅子に、高旨は一目惚れした。俺で良ければ、なんとしても守ってやりたい、と思わせる女だった。殺伐とした戦場、がさつな軍隊、命懸けの爆撃の対極にあったのが、雅子だった。

 戦地に戻ってからも、なんどか手紙を交換した。軍の検閲があるため気の利いた文句は書けなかったが、雅子の心に何かを積み上げることができた。

 ひとつき前、飛行機の改修のために内地に帰った。

 帰省して、雅子に会った。その時に結婚の約束をした。同時に、もし自分が死んだら自分を忘れてくれ、という約束もした。

 雅子は泣いて、言った。

「必ず、生きて帰ってきて下さい。待っています」

 高旨は答えた。

「生きて帰ってくる。帰ってきて、君と結婚する。君を守るために、行ってくるのだ。だが、戦争だから運悪く帰れないことがあるかも知れない。その時は、私を忘れて幸せになって欲しい」

 飛行機の改修とは、体当たり機に改造することだった。高旨は特攻隊に編成された。

 結婚が敵わない事は分かっていた。それでも、未練と思われようが、女々しいと言われようが、結婚を夢見た。自分の未来を、死なないことを、夢見たかった。


 六七は五〇〇キロ爆弾を二発も積んでいるせいで、上昇率が悪い。本来の爆装は五〇〇キロ爆弾なら一発だ。もはや無用とされて、機銃や無線機などを取り外してはいるが、敵艦への損害を高めるために燃料を一杯積んでいることもあって、重い。

 敵の電探(レーダー)に捉まらないように、目標付近までは対地高度三〇〇メートルという低空飛行だから良いものの、目標に対して急降下で突撃するために一旦上昇するときが心配だ。

 六七重爆ばかり八機の編隊である。通常、爆撃機には戦闘機の護衛が付くものであるが、この特攻には護衛は無い。護衛する戦闘機さえ残っていないのだ。

 電探で察知され敵戦闘機が邀撃に来たら、ひとたまりもなく撃墜されるだろう。爆撃機と戦闘機では、空戦能力は比べようもない。特攻も無駄死にだと思うが、その前に撃墜されれば、無駄死に以下だ。信じられないほど愚かで、残酷な戦術である。

 清水の漁師の生活が余りに惨めで軍隊に入ったが、特攻は嫌だった。絶対に生きて帰れないという作戦は、世界の何処にも無いだろう。どんな激戦が予想される戦闘でも、死んでたまるか、という気持ちは持てる。しかし特攻には、死んでたまるか、は無い。死ななければならない。死にに行く。死んで、やっと終わるのだ。

 高旨は右手首に結んだ白いハンカチを見た。結婚したかった。子供を持ちたかった。もっと生きたかった。漁師でも良い、貧乏でも良い、平和に暮らしたかった。家族を持って、平凡に生きたかった。死んでしまっては、貧乏も糞も無い。

 気がつくと、景色が歪んでいた。両目に涙が湧いていたのだ。

 飛行機の操縦では、前ばかりを見ているのではない。横も後ろも上も下も警戒しなければならない。泣いて、視力を落としてはいられない。高旨軍曹はマフラーで涙を拭い、周囲の警戒を再開した。

 四番機が隊長機に接近した。高田の機だ。何か手で合図を交わしているが、ここからでは分からない。

 高田が旋回した。きっと発動機の不調だろう。排気が白っぽい。

 爆弾を投棄できる高度まで上昇できるか。五〇〇キロ爆弾は五〇〇メートル必要だ。そのあと基地まで発動機が保つか。あるいはどこかにうまく不時着できるか。

 高田は運が良いのか、悪いのか。生きて地上に戻れたら、せっかくの死ぬ覚悟がやり直しになる。もう一度、覚悟をやり直さなければならない。かわいそうに。

 いっそのこと、このまま敵艦に突っ込む方が楽かも知れない。高旨はそう思った。

 そろそろ死地の半分まで来た。空は青い。今日はことさら空が美しく見える。

 地上からの高度三〇〇メートルの低空を飛行しているので、深緑のジャングルが良く見える。あのジャングル、にどれほどの動物が暮らしているのか。生存競争はあるだろう。エサや雌の取り合いはあるだろう。だが、人間のように無意味な殺し合いは無い。戦争は無い。必要以上の欲望は無い。愚かしい意地や誇りも無い。

(俺は陸軍を脱走する勇気が無かった。特攻を拒否する勇気が無かった。不名誉を選択して生き残ろうとする勇気が無かった。雅子と結婚するために生き残る努力をする勇気が無かった。

 有ったのは、つまらない意地や偽りの誇りの様なものだけだった。

 そして、死ぬことに怯えている。俺は動物以下かも知れない。だが、天皇や政府や軍上層部はそれ以下だ。日本にとっての黴菌だな、あいつらは)

 気が付くと、機はいつの間にか海に出ていた。周囲の警戒がまたおろそかになっていたようだ。運良く、ここまで敵の迎撃は無かった。


 隊長機が上昇を始めた。それを見て、全機が付き従った。高旨も操縦桿を引いた。六七の機首は上を向いた。爆弾が重くて、いつもより上昇率が悪い。だが、もう、いつも、は無い。これが最後の上昇だ。

(三、〇〇〇メートルまで上昇したら、急降下だ。やはり、死ぬしかないのか。三、〇〇〇メートルから〇メートルの敵艦甲板まで急降下して、人生が終わるのか。

 雅子でなくても、女を抱きたかった。雅子を心から愛したが、俺は女を知らずに死んで行く。慰安婦でもなんでも抱いておけば良かった)

 首尾良く敵艦に衝突することができるだろうか。急降下では最後は速度が速過ぎて、操縦が思い通りにできなくなる。三、〇〇〇メートルから一直線に目標に向かって降下できるか。三、〇〇〇メートル下の、長さ二〇〇メートル幅三〇メートルの目標は余りに小さい。

(空母だろうが、戦艦だろうが、そんなもの沈めたところで、自分が死んだら意味が無いな。確かに飛行機一機と空母なり戦艦一隻なら、相撃ちでは釣りが来るが、その釣りを受け取るのは俺ではなく、天皇か、それともお国か。

 お国とは何だ。雅子のためや親のためなら、死ぬしかないなら仕方ないが、それ以外の他人のためには死にたくない)

 体が熱い。

(天皇など無くても、日本という国は存立するだろう。政府は唯一ではなく、交換できるだろう。単に政治家を代えれば良いのだから。軍隊が無ければ、白人に侵略されるか。しかし、軍隊が政府の上にある国は異常だ。そんな異常に、俺は死ぬことを強制されている。そして、従おうとしている。愚かだ)

 手が震えている。

(死ぬ気になれば何でもできると言うが、俺は脱走も特攻拒否もできなかった。このまま飛んで逃げるか。爆弾を敵艦目がけて落としてから基地に戻るか。三〇ノットでジグザク走る艦を爆撃しても中らないだろう。最後まで操縦して甲板を狙う方が中る確率は高そうだ。今更逃げるところは無い。逃げても、いずれ燃料が切れる。ここまで来たら、逃げようとして一番無駄に死ぬより、突っ込んで二番目に無駄に死ぬしかない)

 隊長機が急降下。

 二機目、三機目と続く。

(俺も行く。でかいのが良いな。小さいのより少しは中りやすいだろう)

「天皇陛下、バンザーイ」

(急降下で重力が小さくなるな。体が浮くようだ。良い気持ちだ。もっと加速しろ。

 敵の弾は中るなよ。中ってたまるか。狙いは良いか。

 スピードが上がると、だんだん修正が効かなくなるぞ。あの戦艦だ。あの艦橋にぶち当たってやる。

 もういい。もう死んでもいい。はぁ、はぁ、早く墜ちやがれ。早くぶつかれ。

 ふぅー、ふぅー、もう沢山だ。ちきしょう、何が天皇陛下万歳だ。

 あぁー、雅子―。かあちゃーん・・・)

 最後の五〇メートルで、僅かに操縦桿が引かれた。本能の最後の、死に対する抵抗だった。


 チョッサー

「錨を揚げろ(ヒーブアップ・アンカー)」

 水先人(パイロット)が号令した。

「アンカー一二時の方向」

 (おもて)一等航海士(チョッサー)が、アンカーケーブルの方向をマイクで船橋(ブリッジ)に報告した。

 一九四二年一一月三日、満州汽船から徴用された撤積み貨物船新陽丸(しんようまる)は名古屋沖でアンカーを揚げ、ガダルカナルに向けて出港した。帝国陸軍将兵一、〇三三名と武器、弾薬、燃料、糧秣、軍馬などの物資三、〇〇〇屯弱を積載している。

 総屯数五、八四七屯の新陽丸の載貨重量屯数は一〇、二三二屯である。即ち、燃料や清水(せいすい)を含めて一〇、〇〇〇屯強積載することができる。燃料と清水、食糧など合わせて一、〇〇〇屯として、残り九、〇〇〇屯の貨物を積めるが、満載するまでの物資が内地にも無かったのだ。

 名古屋からガダルカナルまで三、四三〇(マイル)、船団の航海速力は一三・〇(ノット)。途中低気圧に遭遇するなどして速力が低下することがなければ、一一昼夜の航海である。

 船団は五隻の徴用貨物船と二隻の護衛艦、合計七隻。貨物船は新陽丸の姉妹船の太陽丸(たいようまる)晴海(はるみ)海運大進丸(だいしんまる)新和商船晴洋丸(せいようまる)及び洋山丸(ようざんまる)。護衛艦は駆逐艦津軽と佐渡。

 駆逐艦には、航空機を使用した哨戒や索敵能力は無い。

 貨物船は武装していない。上甲板(アッパーデッキ)の前と後ろに木製の大砲を据え付けている。本物の大砲が無いのだ。ペンキで黒く塗った材木である。

 これで、敵の巡洋艦や潜水艦の餌食にならずに、将兵となけなしの物資はガダルカナルにたどり着くのか。しかも、その重大な任務を背負わされているのが、民間商船乗組員である。兵隊と戦争遂行物資を運ぶのが、民間人ということだ。

 船団はパイロットを降ろして、速度を微速前進(デッドスロー)から低速前進(スロー)半速前進(ハーフ)全速前進(フル)、そして航海速力(ナビゲーショナルフル)に上げた。航海速力は、船団で最も遅い晴洋丸の航海速力一三・〇ノットに合わせた。

 出港スタンバイが解かれ、四―(ヨンパー)当直(ワッチ)佐藤和夫一等航海士(チョッサー)船首(おもて)から船橋(ブリッジ)に上がってきた。同じワッチの平野喜久雄甲板手(コーターマスター)が話しかけた。

「チョッサー、船団の航路は沖縄、台湾、フィリピン、ニューギニア沖からガダルカナルですか。それともまっすぐガダルカナルを目指すんですか」

 「海図(チャート)を見てみな。コースが引いてある。まっすぐだよ。島伝いに隠れるようなコースを取っても、航海日数が増えるから危険は変わらない。それに、物資と兵隊さんを早く届けなきゃならないし、船団の燃料も節約しなきゃならない。覚悟を決めて、行こう」

「しかし、私らは兵隊でもないのに、船乗りだというだけで損な役回りですね。死んでも恩給も出ないし」

 「確かにそうだな。船乗りは軍馬、軍犬以下だと言って、兵隊は威張ってばかりいるし。しばらくは船酔いでおとなしいだろうけど、その先を考えるとうんざりだな」

 「チョッサーは商船士官ですから、海軍に入っても直ぐ士官になれるのではないですか」

「どうか知らないけど、海軍でも商船でも船に違いは無いし、死ぬときは死ぬし、な」

「でも、軍艦なら武装しているから戦えますけど、本船の甲板(デッキ)にあるのは木の大砲ですよ。速力は軍艦の半分だし、きっと敵さんも魚雷を中てやすいでしょう」

 「好きで成った船乗りだから良いんだよ。君だって海上経験を生かせば、海軍で下士官くらいには成れるだろう」

 「私も兵隊や大砲の弾よりは石炭や鉄鉱石を運んでいる方が、お国のためにも世界のためにもなっている、と少しは誇りに思っていました。戦争が始まるまでは」

 交代で夕食を摂ってワッチを続け、一時間もすると星が出た。

「よし、実測位置を出しておくか。平野君、ストップウォッチを持ってウィングに来てくれ」

 チョッサーは六分儀で測定した星の角度と天測暦で緯度経度を計算し、チャートに位置を記録した。

 機関室(エンジンルーム)では一等機関士(ファーセンジャー)操機手(そうきしゅ)が、無線室では通信長(きょくちょう)がひとりでワッチしていた。

 一九四五時、坂本長松三等航海士(サードオッサー)と田宮富士郎コーターマスターがブリッジに上がってきた。ワッチの交代だ。

 「お疲れ様でした」

 チョッサーはサードオッサーに引き継ぎをする。

「一時間前に天測で位置を出したけど、何処で敵にやられるか分からないから、できるだけ実測位置を出しておくように。霧が出たり曇ると推測位置しか出せなくなるから」

 「諒解しました」

 敵の攻撃を受けたとき救助が得られるかどうかは分からないが、少なくても本船位置はできるだけ頻繁に正確に記録しておいた方が良い。

 サードオッサーのワッチは八―〇(パーゼロ)。朝八時から正午までと、夜八時から一二時までだ。殿様ワッチとも言われている。みんなが起きている時間で体も楽であり、何かあっても援助が得やすいからだ。

 エンジンルームでは、三等機関士(サードエンジャー)と操機手が、無線室では三等通信士(さんせき)がワッチをしている。

 サードオッサーは〇〇〇〇時に二等航海士(セコンドオッサー)と交代した。セコンドオッサーのワッチは深夜〇時から明け方四時までと昼一二時から夕方四時までだ。みんなが寝ている時間のワッチで、泥棒ワッチとも言われている。人が寝ている時間に仕事しているから、あるいは泥棒が入らないかの見張りをやるから、逆に食糧事情が悪いため食糧が減るのはゼロヨンのワッチが食ってしまうから、と諸説がある。

 エンジンルームでは二等機関士(セコンドエンジャー)と操機手が、無線室では二等通信士(じせき)がワッチをしている。

 名古屋を出港して四日目。海は時化ているわけではないが、兵隊はみんな船酔いでぐったりしている。食欲も無く、吐き気と眠気で元気が無い。ほとんどの兵隊は、ガダルカナルに着くまでこの状態が続くだろう。ガダルカナルに着いたら戦闘に参加する兵隊たちだ。せめて航海中はのんびりして貰おう。それが乗組員たちの気持ちだ。

 そんな乗組員の気持ちを知ってか知らずか、兵隊の中にはなんだかんだと威張りたがる古年兵や下士官もいる。軍隊が民間より偉いと勘違いしているのだ。

「航海士や機関士は船では士官と言われているそうだが、軍隊の本当の士官ではあるまい。俺たちは命がけで戦争をしているんだ」

 商船では資格を持った船長、機関長、航海士、機関士、通信士を士官と呼び、それ以外を部員と呼ぶ。事務長、事務員は士官待遇である。そして、有事の際は今航の様に、船員と船体が丸ごと海軍に編入されて戦争遂行物資を運搬することになり、海軍と何ら変わるところは無い。

 偉ぶりたがってはいるが、望んで戦地に行く者はいないはずである。いずれかわいそうな兵隊である。

 しかし、船乗りはもっと悲惨だ。望んで船乗りには成ったが、軍に徴用されることは誰も望んではいなかった。非常時、お国のため、戦争遂行のため、と言われて強制的に兵員や軍事物資を輸送しているのだ。

 しかし身分は民間人であり、軍隊のような保障は一切無い。武器も持たない貨物船が、ろくな護衛も付けられずに航海しているのだ。むしろ軍艦の方が、戦闘能力があるだけ安全である。民間商船乗組員の損耗率は、海軍の損耗率の二倍以上なのであるから。


当直士官(サー)、ソナーに反応があります。距離二、五〇〇ヤード」

 「潜望鏡深度(ペリスコープデプス)に浮上、艦長(キャプテン)に報告しろ」

「承知しました(アイ・アイ・サー)」

 当直水兵(セーラー)の報告で、キャプテンがブリッジに現れた。

「キャプテン、一一時の方向に敵輸送船団発見、貨物船五隻と護衛の駆逐艦二隻です」

 「距離一、五〇〇ヤードまで接近して確認しよう。全魚雷発射管に魚雷装填」

「アイ、アイ、サー」

 合衆国海軍太平洋艦隊所属ゲイトー級潜水艦フラッシャーは、戦闘配置を敷いた。

「ジャップの輸送船団だ。コースからして、ニューギニアからガダルカナルに向かっている」

「キャプテン、魚雷装填完了しました」

「艦首魚雷発射用意」キャプテンが命令した。

「艦首魚雷発射用意」当直士官が復唱(アンサーバック)した。

「先頭の護衛艦から輸送船二隻、合計三隻に二発ずつぶち込むぞ」

「はい、キャプテン」

「次に反転して、艦尾魚雷を次の輸送船二隻に二発ずつだ」

「アイ、サー」

「ポート・テン」キャプテンは左に一〇度変針を命じた。

「ポート・テン」操舵士官が命令をアンサーバックして、舵を切った。

「ポート・テン、サー」フラッシャーの舵が左舷(ポート)に一〇度切れたことを確認して、操舵士官が報告した。

「ミッドシップ」キャプテンが舵中央(ミッドシップ)を命令。

「ミッドシップ」操舵士官がアンサーバック。

「ミッドシップ、サー」舵が中央に戻ったことを操舵士官が報告。

「一号、二号発射(ファイアワン、ファイアツー)」魚雷発射命令。

「一号、二号発射」魚雷発射完了報告。

「オーケー、魚雷三号、四号発射(ファイアスリー、ファイアフォー)」次の発射命令。

「魚雷三号、四号発射」魚雷発射完了報告。

「ポート・イージー」左に五度の変針命令。魚雷発射方向の修正だ。

「ポート・イージー」アンサーバック。

「ポート・イージー、サー」報告。

「ミッドシップ」舵中央の命令。

「ミッドシップ」アンサーバック。

「ミッドシップ、サー」報告。

「魚雷、五号、六号発射(ファイアファイブ、ファイアシックス)」発射命令。

「魚雷、五号、六号発射」完了報告。

「ハード・スターボード、コース一三〇」

「ハード・スターボード、コース一三〇」操舵士官は舵を右一杯に切って、コースを三一〇度から一三〇度に反転した。

「コース一三〇、サー」指定のコースに乗った報告。

「ステディ」針路維持(ステディ)の命令。

「ステディ」アンサーバック。

「艦尾魚雷、用意は良いな」

「キャプテン、一号、二号が目標に到達します」

 一〇秒経っても静かだ。二本とも外れた。先頭の護衛艦は魚雷を発見して変針し、うまいこと躱したらしい。

「デッド・スロー・アヘッド」キャプテンは、残り四発の結果を確認してから艦尾魚雷を発射するために、艦のスピードを微速前進に落とす命令を発した。

「デッド・スロー・アヘッド」エンジンテレグラフ担当士官がアンサーバック。

「デッド・スロー・アヘッド、サー」命令したスピードになったと報告。

「キャプテン、三号、四号が目標に到達します」

 五秒後、二回続けてショックを感じた。輸送船の一隻目には命中した。

「キャプテン、五号、六号が目標に到達します」

 五秒後、二発とも命中したことが分かった。

「スターボード・イージー」キャプテンは潜望鏡をのぞきながら、魚雷の狙いを定めるために舵を右に五度切らせた。

「スターボード・イージー」アンサーバック。

「スターボード・イージー、サー」報告。

「ミッドシップ」命令。

「ミッドシップ」アンサーバック。

「ミッドシップ、サー」報告。

「艦尾魚雷一号、二号発射」発射命令。

「艦尾魚雷一号、二号発射」発射報告。

「スターボード・イージー」次の標的に合わせるために、もう一度舵を右に五度切らせた。

「スターボード・イージー」アンサーバック。

「スターボード・イージー、サー」報告。

「ミッドシップ」舵を中央に戻す命令。

「ミッドシップ」アンサーバック。

「ミッドシップ、サー」報告。

「艦尾魚雷三号、四号発射」命令。

「艦尾魚雷三号、四号発射」報告。

「キャプテン、艦尾魚雷一号、二号が目標に到達します」

 五秒後、二発の命中が確認された。

「キャプテン、艦尾魚雷三号、四号が目標に到達します」

 五秒後、一発の命中が確認された。

「護衛の駆逐艦が一隻残っている。爆雷を食らう前に離脱だ。全速前進(フルアヘッド)

「フル・アヘッド」アンサーバック。

 プロペラ回転が徐々に上がり、フル・アヘッドに到達した。

「フル・アヘッド、サー」報告。

「潜航開始、下げ舵一〇度、潜行深度一五〇フィート」

「アイ・アイ・サー」

 艦首魚雷発射管六門、艦尾魚雷発射管四門から合計一〇発の魚雷を発射して、三発が外れ、七発が命中した。ジャップの輸送船が三隻沈没、駆逐艦が一隻大破、航行不能になった。しかしもう一隻の駆逐艦が無傷だから、一旦撤退することにした。

航海速力(ナビゲーショナル・フル・アヘッド)」命令。

「ナビゲーショナル・フル・アヘッド」アンサーバック。

「ナビゲーショナル・フル・アヘッド、サー」報告。

 フラッシャーは潜水航海速力に到達した。


 新陽丸チョッサー佐藤和夫は塚迫(つかさこ)キャプテンに進言した。

「キャプテン、スターボード・サイドに魚雷二発命中、浸水中です。沈没は免れません。総員退船命令をお願いします」

「よし、マイクを貸せ」

 キャプテンは船内放送で総員退船を発令した。

 新陽丸は客船ではなく、貨物船である。乗せている兵員一、〇三三名分の救命艇(ライフボート)は無い。一隻当たり二五人乗りのボートが両舷に各二隻、合計四隻で一〇〇人しか乗れない。しかし船体は魚雷が命中したスターボード・サイドに傾いているから、左舷側(ポートサイド)のボートは船体に接触するため下ろせない。使えるボートはスターボード・サイドの二隻だけだ。

 佐藤は再びキャプテンに進言した。

「キャプテン、総員救命胴衣(ライフジャケット)を着けて海に飛び込みました。我々も退船しましょう。まさか、本船に残るなどと言わないで下さい」

「名古屋でアンカーを揚げたときに覚悟をしたよ。いや、海軍に徴用されたときから考えてはいた。私は残る。チョッサーは退船しなさい」

「しかしキャプテン、これは海難ではなく敵潜水艦の攻撃です。キャプテンが気象判断を誤ったり、操船ミスをしたのではありません。何の武装もしていない、ろくな護衛も付いていない貨物船が敵の魚雷攻撃を受けたのです。それで本船が沈んでも、キャプテンが本船と運命を共にする必要は無いと思います」

「理屈はそうだ。私も無念だ。しかしチョッサー、覚悟していたことだ。もう言うな。早く退船しないと本船の沈没に巻き込まれるぞ」

 塚迫キャプテンは舵輪(ステアリング)に自らの体をロープで固定した。

「キャプテン、ご家族にお伝えすることは」

「いつかこんな馬鹿な戦争は終わる。諦めないでがんばって生きて行けと。それだけ、頼む」

「分かりました、キャプテン。きっとお伝えします」

「早く退船しろ。こんなつまらん戦争なんかで死ぬなよ」


 度胸を付けろ

 帝国陸軍兵力一〇万人と、志那国民党軍兵力一〇万人の激突が終わった。連合国側の飛行場を制圧することによる制空権奪回と、鉄道奪取を目的とした大本営の作戦は成功した。

 国民党軍が敗走したあとの街には、砲撃による瓦礫と穴、硝煙と死体が残っていた。

 燃えている建物もある。民間人の死体もある。うめき声を上げている瀕死の国民党軍兵士がいる。うめき声も上げられない、浅い呼吸だけをしている民間人もいる。

 殺戮と破壊の跡。血と火薬の匂い。

 腕、脚、内臓、片目の無い顔、半分吹っ飛んだ頭、人間の部品は何でもある。

 何かが燃える音が時折するだけで静かだった廃墟に、日本軍の軍靴が志那の大地を踏む音が聞こえてきた。飛行場守備の任務を負う占領軍の到着だ。

 占領軍は、自分たちの任務は飛行場を確保し続けることだ、と思っていた。

 何処に逃げれば良いのか分からない、動けない親を置いて逃げられない、収穫しなければ生きていけないなど、いろいろな理由で街に隠れていた住民がぽつり、ぽつりと自宅に戻ってきた。彼らは、自分たちは非戦闘員であり、正規兵でもゲリラでさえもないから、日本軍に食料や住宅を供出させられるだろうが、それ以上の暴力は受けないだろうと漫然と考えていた。

 どちらも誤っていた。いや、占領軍の個人個人も、住民の個人個人も誤ってはいなくても、煽動や命令や流言飛語や誤解や悪意、無知などが原因となって、正しいものを(あやま)たせることがある。

「黒山一等兵、まずは食料を徴発してこい。戦闘が始まってから今日までろくなものを食ってなかったからな。豚でも鶏でも牛でも連れてこい、いいな」

「はっ、黒山一等兵は豚か鶏か牛を探しに行きます。対価はいかがしますか」

 植木軍曹が目を剥いて答えた。

「ばかやろう、戦争をやっているんだ。俺たちは占領軍だ。そんなもの、ふんだくってこい」

「しかし、大隊長から略奪は禁じられております」

「貴様、俺の言うことが聞けないのか。そんなものは建前だ、建前。戦争で勝ったら何をやっても良いんだ。命がけで戦って、生き残ったんだ。それくらいの余録が無くてどうする」

「はっ、分かりました」

「近江一等兵、おまえも一緒に行ってこい。黒山は頼り無いからな」

「はっ、近江一等兵も黒山一等兵と一緒に食料徴発に行ってきます」

 二人は勘でもって、家畜がいそうな方へ向かった。

「近江、鶏一羽でも見つけないとビンタだな」

「そうだな。やっと弾が飛んでこなくなったと思ったら、今度は泥棒のまねごとだ。一等兵はつらいな」

「黒山、ここまで来れば大隊から見えない。一服しよう」

「ふー、うまい。死んじまったら煙草も吸えないな」

「いつになったら戦争が終わって、内地に帰れるんだろうなあ」

「わからん。おまえは子供がふたりだったか」

「そうだ、女の子がふたりだ。おまえは」

「うちは男がふたりだ。殺風景だよ」

「ははは、じゃ、いつかうちの娘をおまえの息子の嫁に貰ってくれよ」

「本当か。そりゃいい。早く家に帰りたいな」

 近江一等兵も黒山一等兵も、それぞれふたりの子供を持つ普通の父親だ。戦争が無ければ兵隊に取られて家族と別れることもなく、戦闘で敵兵を殺すこともなく、志那で鶏や豚の盗みを働くこともなかったのだ。

 黒山が近江に声を掛けた。

「さて、食料を探しに行くか」

 近江が返した。

「誰かいるぞ」

 二人は三八式歩兵銃の遊底を操作して、薬室に弾丸を装填した。

「敵か」

「いや、住民らしい」

「油断するな。もし家畜を飼っていたら貰って帰ろう」

 二人は人影を見た家に押し込んだ。老人がひとりいた。日本の兵隊を見て怯えている。

「近江、豚はズー、鶏はジー、牛はニューだったな」

「そうだ」

「おい、俺たちは、日本(リーベン)兵隊(ジュンレン)だ。わかるな。俺たちは腹が減っている。ズー、ジー、ニューはいるか。ズー、ジー、ニューだ。いたら連れてこい。ズー、ジー、ニュー」

 老人には、日本鬼子(リーベンクイズ)だと言うことは一目で分かった。食料として、(ブタ)か鶏か牛を探しているらしいと想像できた。

(日本鬼子などに盗られてたまるか。知らんふりをしよう)

 老人はとぼけて、泣きそうな顔をして殺さないでくれ、助けてくれ、何も無い、誰もいないなどと繰り返した。

「黒山、この爺さん、話しが通じてないな」

「そうかも知れない。字を書いてみるか」

 黒山は地面に指で猪、鶏、牛と書いた。日本語の豚は志那では猪と書くことは、志那に来て知った。多少違っても、漢字の字面で通じるだろうと二人は思った。

(日本鬼子め、字を書きやがった。読めないふりをしよう)

 老人は首を振って、分からない振りをした。

「ズー、ジー、ニュー、ズー、ジー、ニュー」

 近江はいらいらしながら二回繰り返した。相変わらず老人は知らない手振り、身振りだ。

 黒山が言った。

「絵を描いてみよう」

 黒山と近江は豚と鶏と牛の絵を地面に描いた。

(もう、とぼけられないか、日本鬼子めが。仕方がない、小屋から鶏を一羽だけ連れてこよう)

 老人は鶏の絵を指さし、自分を指さし、二人を指さし、地面を指さした。鶏は自分が連れてくるから二人はここで待っていろ、のつもりだ。

「やっと分かったらしいな」

「鶏でもいないよりましだな」

 近江が銃剣を突きつけて老人に言った。

「よし、一緒に行くぞ、案内しろ」

 老人はもう一度、鶏の絵と自分と二人の日本兵と地面を指さしながら志那語で、ここで待っていろ、連れてくるから、と言った。

 黒山が言った。

「爺さんが連れてくるという意味か」

「逃げるつもりかも知れない。鶏以外もいるかもしれいし、な」

「そうだな。一緒に行くか」

 近江が老人に銃剣を突きつけて、案内を促した。

 裏の小屋には鶏が一〇羽ほどと豚が四頭いた。二頭は子豚だ。

「爺さん、とぼけてやがったな。これだからチャンコロは油断できない。黒山、全部連れていくわけに行かないな」

「うん、豚はともかく、鶏は面倒だな。それに、豚の方が隊の連中も喜ぶだろう」

 黒山と近江は、小屋から出たがらない豚四頭の首にロープをつないで引きずり出した。老人はあきらめ顔だ。

「爺さん、悪いが貰っていくぜ」

 二人は豚のロープを引いて、意気揚々と駐屯地に向けて歩き出した。

 老人は我に返った。銃を持った二人の日本兵が恐ろしくて呆然としていたが、鶏の二、三羽ならともかく猪を全部持って行かれたら生活できないことに気づいた。

(くそ、このままじゃ家族が飢え死にだ)

 老人は家畜小屋からホークを持ち出した。洋食器のフォークを大きくした、藁や草などをすくったりかき寄せたりするための農機具だ。老人が何かを叫びながらホークの先端を突き出して、黒山と近江に向かって走った。

「近江、逃げろ」

「なんだ」

 二人は豚のロープを一旦離して走って逃げ、五〇メートル程引き離して止まった。

「あの爺さん、俺たちを刺す気だったな」

「ああ、危なかった。どうする、豚は諦めるか」

「馬鹿野郎、諦めたら軍曹にビンタだ」

「じゃ、どうする」

「よし、爺さんを脅かしてやろう」

 近江は、歩兵銃を老人に向けた。

「撃つのか」

「脅かすだけだ」

 そう言って、近江は老人の足下を狙って撃った。

 銃声が聞こえると同時に、老人の足下の地面が弾けた。老人はビクッとして立ち止まった。弾が身体に中っていないことが分かると、また叫びながらホークを持って向かってきた。

 黒山も一発、老人の足下に向けて撃った。今度は、老人は立ち止まらなかった。

「おい、どうする」

「仕方ない、撃つか」

「兵隊じゃないぞ」

「撃たないとホークで刺されるぞ」

「豚を返してやればいいだろう」

「そんなことできるか」

 老人が迫ってきた。

 近江は、今度は外さなかった。老人の胸の真ん中に狙いを付けて撃った。

 老人は後ろに倒れ、動かなくなった。

「撃ちやがったな」

「仕方ないだろう」

「豚が欲しくて人を殺したのか」

「チャンコロだよ」

「人を殺してまで豚が食いたいのか」

「おまえだって腹が減っているだろう。隊にはろくな食料が無いからな」

 黒山と近江は逃げた豚を捕まえて隊に戻った。

 近江一等兵が植木軍曹に敬礼し、報告した。

「黒山一等兵と近江一等兵は、豚を四頭連れてただいま帰隊しました」

「よし、良くやった。今夜はうまい飯が腹一杯食えるぞ」

 その晩、黒山は豚を食えなかった。近江に撃ち殺された爺さんの姿が目に浮かんで、豚だけは食えなかった。

(半分は俺が殺したようなものだ。豚を食うために爺さんを殺した。そんな豚は食えない。いくら志那人でも、人は人だ。爺さんも豚を取られたら食っていけないから、必死だったのだろう。かわいそうに)

 その夜、黒山は空きっ腹を我慢して眠りについた。


 駐屯地に起床ラッパが鳴り響いた。

 朝飯のあと、萩嶺伍長が斎藤一等兵と杉山一等兵に言った。

「今日はお前たちに度胸を付けてやる。いいな」

「伍長殿、どういう事でありますか」

 斎藤一等兵が訊いた。

「銃剣の訓練だ。お前たちは、弾は撃てるようになっただろうが、銃剣を実際に使ったことは無いだろう」

「はっ、ありません」

 斎藤一等兵と杉山一等兵が答えた。銃剣を実際に使うという意味が、ふたりとも分からなかった。

玉置(たまおき)一等兵、スパイを二人ほど連れてきて、その杭に縛り付けろ」

 駐屯地の一角にある小屋には、スパイ容疑という名目で日本軍に反抗的な住民を一〇人ほど監禁していた。

 玉置一等兵は萩嶺伍長の命令に従って、小屋から住民をふたり連れてきて、杭に縛った。

 縛られたふたりは自分たちの運命を知って、泣き出した。殺さないでくれ、何でもするから殺さないでくれ、と泣き叫んだ。

 斎藤も杉山もまだ何が起こるのか、何をやらされるのか分からなかった。

「着剣」

 萩嶺が命令した。

 斎藤と杉山は、三八式歩兵銃に銃剣を装着した。

「気をつけ。今からお前たちはスパイを処刑する。奴らは日本の敵だ。銃剣で一突きにしてやれ」

 斎藤と杉山は顔を見合わせた。互いに不安そうな顔をしている。武器を持つどころか、縛られて抵抗できず泣き叫んで命乞いをしている人間を、例えスパイとは言え迷い無く殺すことはできない。

 戦闘とは違う。戦闘は、敵も武器を持って撃ってくる。こちらも撃ち返さなければ、自分が死ぬ。夢中になって撃ち返すことができる。

「斎藤、杉山、貴様ら、命令が聞けないのか」

 銃は、遠く離れて相手を倒せる。銃剣は、相手の間近に迫らないと刺せない。

「貴様らッ」

 萩嶺は斎藤と杉山を殴り倒した。

「スパイを処刑できない腰抜けか。それでも帝国陸軍軍人かッ」

 銃は、引き金を引くだけで敵を殺せる。銃剣は、剣を敵の体に刺すという生々しさがある。

「気をつけ。今度こそ行けよ、いいな」

 銃は、相手の血が見えないが、銃剣は、相手の血を浴びるだろう。

「突撃」

 ふたりは動けなかった。ふたりとも震えていた。人を殺すことと命令に従えないことに対する極度の緊張のせいだ。

「玉置、銃を貸せ」

 萩嶺は玉置の銃を空に向けて一発撃った。銃声で、斎藤と杉山は緊張が解け、萩嶺の方を向いた。

「貴様ら、上官の命令は、気をつけ、天皇陛下の命令だぞ。それが聞けないのか」

『天皇陛下』という単語の前には、『気をつけ』という命令語が前置され、その場にいる全員は自身を含めて、気をつけの姿勢を取ることになっている。『天皇陛下』という言葉は、気を付けの姿勢で話し、聞かなければならないという、滑稽な習慣が軍隊にはあった。

 ふたりとも泣きそうな顔だ。殴られるくらいで済むなら、殺したくはない。しかし、軍隊はそれでは済まない。

(どうしようもない、逆らえない、やるしかない、戦争だ、これが軍隊だ)

 ふたりは同じようなことを考えた。

「銃剣を構えろ。突撃」

「うおぉーーー」

「だあぁぁぁ」

 それぞれ奇声を上げながら、着剣した歩兵銃を構えて走った。数秒で目標に到達した。腕で銃を突き出すことはできず、体ごと目標に衝突した。剣が肉に刺さる嫌な感触を全身で感じた。

「ぎゃー」

「あうぅーーー」

 絶叫が上がった。そのあと、耳の直ぐ近くでうめきが聞こえた。

「もう一度刺せ」

 杉山は何も考えられず、両手で銃剣を引き抜き、再び突き出した。また、肉に剣が入って行く感触があった。吐き気がした。何かを叫んだ。

 斎藤は思った。

(どうせ助からないのだから、早く楽にしてやろう)

 銃剣を全身で引き抜き、もう一度刺した。骨に当たったような抵抗があったが、剣はさらに奥まで進んだ。

 杭に縛られたふたりは、もう叫び声を上げることはできなかった。かすかな呼吸とうめきだけが、分かった。

 杉山は吐いた。

 斎藤はもう一度、楽にしてやるために、刺した。そして、斎藤も吐いた。

「ゲロなんか吐きやがって、たるんでるぞ。貴様ら、それでも帝国陸軍軍人か」

 萩嶺伍長は、知性のかけらも無い決まり文句を繰り返した。

「気をつけ、歯をくいしばれ」

 杉山と斎藤は一発ずつビンタを食らった。

(無理矢理人を殺させられて、殴られて、俺は志那まで来て何をやっているのか。軍隊も戦争も嫌だ。内地に帰りたい)

 杉山の、声に出しては決して言えない思いだった。

(萩嶺の野郎、今度の戦闘で俺の前にいたら、後ろから撃ってやる。無抵抗の民間人を面白半分に殺させて、何が度胸を付けてやる、だ。おまえはろくな死に方をしないぞ)

 斎藤は今日の事がきっかけで積もり積もったものが爆発して、本気で荻嶺伍長を撃ってやろうと思った。


 敗走

 アメリカ軍がテニアンに上陸した。

 テニアンは、北マリアナ諸島を構成するサイパンの南南西八キロにある島である。第一次大戦後、国際連盟により日本の信託統治領となり、多くの日本人が入植している。

 日本軍には、食料も医薬品も武器も弾薬も降伏もほとんど無かった。食料が無ければ、生きていけない。医薬品が無ければ、無駄に苦しんだあげく、死ぬしかない。武器が無ければ、撃てない。撃つ弾が無ければ、敵の弾が中るのを待つだけだ。降伏できなければ、無意味に死ぬことになる。兵隊や民間人をそのような状況に置いた軍の司令部や内地の政府は、弾の飛んでこないところでうまいものをたらふく食ったあと、鼾をかいている。


 藤井軍曹が、小隊の指揮を執ることになった。小隊の士官は全員戦死し、下士官も藤井軍曹しか残っていない。

「軍曹殿、弾も残り僅かです。一斉突撃しますか」

 生きて虜囚の辱めを受けず、を叩き込まれた角田一等兵は仕方なくそう訊いた。このまま塹壕に隠れて敵を撃っても、弾は直ぐに無くなる。それならいっそのこと、敵陣めがけて斬り込むしかない。その時は、指揮官である軍曹に先頭に立って貰いたい。

「待て。ここから敵陣までは遠すぎる。それに、どうせやるなら夜になってからの方が良い」

 藤井は臆病風に吹かれていた。今までさんざん二等兵や一等兵にビンタを食らわし、偉そうな事を言っては来たが、現状に怯えていた。捕虜になってでも、死にたくはなかった。

「軍曹殿、二日も飲まず食わずです。斬り込むなら、体力の残っている早い方が良いと思います」

「そんなことは分かっている」

「このままでは負傷兵が増えるだけです」

「分かっていると言っているんだ。誰がこの中隊の指揮を執っているんだ」

「はッ、軍曹殿であります」

「そうだ。そして俺の命令は、気をつけ、天皇陛下の命令だ」

 天皇が虎ほど立派かどうかはともかく、藤井は虎の威を借る狐そのものだ。

 誰も惨めに死にたくはなかった。戦争で、どうしても死ななければならないなら、せめて敵と撃ち合って、戦闘で死にたいのだ。弾が尽きて、ただ撃ち殺されたくはなかった。糧秣が尽きての餓死はしたくなかった。

 何より、俘虜にはなりたくなかった。内閣総理大臣兼陸軍大臣吉川現(きっかわげん)の戦陣訓に、生きて虜囚の辱めを受けず、の一文があり、俘虜になることは兵隊の最大の恥辱とされていた。今まで命がけで訓練を受け、実戦で戦ってきたことが全て無駄になる。俘虜になると、卑怯者、非国民になる。角田一等兵は、弾薬と体力のあるうちに華々しく散ってやれ、と思って藤井軍曹に進言したのだ。

(藤井軍曹の野郎、怖じ気づいているな)

 戦場という極限環境では、感覚が鋭くなる。角田には藤井の胸の内が読めた。

(今までさんざん威張り腐りやがって、いざとなると腰抜けか。よく軍曹になれたものだ。よし、夜まで弾を節約して、一休みだ)

 (くそ、援軍は望めんし、弾も糧食も無しじゃ玉砕か。こんな南方のジャングルで犬死にだ。何がお国のためだ、何が天皇陛下のためだ、命あっての物種じゃねえか、あほらしい)

 藤井の本音だった。国家や天皇が全てではないと考えるだけの合理性が、彼が生き延びて軍曹にまで昇進した理由かも知れない。

 小隊で生き残っているのは一八名、うち四名は重傷で戦闘能力は無い。弾薬は、銃を撃てない重傷者の分も分配してひとり当たり一〇発。水も食料も無い。降伏できない皇軍兵士にあるのは、玉砕と虚飾する全滅だけだ。無駄死に、犬死にである。

 捕虜なら、脱走してまた戦闘力に戻る可能性もある。戦争終結後は故郷に帰還して、社会に貢献する可能性もある。捕虜になるまで戦った、という名誉もある。何より、命を粗末にしなくて済む。

 ひとりの狂人が戦陣訓で捕虜を否定し、周囲の多くが盲目的に賛意を示し、以来、人の命がゴミのように捨てられることになった。命令に従い、自分の命に代えても国を守ろうと、家族のためにと、死んでいく兵隊の心は純粋であり、美しい。しかし、哀れだ。

 日が暮れた。日光に照りつけられない分だけ、暑さが減った。皆、水が飲みたかった。一口でも水が飲みたかった。腹も減っている。明日になれば、とても突撃などできなくなる。

 鈴木一等兵が覚悟を決めて、藤井軍曹に進言した。

「軍曹殿、鈴木一等兵は今ならまだ走れます。突撃命令をお願いします」

「貴様の意見など訊いておらん」

 藤井は、捕虜になる度胸も無かった。敵が捕虜をどう扱うか見当が付かないのだ。帝国陸軍のように虐待するなら、いっそのこと突撃するしかないとも思い始めていた。

 敵の砲撃が止んだ。今までの経験で、今夜はもう戦闘は無いと考えても良さそうだ。

 藤井がやっと決断を下した。

「貴様たち、四時間後に敵陣に切り込みだ。それまで好きにしろ」

 深夜、敵が寝静まってから突撃を敢行することにした。むろん歩哨はいるが。

 全滅するのだから、手紙や遺書を書いても意味が無い。遺族に届ける者がいない。食うものは無い。水も無い。少しでも寝ることだ。寝ている時間だけは、空腹も乾きも恐怖も遠くに行っていてくれる。それに、極度に疲労もしていた。小隊の生き残りは、見張りのふたりを残して最後の睡眠を取った。

 今更意味の無い日付が、変わろうとしていた。一八名に人生最後の日が訪れるのだ。戦闘能力の無い四名には手榴弾が二個残された。ふたりで一個、自決用である。

 一四名は、着剣した歩兵銃と鉄兜と僅かな弾薬以外の装備を捨てた。捨てた装備と言っても空の水筒と背嚢くらいだ。もはや、装備と言える程の装備も無かった。

 誰も死にたくはなかった。しかし、水も食料も弾薬も降伏も無い現状では、餓死するより突撃して死ぬしかないことを知っていた。その方が早く楽になれることを、知っていた。

 藤井軍曹が叫んだ。

「貴様ら、行くぞ。天皇陛下、バンザーイ」

 小隊の生き残りが応じた。

「天皇陛下、バンザーイ」

 一四名は歩兵銃を構えて敵陣に走った。

 後方で手榴弾の爆発音がした。数秒後、もう一度した。四名の負傷兵は一足先に、自ら人生を閉じた。

 小隊の銃声に、米軍は機関銃で応戦してきた。ボルトアクション銃でしかも体力を使い果たした小隊は、機関銃の射撃訓練用標的の様だった。直ぐに片が付いて、銃声がやんだ。

 銃声で飛び起きて、テントから走ってきた米軍の兵隊が言った。

「おい、俺の分のジャップを取っておかなかったのか」


 テニアン在住の民間人は、帝国陸軍に捨てられた。その意味において帝国陸軍は、日本を防衛するため、即ち日本人を保護するための軍隊ではなかった。他国を侵略するための軍隊だった。

「兵隊さん、少しはここで敵を食い止めて貰えないか。せめて、女や子供だけでも逃がしてやりたい」

「馬鹿者。我々は敵を討つための作戦で動いているんだ。命令以外の勝手な行動はできない。おまえたちは自力でなんとかしろ」

 軍隊が、真っ先に転進と呼ぶ敗走はしても、民間人を逃がすための楯になることはけっしてなかった。軍は軍で逃げ、民間は民間で逃げろ、と言うことだ。民間人は元々武器を持っていない。食料も無い。軍医や衛生兵、医薬品も無い。女も子供も老人もいる。それで、何をどうしろと言うのか。軍隊は何のためにあるのか。

 村上家は五人家族。一彦、妻美千代、長女朋子は一五歳、次女の真紀子一二歳、長男則夫はまだ四歳だ。家財道具は全て諦めて、貴重品と着替えだけを背嚢に詰めての避難が始まった。

 朋子と真紀子も、自分たちの着替えなどを背負っている。則夫は父と母に交代で抱かれながらも、ぐずっている。

 一彦は、家族全員を無事に避難させることだけを考えている。最後は自分と美千代が犠牲になっても、三人だけは生かしてやりたいとまで思っている。美千代は子供たちのことだけを考えている。特に、まだ四歳の則夫がかわいそうだ。

 何処に逃げれば良いのか分からない。何処が安全なのか分からないのだ。ただ、米軍が上陸した地点の反対側に向かっているだけだ。みんなの行く方向に、今は行くしかないのだ。

 後方から戦闘音が聞こえるが、民間人の避難と同じ方向に撤退している兵隊も見える。弾の飛んでこないところで兵隊に命令を出し、逃げるときはいち早く自動車で逃げるのが司令部であり、戦闘で負傷してもまともな手当も受けられず、よろめきながら重い銃を担いで歩いているのが兵隊だ。

(避難するにも軍に頼れないと言うことは、島を脱出するときも軍の船には乗れないと言うことか)

 一彦は絶望しそうになったが、なんとしても家族を生かさなければならないと思い直した。

(いっそ、米軍に投降するか。奴らは軍が言うように、本当に民間人をも皆殺しにするのだろうか)

 子供たちは腹を空かせている。則夫は、我慢できる歳ではない。朋子も真紀子も、歩き疲れてへとへとになっている。今にも泣き出しそうだ。どうやったら子供たちを助けられるのか。

 何か食わせてやりたい。水を飲ませてやりたい。軍が少しでも水や食料を分けてくれないだろうか。

 一彦は自分たちを追い越していく兵隊に頼んでみた。

「子供たちに水と何か食い物をくれないか」

「悪いが俺たちも三日食ってないんだ。将校に訊いてみてくれ。何か持っているかも知れない」

 兵隊の返事だった。

 一彦は自動車を止めて、同じ事を頼んだ。将校の返事は冷たかった。

「難儀していることは察するが、軍はこれから敵と戦わなければならない。食料は武器と同じほど貴重なもので、民間人に分けるわけにはいかない。自分たちで何とかしてくれ」

「子供三人に一食分で良いのです。握り飯一つずつで良い」

「いい加減にしろ。軍は貴様らを守るためにも戦っているのだぞ。邪魔だ。速やかに道を空けろ」

 戦わなくて良いから、握り飯を三個くれれば良い。それが一彦の本音だった。

(米軍は、子供たちにパンのひとかけらでもくれるだろうか。それとも日本軍が言うように、皆殺しにされるのだろうか)

「さっきの将校さんは私たちを守るために戦うと言っていたけど、嘘ね。逃げているだけ。威張り腐って」

 美千代の口から、怒りに絶望が混じった言葉が出た。

「とにかく歩こう」

 希望の無い避難を続けるしかなかった。

 動けなくなった兵隊がいた。左腿の軍袴が破れて血で染まっていた。戦友からも見放されてしまったらしい。

「連れて行ってくれ」

 息も絶え絶えに言った。

「連れて行ってやりたいが、子供が三人いてどうにもならない。食料を持っていないか」

「何も無い」

 その数十メートル先に、もうひとりいた。彼も力が尽きてしまったようだ。ぎりぎりまでさっきの兵隊とかばい合って、ここまで来たのだろう。

「待ってくれ」

「連れてはいけないんだ」

「そうじゃない。これを持って行け。いざという時のために」

 兵隊は一彦に手榴弾を手渡した。米軍の手に落ちそうになったら使え、と言うことか。

「あなた、則夫はもう泣く元気も無くなったわ。何処まで歩けばいいの」

「分からない。おまえも疲れたろう。則夫を寄越しなさい。俺が抱いていく」

 朋子と真紀子も泣き出した。もう疲れて、空腹で歩けないという。

 ここで米軍を待って投降するか、さっきの兵隊から貰った手榴弾で自決するか、一彦は考えた。子供たちを殺したくなかった。だが、いっそのことみんなで死ぬか、という考えも浮かんだ。

 美千代には、こんな残酷な相談はできない。せめて自分ひとりで決めて、決めたとおりやるしかない。一彦は自分の責任を確認した。

 これ以上は動けない。それより、子供たちに水だけでも飲ませてやりたい。

「美千代、子供たちとここにいてくれ。俺は水を探してくる。できれば何か食うものも」

 もしもの時のために、手榴弾を美千代に渡そうとも考えたが、自分だけが生き残るのはつらい。死ぬなら家族全員一緒だ、と思い直した。

 倒れている兵隊五、六人の背嚢を調べたが、食い物は無かった。あるはずがなかった。兵隊たちも、何日も食っていないのだ。水筒も空だった。空の水筒をひとつ貰った。水が見つかった時のためだ。銃剣も一本貰った。

 一彦は道を外れ、ジャングルに分け入って、奇跡的に椰子をひとつ拾った。青臭くてうまいものではないが、今はこれだけでも充分過ぎるほどだ。

 直ぐに戻って、子供たちに椰子の水を飲ませた。三人とも喉を鳴らして飲んだ。銃剣で椰子を割って、中の白い実も食った。五人はやっと一息ついた。子供たちに少し元気が戻ったのが、一彦と美千代にはうれしかった。

 後方の砲撃音が近づいてくるような気がする。逃げなければならない。一彦と美千代は子供たちを励まして、歩き出した。

 赤ん坊を連れた若い夫婦が倒れていた。一彦と美千代は、視線を向けずに通り過ぎようとした。母親から声を掛けられた。

「すいません、水を貰えませんか」

 一彦は持っていた水筒を振って見せた。

「空なんですよ。見つかるかどうか分かりませんが、私はさっきジャングルで椰子をひとつ拾いました。探してみてはどうですか」

「妻も私ももう動けません。この子を連れて行ってくれませんか。このままじゃ、直ぐに死んでしまう」

 一彦と美千代は顔を見合わせた。互いの考えが一致した気がした。

「うちにも小さい子がいて、申し訳ないが連れて行けない。我々も何処まで歩けるか分からないのです」

 美千代は赤ん坊を見ないように、腕の中の則夫を見つめた。

「兵隊に貰ったのですが、これを置いていきましょうか」

 一彦は手榴弾を見せた。

 美千代は複雑な気持ちで一彦を見つめた。もしかすると自分たちにいつか必要かも知れないという思いと、自分たちに今まで使わずに済んで良かったという思いが、半々だった。

 若い夫婦は見つめ合い、頷き合い、夫がそれを受け取った。

 一彦たちがふらふらと歩き始めて五分もしないうちに、後ろで爆発音がした。五人はビクッとして立ち止まったが、振り返らずに再び歩き始めた。


 軍と一緒に撤退行動している従軍看護婦たちがいた。兵隊たちのようにただ撤退しているのではなかった。傷病兵の看護をしながらの撤退である。

「看護婦さん、足が痛い。軍医殿に痛み止めを頼んで下さい」

 松本一等兵の右腿には、ウジが湧いていた。

「松本さん、お気の毒ですが痛み止めはもうありません。包帯を交換しますから、もう少し我慢して下さい」

 敗走する日本軍には、医療器も医薬品も無かった。竹田看護婦は松本一等兵の汚れた包帯を解き、ピンセットでウジを取り除いてから、洗ってある包帯を巻いた。傷口に塗る消毒液さえも無かった。

 お国のために、兵隊さんたちのために、と外地勤務を希望した竹田だが、ろくな看護もできない状況に失望していた。傷病兵をもっと助けたい、もっと楽にしてあげたい、痛みから救ってやりたい、と思っても、何もしてやれなかった。がんばって下さいと声を掛け、ウジを取って包帯を交換することしかできないのだ。

 軍医の罵倒が聞こえた。

「中島、例え体温計一本と(いえど)も軍の大事な機材である。それを割るとは、たるんでいるぞ」

 その時、中島看護婦は悔し涙を堪えた。自分の失敗が悔しいのではない。敵から逃げている軍でありながら、より弱い立場の看護婦に当たるしか能のない軍医の元で働かなければならないことが悔しいのだ。

 看護婦が体温計一本を過って割ったことに激怒する軍医は、医薬品の入手さえできず、お国のために傷付いた兵隊たちを見殺しにしている。それ以前に、歩けない兵隊たちを殺していた。血管に空気を注射して殺したのだ。戦陣訓の一節、生きて虜囚の辱めを受けず、に従った処置だ。

 国家のため、天皇のためと戦場に送られ、戦闘で傷付き、あるいは食料の欠乏による体力低下で病気になり、風土病にやられ、最後は自力で歩けないから、と軍医に殺された兵隊が数多くいるのだ。

 米軍では、捕虜になることは、最前線で武器弾薬が無くなるまで戦った勇敢な戦闘の証拠であり、依って名誉である、としている。そして脱走するのは捕虜の義務である、という。捕虜としての戦いである。

 日本軍においても、たとえ名誉とまで考えなくても、捕虜となることを承認していたなら、多数の命が救われたはずである。

 戦闘を継続すれば全滅する事が分かっていて全滅した部隊、捕虜になることが許されず絶望的なバンザイ斬り込みをした兵隊たち、捕虜になるくらいならと自決した兵隊たち、味方に殺された傷病兵たちを合わせれば、相当の命が無駄に戦場に廃棄されたことになる。

 愚かという言葉で表現するには余りに空しい戦陣訓である。狂っている。

 看護婦たちも着たきりで、兵隊と一緒に行軍している。汚れ放題である。兵隊は銃を担いで歩いているだけだが、看護婦は傷病兵の看護をしたり、包帯を洗ったり、兵隊よりも負担が大きいのだ。

「看護婦さん、この腕はもう駄目なんでしょうね。腐って、臭っています。切るしかないですか」

「杉浦さん、痛いでしょう。傷口を洗って、包帯を換えましょう」

 岡村看護婦は答えをはぐらかした。杉浦一等兵に与えるべき、鎮痛剤も化膿止めも無かった。洗う水さえ、無い。切るにしても、麻酔も無い。メスも無い。そんな状況で、腕は切り落とすしかない、とはとても言えなかった。

 赤十字所属の看護婦たちは、日本軍が勝っているときに外地勤務を志願したが、今は後悔していた。身の危険も感じるし、軍と一緒の行軍も体力的につらい。そして、看護婦として病人、けが人に尽くせないことが歯がゆかった。

 滋養のある食事、点滴、薬、清潔なガーゼや包帯、手術器具などがあれば、軍医を補助して命を救えたり、痛みを取り除いてやれる。看護婦である自分には、それができる。そのために、祖国から何千里も離れた外地に来ている。包帯交換だけなら、兵隊でもできる。そんなことのために看護婦になったのでも、外地勤務を希望したのでもない、という誇りがある。

 しかし慰安婦の定期検査をしているときは、実に複雑な気持ちになった。戦場にいる女は、自分たち看護婦と彼女たち慰安婦だけである。

「異常ありません。また次回、忘れずに来て下さい」

「わたし、いつまてこんな生活つつくのか、早く朝鮮に帰りたいな」

「あなたは朝鮮から来たの」

「日本人にたまされて連れて来られたよ」

「お金を貰って、納得して来たのではないですか」

「嘘たよ、たまされたよ。日本人は女子愛国奉仕隊というしことたと言った。私の親は私を行かせたくなかったけと、日本人は無理矢理私を連れて行った」

「愛国奉仕隊と言われたんですか」

「それ、何かちぇんちぇん分からなかった。ここに来て分かった。ても、もう遅い。朝鮮に帰りたいけと、帰ってとうなる」

 慰安婦は高給の募集に応募した者たちだと聞いているが、金儲けのために騙して集めた日本人もいたのかも知れない。なんと哀れなことか。同じ女として心痛い話だが、軍の方針なら批判的なことは決して言えない。言っても、非国民のひとことでかたづけられるだけだ。

 とにかく同じ女性が、命がけで戦場に来ている。看護婦には看護婦という誇りがあるが、慰安婦の中には騙されて連れて来られて、しかも売春を強制されている者たちがいる。女性にとってこれ以上不幸なことは無い。

 男というものは、戦場でも女が欲しいものなのか。何処の国の軍隊でも、そうなのか。看護婦たちには考えても分からなかった。

 食料の欠乏、医薬品や器材はとうに無く、助けられるはずの傷病兵も回復しない。そして軍医が、敵の捕虜にならないようにという配慮で、助からない傷病兵に適切な処置を行う。

 栄養失調でふらふらになりながら歩き、包帯を交換し、着替えも無く、風呂にも入れず、赤痢、チフス、マラリアに罹患し、希望無くまた歩く。

 何故降伏しないのか。何故看護婦や慰安婦までが、敗走する軍と一緒になって移動しなければならないのか。俘虜にならないのであれば、何故戦わないのか。何故食料や武器弾薬を補給しないのか。何故傷病兵を味方が殺すのか。このような軍隊が敵に勝てるのか。そんな率直な疑問は湧いた。しかし、看護婦も慰安婦もそのようなことは決して言葉にはできなかった。


 黄色い猿

 ワシントン特別区(DC)ペンシルバニア通り(アベニュー)一六〇〇番地(ホワイトハウス)で、車いすに座ったボブ・グラハム大統領が、ボブ・チャンバレン国務長官、トム・ステファン国防長官、スティーブ・ウォーターズ統合参謀本部議長、キース・アッカーマン陸軍参謀総長、デニス・ワグナー海軍作戦部長、ビル・シュミット空軍参謀総長、ドン・バークマン海兵隊総司令官らと、日本との戦争遂行に関する議論をまとめようとしていた。

「要するにだ、諸君、極東のくそったれ(ファッキング)黄色い(イエロー・モンキー)には、我々白人と同じ様に植民地を経営することは許さない、と言うことだ」

「次回の日本側全権との交渉では、決して呑めない条件を最終条件として提示しましょう」

「すると、ジャップは戦争を仕掛けてくるかも知れません」

「仕方がない。合衆国の世論は未だに戦争反対だ。となれば、向こうから仕掛けさせるしかない」

「我が海軍が日本海軍の無線を傍受したところ、ハワイの真珠湾(パール・ハーバー)を攻撃するような暗号が行き交っていることが判明しています」

「何だと(ブルシット)。対策は万全でしょうな。必要でしたら空軍も援護しますよ」

「いや、パール・ハーバーの艦船はジャップにくれてやろうと思っています。それで世論が日本との戦争やむなし、となれば安いものです。艦船などいくらでも建造できる」

「世論操作ですか」

「合衆国の利益のためだ」

「暗号を解読していることも敵に悟られずに済むな」

「戦争はどれくらい続くかな」

「そうですね、三年から三年半でしょう」

「占領後はどうする」

「まずは京都見物です。従って京都は空爆目標から外します」

天皇(エンペラー)は」

「廃止だ」

「アメリカ国籍を持つ二世を含めた日系人の措置は」

「二世を含めて収容所に入れましょう」

「ドイツ系やイタリア系移民はそのままですね」

「ジャップは最近の移民だ。それに、やつらには表情というものが無く、何を考えている分からない不気味さがある」

「日本語を理解できる二世なら、情報収集に使える。合衆国に忠誠を誓う二世は使い道があると思うが」

「それもそうだ」

「原子爆弾開発の進捗はどうだ」

「今はまだ検討委員会の段階ですが、開発プロジェクトが発足すれば三年から四年で完成する見込みです」

「戦争終結までに完成したとして、使用するのですか」

「必要があれば、だ」

「ドイツやイタリアには」

「必要無いだろう」

「ニップが日清戦争で志那(チャイナ)に勝ったのは、良しとしよう。しかし、日露戦争でロシアに勝ったのは生意気だ。有色人種(カラード)白人(ホワイト)の領域に入り込まないように、適切な対策を取ることにしよう。これ以上つけ上がらせてはならない」

 感情が激して、ボブ・グラハムは手に持っていたシェーファーを折ってしまった。


 ジャック・柏木は迷っていた。陸軍への志願の締め切りは明朝だ。

 父の米蔵は、好きにしろ、と言ってくれた。母のキミは、大反対だ。

 ジャックの迷う理由は、父母の意見の相違ではない。ジャック自身は、自分の決めたことはやる性格だ。しかし、その決定ができないでいた。

 日系人は戦争前も差別されてきた。父母は国籍を取得できない。

 国籍を持っている自分も、戦争が始まってから収容所に入れられている。アメリカ人であるにもかかわらず、日系だからという理由だけで自由を奪われている。だから、アメリカという国を恨んでいる。

 ジャックは同時に、日本という国も恨んでいる。日本がパール・ハーバーをアタックしなければ、収容所に入れられることは無かったのだ。

 命がけで合衆国に忠誠を尽くすことで、収容所から出られ、いずれ日系人への差別も軽減されていくことを期待するか、一切合衆国には忠誠も協力もせず、このまま収容所に閉じ込められているか、結論が出せずにいた。

 犯罪者でもないアメリカ人である自分が、刑務所と変わり無い収容所に入れられ、そこから出るには命をかけて軍隊に志願しなければならないとは、余りに理不尽だ。

 もちろん白人にも、戦場で戦うことを志願した者は多数いる。しかし彼らは自由意志で、あるいは市民の義務と信じて志願したのだ。強制ではない。日系人の場合は、収容所に残るか戦場に出るかの選択なのだ。

 日本人の血が流れていることに間違いは無いが、生まれた国はアメリカだ。アメリカで育ち、教育を受け、生活をしてきた。家では日本語を使うが、読み書きはできない。母国語は英語であり、日本語は外国語だ。

 日本人と戦闘すること自体に、迷いは無い。ただ、一方的にアメリカの思うつぼにはまるのが腹立たしいのだ。

 自分の自由を得るためには、戦場で戦うしかないのか、とも思う。アメリカ人の先祖も独立戦争を戦った。ヨーロッパの食い詰め者が新大陸(アメリカ)に渡り、母国から独立するために銃を執った。日本の食い詰め者がアメリカに渡り、その息子がアメリカから自由になるために父母の母国と戦うのも大差ないのか、とも思う。

 父は、ジャックを大人として、独立した人格として認めてくれている。だから、このまま収容所に留まろうと軍隊に志願しようと、思うとおりにすれば良いと言う。ありがたいと思う。

 母は、自分の産んだ子が死ぬかも知れないということに、耐えられない。当然の感情だと思う。

 弟のマイクがどうするのかも考えてしまう。自分の影響でマイクまで志願し、二人とも戦死したら、父母の落胆はどれほどか。かといって自分は志願するが、マイクに父母を頼む、とは言えない。父が自分の意志を尊重してくれるように、兄は弟の意志を尊重しなければならない。それに気づくと、ジャックは父の苦悩の深さを知った。勇気を知った。強さを知った。覚悟の深さを知った。

 人生は一度しか無い。後悔の無い人生を過ごしたい。長短ではない。だからこそ、父もジャックの判断に意見を差し挟まないつもりなのだ。

 収容所で腐って生きるか、前線で戦死するか。収容所で安全に生きるだけの人生を選ぶか、戦争を生き残って自由を手に入れる事に賭けるか。

 明け方まで考えてジャックは、人生は挑戦(チャレンジ)するもの、と決めた。軍への志願は、この現状を変える(チェンジ)為の機会(チャンス)と捉えた。

 朝食のコーヒーをひとすすりして、ジャックが言った。

「お父さん、お母さん、僕は軍に志願することに決めた」

「お母さんは反対よ」

「お母さん、ジャックはもう大人だ。軽はずみな判断をした訳じゃない」

「じゃあ、お父さんはジャックが戦争で死んでも良いの」

「そういうことを言っているんじゃない」

「同じ事よ」

「ジャックは我々の息子だ。お母さんのそんな気持ちも分かって決断したはずだ」

「ジャックが死ぬなんていやの」

「死ぬと決まった訳じゃない」

「白人じゃないから、きっと危ない任務に就かされるわ」

「ジャックは勇敢に任務を果たすだろう」

「父親はそれで良いかも知れないけど、母親は耐えられないのよ」

「兄さん、勇気は大事だけど、無謀な事はしないで欲しい」

「分かっているよ、マイク。おまえが将来どうするかは自由だが、ここにいる間はお父さんとお母さんを頼む」

「ああ、もちろんだ。いつか戦争は終わるだろうし、そうすればここからも出られるはずだ。僕は大学に行くかも知れない」

「その頃はお父さんも庭師(ガーデナー)に戻っているな」

 ジャックはハイスクールの同級生だったアーチ・石川、トム・戸ヶ崎と共に、合衆国陸軍に志願した。日本語能力が高ければ語学兵として、太平洋戦線において前線から一歩退いたところで日本軍の情報収集任務に就く道もあったが、ジャックもアーチもトムも一般の歩兵としてヨーロッパ戦線に送られた。

 日系人部隊は、ドイツ軍に包囲されて身動きできないテキサス大隊を救出する任務に就いた。それまで白人の救出部隊が、何度も挑んで成功できなかった作戦だ。日系人部隊は任務を成功させ、三人は彼らにとって最後の戦闘を勇敢に成し遂げた。ここにも人種差別があった。


 戦争協力

「相木さん、海軍に協力をお願いできませんか」

「島崎さん、協力したいのは山々ですが、目が駄目になってしまったんですよ。もう歳ですから」

 海軍報道部の係官島崎が、洋画家の相木(あいき)繁史(しげし)を訪問していた。海軍省嘱託従軍画家として、志那戦線を題材とした戦意高揚の絵画を描かせるためである。

「いや、ご謙遜を。最近の先生の絵もご立派なものです」

(絵に、立派も糞もあるものか)「自分で納得できない絵は、人様にお見せできません」

「実際の所、先生のお名前、実績も重要なのですよ。先生が描くことに、意義もあるのです」

(そういうことだろうと思った。下らない権威主義だ)「私なんぞ、ただの老いぼれで、もう絵も描けないし、従軍する体力も無いのです」

「従軍については、現地の方で充分に考慮します。やたらにあっちこっちと、引きずり回したりしないことはお約束します。それに、なんと言いますか、美術というか、芸術というか、美しいだけの絵が欲しいのではなく、戦意を高揚する絵が欲しいのです。先生なら多少、その、目が、全盛期ほどでないにしても、すばらしい絵が描けるはずです」

(戦争になど協力したくないのだ。戦争は芸術の敵だ。言ってもわからんし、言ってはとんでもないことになるが)「なんと言われても、今の私にはそのような力はありません、悪しからず」

「しかし、先生、今は非常事です。米英と戦争をやっているのです。そのような個人のわがままも、ある程度は制限して戴きませんと。兵隊は、戦地で血を流しています。女学生でさえも、軍需工場で兵器を生産しています。画家の先生には、絵で戦争に協力して貰いたいのです」

(しつこいやつだ。私は芸術の奴隷にはなるが、軍の奴隷にはならない)「私の絵は、ご存じの通り裸婦が多く、軍からは、時勢にふさわしくないとか、堕落しているとか、軟弱だとか、全く評価されていないはずです」

「だからこそ、巻き返しの好機ではありませんか。ここで軍に協力しておけば、評価も違ってきます」

(そんな評価には、意味が無い。軍にしっぽを振ったら、それは、芸術の自殺だ)「女の裸を描いてきた私に、海軍が望むような絵が描けるでしょうか」

「もちろんです。それに、カンバスや絵の具も優先的に提供されます」

(今度は、協力しなければ画材をくれない、という脅しか。低俗な軍の考えそうなことだ)「私は筆を置こうと考えています。もはや人様にお見せできる絵が描けないのですから」

「どうあっても協力しないと言うことですか。まさか、アカという訳ではありませんね」

(何でもかんでも政府や軍に反対するものはアカか。単純な頭だ。赤の美しさを知らないのか。色のことだが。)「アカなどとんでもない。ただの絵描きです。それが、歳で目が悪くなって、絵が描けなくなったのですよ」

「軍に協力しないと、これからは絵の具も手に入りませんよ」

(芸術は戦争に協力しない。協力したとき、それは芸術ではなくなっている。そうはっきり言ってやりたいが、こんなやつには理解できないだろう。それに、特高に引っ張られるかも知れない。家族も、ただでは済まない。戦争画を描かないことだけが、自分にできる最大限の意地だ)「目が悪くて描けないのですから、絵の具も筆ももう要りません」

「画壇からも排斥されますよ」

(軍が怖くて喜んで戦争画を描くような奴らがうようよ居る画壇なら、こっちから願い下げだ。)「絵が描けなければ絵描きでもありませんから、必然、画壇にもいられないでしょう」

「後になって、協力させてくれと泣きついても知りませんよ」

(誰が軍に泣きつくか)「お役に立てなくて残念です」

 相木繁史は海軍への協力を断った。戦争もいつかは終わる。それまでは、発表できなくても、絵の具が手に入らなくても、何とか工夫して絵を描き続けるつもりでいた。

 ただ、大量殺戮である戦争に協力は絶対にしたくない、と思った。自国への侵略に対する抵抗であるなら、考えるところもある。しかしこの戦争はその逆で、他国を侵略しているのだ。

 確かに戦争を選択せざるを得なかった事情はあるかも知れないが、日本人にとってもアジア諸国にとっても悲惨なこの戦争の進め方には納得できない。戦意高揚など絶対にしてはならないこと、と信じていた。芸術家の良心であった。


 小説家柴原(しばはら)清義(きよし)は、陸軍報道班員として南方を従軍取材して、戦意高揚小説を書いていた。

 柴原は文壇にデビューして四年、まだ確固たる地位を築いてはいなかった。だから、仕事があれば断らずに書いてきた。質は量をこなせば上がってくる、と信じていた。仕事を選ぶほど実力がある、とは思っていなかった。書かせてくれるなら書いて、実力を付けて、いつか質の高いものを書けるようになりたい、それが精進だと信じていた。

 陸軍から戦意高揚小説執筆の依頼があったときも、ひとつの機会として有効に利用しようと考えた。南方への従軍取材も、小説家として貴重な経験になるだろうと期待した。

 一九四二年一月一一日、帝国陸軍第五師団は英領クアラランプールを占領した。柴原も誇らしく入城した。柴原から見ても、帝国陸軍は勇敢で強力であった。

 柴原は占領前の戦闘から安定的な占領を実現するまでを、後日小説として発表するためにメモを付けていた。

 昭和一七年一月一日

 皇紀二六〇二年が目出度く明けた。しかし、皇国の兵士には大晦日も元日も無い。

 馬来(マレー)半島クアラランプールを一日も早く占領せんと、帝国陸軍第五師団は今日も敵を討つ。

 昭和一七年一月六日

 皇軍の士気はますます高く、統率に乱れ無し。

 武器弾薬に不足無く、糧秣は潤沢、補給に不安無し。

 昭和一七年一月九日

 敵は徐々に後退、皇軍は進撃。負傷兵は後方へ送り、治療。

 敵の捕虜多数を捕獲。

 昭和一七年一月一一日

 遂に皇軍クアラルンプールを占領。目にも鮮やかな日章旗が、馬来の空に翩翻と舞う。

 現地民は英国の支配から解放され、皇軍将兵を歓迎す。

 昭和一七年一月一五日

 占領は順調に推移し、治安は回復。現地民は安寧な生活に戻りつつあり。

 しかし帝国陸軍に油断無く、日々の任務を粛々と遂行。

 昭和一七年一月二一日

 非番の皇軍兵士、連れだって市内見物。微笑ましくも、現地民とバナナと煙草の物々交換などあり。

 昭和一七年一月二四日

 現地民三名、英国のスパイ容疑で銃殺。さらに二名、銃剣にて刺殺。スパイの処刑はやむなし。

 昭和一七年一月三〇日

 皇軍兵士の一部に、現地民財産の略奪ある模様。家畜は食料とするため。その他家財道具、女性の服飾品などを奪う者あり。略奪者に将校はいないと思われる。命がけで戦闘した兵隊の憂さ晴らしか。

 昭和一七年二月一一日

 紀元節。一同宮城に向かって遙拝。

 クアラルンプール占領からひとつき経過。

 皇軍兵士の中に、現地民女性に暴行するもの少なからずある模様。

 皇軍の士気の乱れを感ず。慰安婦がいれば、と思う。残念。

 柴原は軍にとって余計と思われる部分を省いて、クアラルンプール占領の小説をまとめ、発表した。当然、軍の検閲を受けたが、特に問題となる部分は無かった。


 三年後、昭和二〇年二月、柴原は硫黄島にいた。

 自身が死ぬかも知れないことに、気づいていた。兵隊は所謂玉砕させられる。生き残る者がいれば、それはむしろ事故と言える。誤って生き残った、ということになる。そうとしか思えない戦闘条件だった。

 兵力と物量の比較で圧倒的不利であるにもかかわらず、援軍は望めなかった。司令官の古閑中将は玉砕を覚悟し、それをどれだけ遅らせることができるかだけを考えていた。

 戦闘員ではない柴原も、おそらく死ぬだろうと諦めざるを得ない状況だ。死ぬことが避けられないなら、最後の作品くらいは真実を書きたいと思った。

 もはや逃げる手段は無い。兵隊達は全員死ぬ。自分だけがじたばたするのはみっとも無いのもあるが、本来、戦闘を取材して作品にまとめるのが自分の仕事だ。今回だけは、軍に気に入られなくて良い。兵隊達の真実と戦闘の現実を書いてやる。万にひとつでも生き残ったら、本当の戦争を内地の人たちに教えてやる。柴原はそう覚悟した。

 古閑中将は真正面からの戦闘ではなく、ゲリラ戦を考えた。いずれ玉砕は覚悟の上での、時間稼ぎのためだ。その稼いだ時間で本土防衛準備ができれば良い、米軍の本土空爆が一日でも遅くなれば良い。

 古閑は兵隊にトンネルを掘らせた。トンネルを行き来して、神出鬼没の小規模攻撃を果てしなく繰り返そうという戦術だ。

 食料と水を制限した。米軍艦船が島を包囲し、制空権も無い状況で補給は得られない。食料と水が無くなるとき、弾薬も無くなり、兵隊達の命も無くなるのだ。どれかひとつでも残っては、もったいない。全てを使い切るまで、米軍に抵抗するのだ。

 大本営は、負けることが分かっていながら、硫黄島の守備を古閑に命じた。古閑は一三、五〇〇名余りの兵隊を全員殺す覚悟をして、そのために最も価値のある死なせ方を考えたのだ。

 米軍の、上陸に先立つ空爆が始まった。古閑はじっと身を潜めて、やり過ごした。帝国陸軍に、B―二四爆撃機の飛行高度に到達する高射機関砲は無かった。

 六〇日間にわたる空爆の後、艦砲射撃が始まった。砲弾はまさに雨のように降ってくる。帝国陸軍は、やはりトンネルに避難して艦砲射撃を躱した。

 三日間の艦砲射撃の後、上陸用舟艇が浜に乗り上げてきた。古閑は、応戦させなかった。上陸を阻止するための応戦は、自軍の損害も大きくなる。それより、兵力を温存して、トンネルを使用したゲリラ戦に備える考えだ。

 日本軍の抵抗が無いことを訝りながら米軍は上陸し、物資を陸揚げした。空爆と艦砲射撃で日本軍にダメージを与えたとしても、おそらく一〇、〇〇〇名以上の兵力が残存しているはずで、このままで済むとは思っていなかった。

 米軍は偵察機を飛ばすが、日本軍の基地は発見できなかった。

 満を持して、日本軍のゲリラ戦が始まった。一〇名から二〇名の単位で米軍の基地や偵察隊を補足すると、歩兵銃で狙撃したり手榴弾を投げて、直ぐにトンネルに逃げ込んで逃走した。

 基地が分かれば空爆や艦砲射撃、陸上から砲撃ができる。米軍には、弾薬は使い切れないほどある。だが、トンネルを使用したゲリラ攻撃は、米軍を悩ませた。

 今まで経験した日本軍ではなかった。死ぬことを前提に、ボルトアクションの歩兵銃や日本刀(サーベル)を振り回しては突撃してこない。突然攻撃され、敵の位置を確認する前に消えてしまう。古閑中将の作戦指揮に、米軍は恐怖を感じた。

 苦戦しながらも米軍は圧倒的な兵力、武器、弾薬によって日本軍を攻撃した。トンネルには、火炎放射器を使用した。ガソリンを流し込んで火を点ける作戦も採られた。

 日本軍は食料が乏しく、何より水の無いことが極めて深刻だ。

 一等兵が訊いてきた。

「柴原さん、水が残っていたら一口分けてくれないか」

「いや、私も昨日から一滴も飲んでいないのです」

「そうですか。上等兵殿、自分は水を探しに行ってきます」

「いかん、まだ明るい。日が落ちるまではトンネルから出てはならん」

「では、上等兵殿の水を下さい」

「馬鹿者、貴様、俺に逆らうのか。それに、俺も水は無い」

「もう我慢できません。アメ公を撃ち殺して、水筒を取ってきます」

「だめだ。おまえが発見されると、ここにいる全員がやられる」

「うるさい。俺はもう我慢できない。水が飲めないなら、殺してやる」

 一等兵が上等兵に小銃を向けて、遊底を引こうとしたが引っかかった。その隙に、上等兵が自分の小銃で一等兵を撃った。一口の水のために同じ隊の者同士が殺し合いをしたことを、柴原は後でメモに残した。

 勝ち戦の時は深く考えなかったが、死が自分の身に降りかかって疑問が湧いた。大本営の作戦は、正しいのか。何故、援軍を送って寄越さないのか。何故、食料も水も無く、戦えと言うのか。俘虜になることは、何故恥ずかしいことなのか。

 分かってはいる。戦局が厳しくなっていることは感じていた。制空権を失い制海権も無い状況では、補給はできない。現実、援軍として割ける兵力も無いだろう。だが、食料も水も弾も無くて、どうやって戦えと言うのか。

 精一杯戦ったら、降伏しても良いのではないか。食うものが無く、水が無くて、味方同士で殺し合いをしている。弾も尽きる寸前だ。本土防衛のために、やれるだけはやった。せめて、生き残っている兵隊を降伏させてやってはどうか。ただの無駄死にをさせるのは、何のためか。米軍に投降しようとした兵隊を、別の兵隊が撃ち殺したのも見た。

 虜囚の辱め、とはどういう意味なのか。軍上層部は、前線のこの状況を知っているのか。知るはずが無い。現地司令官はひびきの良い言葉で玉砕の覚悟を大本営に打電する、というのが習わしになっているのだから。

 米軍では、部下の損害の多い指揮官はその指揮能力を疑われる、と聞いたことがある。

 日本軍は、全員死ね、と言う。

 柴原は万一生き残ったら、どちらが正しいのか世に問う小説を書こうと、胸の手帳を服の上から押さえた。ここで生き残ったら、その小説を発表した後に特高や軍に殺されても良いとさえ思った。


 大本営陸海軍部発表

 大東亜速報は、日本で最も権威があるとされている日刊紙である。その記者大谷幸平は、いつもの通り大本営に詰めいていた。

 大谷は五二歳。特ダネを求めて飛び回る体力も気力もいつか無くなり、今は大本営の発表を受けて、それを記事にするだけの仕事に疑問も無く振り返ることもせず、淡々とこなしている。

『大本営発表(昭和二〇年三月一〇日一二〇〇時)

 本三月一〇日〇時過より二時四〇分の間B二九約一三〇機主力を以て帝都に来襲、市街地を盲爆せり。

 右盲爆により都内各所に火災を生じたるも宮内省主馬(しゅめ)寮は二時三五分、其の他は八時頃迄に鎮火せり。

 現在迄に判明せる戦果次の如し。

 撃墜一五機。

 損害を与えたるもの約五〇機』

『大本営発表(昭和二〇年三月一二日一六時三〇分)

 本三月一二日〇時過より三時二〇分の間B二九約一三〇機主力を以て名古屋市に来襲、市街地を盲爆せり。

 右盲爆により熱田神社に火災を生じたるも本宮、別宮等は御安泰なり。

 市内各所に発生せる火災は一〇〇〇時頃までに概ね鎮火せり。

 現在迄に判明せる戦果次の如し。

 撃墜二二機。

 損害を与えたるもの約六〇機』

『大本営発表(昭和二〇年三月一四日一二時)

 昨三月一三日二三時三〇分より約三時間に亘りB二九約九〇機大阪地区に来襲、雲上より盲爆せり。

 右盲爆に依り市街地各所に被害を生ぜるも火災の大部は本一四日九時三〇分頃までに鎮火せり。

 我制空部隊の邀撃(ようげき)に依り来襲敵機の相当数を撃墜破(こうむら)せるも其の細部は目下調査中なり』

『大本営発表(昭和二〇年三月一四日一六時三〇分)

 昨三月一三日夜半より本一四日未明に亘り大阪地区に来襲せる敵機の邀撃(ようげき)戦果次の如し。

 撃墜一一機。

 損害を与えたるもの約六〇機』

『大本営発表(昭和二〇年三月一七日一六時)

 本三月一七日二時三〇分頃より約二時間に亘りB二九約六〇機神戸地区に来襲、市街地に対し主として焼夷弾による無差別爆撃を実施せり。

 右爆撃により市街地に相当の火災発生せるも其の火勢は一〇〇〇時迄に概ね制圧せられたり。

 我空地制空部隊は果敢に之を邀撃し其の二〇機を撃墜、他の殆ど全機に損害を与えたり』

『大本営発表(昭和二〇年三月一九日一四時三〇分)

 本三月一九日〇二〇〇時頃より約三時間に亘りB二九、百數十機、一機若くは数機編隊を以て名古屋に来襲、主として焼夷弾により市街地を爆撃せり。

 右爆撃の為火災により市街地に被害を生じたり。

 来襲敵機に相当の損害を与えたるも詳細は目下調査中なり』

『大本営発表(昭和二〇年三月二一日一二時)

 一、硫黄島の我部隊は敵上陸以来約一箇月に亘り敢闘を継続し、殊に三月一三日頃以降北部落及東山附近の複廓字陣地に()り凄絶なる奮戦を続行中なりしが、戦局遂に最後の関頭に直面し「一七日夜半を期し最高指揮官を陣頭に皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ全員壮烈なる総攻撃を敢行す」との打電あり、()()通信絶ゆ。

 二、敵兵同島上陸以来三月一六日迄に陸上に於て之に与えたる損害約二三、〇〇〇名なり』


 大谷にはふたりの息子がいた。一九歳の長男が(はじめ)、一六歳の次男は二三(つぎぞう)という。

 昭和二〇年三月下旬の夕食時である。一が大谷に言った。

「父さん、今月も相当回数の空襲があるね」

「ああ」

 二三も話しに加わった。

「灯火管制で電灯もまともに点けられないから、寂しい食卓がよけい寂しく見えるしね。あ、母さんの料理の事じゃなくて、配給の食糧が乏しいと言うことだからね」

 大谷の妻、道代が返した。

「食料だけじゃなくて、醤油だって砂糖だって何だって配給だから、食べ物も少ないけど、味付けも思うようにはできないの」

「戦争をしている、非常時だ、というのは分かるけど、食うものもなく、こうしょっちゅう本土空襲されるようじゃ、日本は危ないのかな」

「兄さん、そんなこと誰かに聞かれたら」

「分かっている。家族だから話しているんだ」

「父さん、大本営発表はどの程度正しいのかな。確かに真珠湾攻撃からしばらくは正確だったと思うけど、この頃はどうかと思う。多分最初は確かに大本営の言うとおり勝っていたんだろうけど、空母を失ったり、転進したり、食糧やいろんな物資が欠乏してきたり、本土が空襲されたりしていることを考えると、おかしいと思う」

「兄さん、作戦によって勝つときも負けるときもあるけど、最後は日本が勝つよ。ねぇ、父さん」

「そうだな。(はじめ)二三(つぎぞう)が言ったように、そんなことは決して外では言うなよ」

「分かっているって。父さんは、大本営発表を信じているの」

「信じているから、その通り書いている」

「とうとう硫黄島が玉砕したと発表されたけど、そうなると硫黄島からの米軍爆撃機による本土空襲がもっと増えることになるね」

「かも知れないな」

「それに対して大本営は、どういう風に対応するとも何も言わないのはどうして」

「それは当然軍事上の機密事項だ」

「作戦機密はともかく、方針だけは示して欲しいと思うけど」

「おまえはどこからそんな考えを仕入れてくるんだ」

「新聞やラジオ。新聞もラジオも、大本営発表は同じだけど、あとは自分で考えている」

「おまえ、毛唐の放送は聞いていないだろうな」

「家にはそんなラジオは無いよ」

「おまえは大本営発表を疑っているのか」

「敵に情報収集力を知らせないために、あえて知らないふりをするとか、国民に全ての情報を即時に開放することはできないかも知れない。米英だって情報管理というか、国民に秘密にしていることはあると思う。だけど、ある程度の真実は知らせて欲しい。僕も二〇歳になったら学徒出陣だから」

 四人とも、茶碗一杯の雑炊の夕食は直ぐに終わった。

「大本営も本土空襲や硫黄島玉砕を発表しているだろう」

「それは、隠しきれないからだと思う。退却を転進と言い換えたり、全滅を玉砕と飾って、少しでも誤魔化そうとしていように思えるんだ。本土を空襲したB二九だって、本当に撃墜しているのかどうか分からない」

「いい加減にしなさい。普段からそんなことを考えていると、つい他人にも漏らしてしまうかも知れない。特高に密告されたら殺されるぞ」

「僕はアカでもないし、学徒出陣も仕方ないと思っている。非国民になるつもりは無いよ。ただ、国家が国民に忠誠を求めるなら、国家も国民をもう少し信じても良いと思う」

「その考え方を、世間ではアカと言うんだ」

「世間は、面倒なことは何でもかんでもアカの一言で片付けるけど、本当に共産主義の意味が分かっているのかどうか」

「兄さんは分かるの」

「共産主義には、無理があると思う。蘇連(それん)はいずれ破綻するはずだ」

「どうして」

「人間の欲望と共産主義は相容れないからさ」

「ふたり共いい加減にしなさい」

 一は自分の言葉に酔っていた。父とこのような話しをしたのは、初めてだった。あと数ヶ月で戦場に送られるかも知れない、という恐怖もあった。自分という人間、自分の考えを、誰かに伝えておきたい、という本能のような願いもあった。

「父さんには育てて貰ってありがたいと思っている。父さん個人を絶対に批判する訳じゃないけど、新聞社は海外の情報を仕入れて、それを報道することはできないのかな」

「検閲がある。下手をすると紙の配給が止められる」

「やっぱり経営があって、給料も払われるわけだね。そうだなぁ」

「何が言いたい」

「大本営発表だけじゃなくて、外国のラジオ放送を傍受して、内容を分析して、記事にするとか、そういうことはできないのかと思って」

「そう思っているやつも、いるにはいる。しかし、特高もいるし、検閲もある」

「せめて、軍に協力しない、と言う立場も取れないだろうね。そうしたら紙の配給が無くなって会社がつぶれるから」

「その通りだ。おまえは戦争に反対なのか」

「分からない。戦争を仕掛けたのは日本かも知れないけど、そう仕向けたのはアメリカだと思う。仕方がない、と言う面もあったと思う。始めたからには勝ちたい、とも思う。けど、内地空襲で非戦闘員の子供や年寄りや女も無差別に殺されている。アメリカ人は正に鬼畜で、人種差別があって、日本人なら女子供でも平気で焼夷弾で焼き殺す。だからどこかで戦争を止めることも考えないと、国そのものが無くなるよ」

「おまえは学徒出陣が怖いから、そう言うのか」

「そりゃ怖いけど、それだけじゃなく、理性的に考えてみれば僕の言ったことは間違ってないと思う」

「日本人の多くがそう思うようになれば、政府や軍も考えるだろう」

「でも国民は大本営発表だけじゃ、真実の状況を理解できない。それに、自由な意見も言えない」

「じゃ、どうすればいい」

「だから、報道だよ。政治家は全くだめだから。新聞、雑誌、ラジオがこういう時に立ち上がるべきだと思う。」

「おまえは父さんが会社を首になったり、特高に引っ張られても良いのか」

「そう訊かれると、困る。だから、自分も情けないひとりの日本人と言うことだね」

「確かに新聞も雑誌もラジオも、小説だって絵画だって音楽だって、戦争一色だ。戦争に協力している。子供は学校に行けずに、軍需工場に行っている。子供に教育を与えず、食べ物も与えず、国の将来はどうなるのかと思う」

「あなたまでそんなこと言って」

「そう思っても、個人じゃどうにもできない。自分の生活を守るだけで精一杯だ。正義というものは、時代や状況に依るものらしい。今は、軍に協力するのがこの国の正義だ。絶対的な正義など、自分の良心の中にしかないだろう」

「父さんのおかげで生活できているのは分かっている。感謝もしている。全部分かっているつもりだけど、言わずにいられなかった。多分、戦争に行くのが怖いから。誰かに自分の考えを一度言っておきたかったのだと思う」

「俺だって母さんだって、息子を戦争にはやりたくない。非国民と言われても、子供を死なせたくない。それが本心だ」

「それだけ聞けて良かったよ」

「もうひとつ、大本営の嘘っぱちをそのまま記事にしている俺は、新聞記者じゃない。報道こそが国民に真実を伝え、国民に判断材料を提供すべきだと思っている。命を賭けてでも。家族の生活のためと言いながら、俺も特高や軍が怖いだけだ。本来は、報道はいつの時代も国家に弾圧される存在であるべきだ。それが健全な報道だ」

 たまらず、一が言った。

「父さん、もういいよ」

 二三はいつの間にか涙をこぼしていた。一の目にも涙が溜まっていた。道代も割烹着で涙を拭っていた。


 日系アメリカ人と日本人

 ロサンゼルスの西六〇マイルに、ポート・ワイニミという小さな町がある。その町で、日系移民の岡田康吉(こうきち)と妻のヤスは仕立屋(テーラー)で生計を立てていた。

 康吉が移民して四年後に、ヤスが写真花嫁として来てくれた。その後二人で二二年間必死に働いて、やっとテーラーを開店したのが四年前だった。

 男の子が二人生まれた。長男はダニエル、次男はチャールズ。それぞれ、ダン、チャーリーと呼ばれている。ダンは二一歳で、自動車修理工として働いていた。チャーリーは一七歳の高校生だった。

 故国に錦を飾るとまでは行かないが、どうにかこうにか店の経営も安定してきたと思った頃、日本軍によるパール・ハーバーへの奇襲攻撃(アタック)があった。ダンは修理工場を解雇された。チャーリーも高校に通えなくなった。あからさまな嫌がらせと差別である。

 テーラーの売り上げは三分の一に落ち込んだ。康吉とヤスの仕事の丁寧さ、顧客に対する誠実さが、かろうじてテーラーを生き残らせていた。投石で窓ガラスを割られたり、壁にペンキでジャップは地獄に堕ちろ(ゴートゥーヘル)と書かれる嫌がらせはあったが、仕事を依頼してくれるお得意もいた。

 ハワイを奇襲攻撃した敵国人が経営するテーラーにもかかわらず何とか経営を維持してきた岡田一家も、遂に一九四二年七月マンザナー強制収容所に監禁された。

 ふたりの二六年の苦労の賜物が、僅か二週間という猶予のうちに買い叩かれた。康吉とヤスに残されたのは、ダンとチャーリーだけだった。

 いつ戦争が終わるのか、いつ収容所から出られるのか、出たあとどうやって生活して行くのか、何も分からなかった。

 刑務所でさえも、終身刑以外は何年いればいいのか最初から分かっている。恩赦もあるかも知れないし、刑期満了前に仮釈放があるかも知れない。しかし、人種差別の拘束年数は不明、恩赦も仮釈放もあり得ない。犯罪者の方が、より人間的に扱われている。

 何よりもまず、犯罪に対する罰則であれば刑務所入りは当然のことである。ところが、日本人である、日系アメリカ人である、と言う理由で強制収容されることは、どう考えても納得できなかった。

 ドイツ系やイタリア系は、強制収容されていない。日系だけへの、有色人種に対するあからさまな人種差別だ。

 志那系や朝鮮系と違い、白人に脅威を与えるほど経済的に成功する者がいることも、日系への差別を助長した。

 誰でも挑戦(チャレンジ)する権利があり、誰でも機会(チャンス)を得る権利があり、誰でも成功(サクセス)する権利があるのがアメリカであるはずだ。そのアメリカを、白人自らが否定したのだ。自分や自分の先祖が、ヨーロッパでの迫害や貧困から逃れるためにアメリカに来たことを忘れてしまったのだ。

 チャーリーには、ハイスクールのクラスメートだったミンディという恋人がいる。しかし、ポート・ワイニミとマンザナーは二五〇マイルも離れており、今は手紙を交換するだけだ。

『親愛なるチャーリー

 二週間前の私の手紙は届きましたか。あなたから返事が来ないので、またこの手紙を書いています。

 やはり、あなたの最後の手紙は理解できません。どうしてあんな悲しいことを書いて寄越したのですか。

 私も状況は知っています。あなたの両親の祖国と私たちの祖国であるアメリカが戦争をしていること、私たち一家はアイルランド系移民であること、日本人と日系アメリカ人は合理的な理由も無く大統領命令で強制収容所に入れられていること、、、。でもそれは、私たちの周りの状況であって、私たち自身の問題ではありません。

 あなた方一家をそんなところに閉じ込めた白人たちを、あなたのご両親もきっと恨んでいるでしょう。でもそれも、私たちふたりが別れる理由にはなりません。愛し合っているのは私たちふたりであって、それが何より大切なことだと信じています。

 もちろん、私もあなたのご両親に祝福されたいし、私の両親にも分かって欲しいと思いますが、あなたさえ私を愛してくれたら、私は幸せです。

 戦争はいつか終わります。その時、あなたの一家も、ここに書くだけでも嫌な言葉、収容所から解放されます。私はそれまで待ちます。手紙も書きます。できれば、会いにも行きます、きっと。だから、もうあんな悲しい手紙は書かないで下さい。

 あなたからのすてきな返事を待っています。近況だけでも知らせて下さい。

 ミンディより、愛を込めて』


『大好きなミンディ

 手紙をありがとう。君の強い気持ちが良くわかった。確かに君の言うとおりだ。僕は周囲の状況のせいで、君を幸せにできないと思い込んでいた。君を不幸にするくらいなら、別れた方が君へのダメージは少ないと思った。でも、僕は自分が間違っていた事を素直に認めて、君に謝る。

 君の手紙の他に、もうひとつ僕の気持ちを変えたものがある。実は、早くここから出るチャンスが転がり込んできた。僕はそれを利用するつもりだ。

 先週、出所許可申請書というものが配布された。ここの収容者に対して、アメリカへの忠誠を確かめる質問書だ。それに適切な回答を行えば、陸軍に志願できるかも知れない。

 出所したら君に会いに行く。それから、軍隊に入って早く戦争を終わらせる。そしてまた、君に会いに行く。君を迎えに行くんだ。

 チャーリーより』

 チャーリーは、封にSWAK(キスで封をした)と記して投函した。


 一九四三年二月、一八歳以上の収容者に対して出所許可申請書による三三項目の質問が課せられた。

 その中の質問二七は、もしあなたに機会が訪れ資格があるならば、陸軍、看護婦部隊または陸軍女性補助部隊に志願したいと思うか、というものであり、

 質問二八は、あなたはアメリカ合衆国に無条件の忠誠を誓い、日本の天皇やいかなる外国政府、権力または組織に対しても服従をしないことを誓うか、というものである。

 チャーリーは、イエス、イエスと回答した。

 兄のダンはノー、イエスと回答した。

 彼らは日系ではあるが、アメリカで生まれ、アメリカで育ち、アメリカの教育を受け、国籍を持つアメリカ人だ。だから何の躊躇も無く、質問二八にはイエスと答えた。

 チャーリーは、軍に志願して自分や他の日系人をアメリカに認めさせようと、質問二七にもイエスと答えた。

 ダンは、自分を差別するアメリカのために命は捨てられないと、質問二七にはノーと回答した。

 康吉とヤスはノー、ノーと回答して、ダンと共にツールレーク強制収容所に転送された。康吉とヤスは日本で生まれ育ち、日本の教育を受け、日本での生活が立ち行かないためにやむなくアメリカに移民したが、アメリカで迫害され、国籍を与えられなかった。ふたりは、そう答えるしか無かった。

 三三項目の質問には、姓名から始まって性別、身長、体重、配偶者の人種、日本の親戚の名前、住所、関係、職業、国籍、受けた教育、外国旅行、宗教、日本語や他の外国語能力、スポーツと趣味、国外に持つ資産や投資、購読した雑誌と新聞、子供を日本に行かせたことがあるか、というものも含まれていた。

 イエス、イエスと回答したチャーリーは収容所から出て、ミネソタ州キャンプ・サベッジの陸軍情報部語学学校で六ヶ月間日本語の訓練を受けた。訓練の後、前線に行く前に二週間の休暇が与えられ、チャーリーはツーレークの父母と兄に会いに行った。

 六ヶ月ぶりに会う父と母は幾分やつれたようだったが、笑顔を見せてくれた。しかし、語学兵として前線に行くことを話すと父は沈黙し、母は泣いて止めた。

 康吉は、チャーリーが日本人と戦闘することがやりきれなく、言葉が出なかった。ヤスは、息子が戦死するかも知れないことが、耐えられなかった。

 チャーリーは、語学兵は戦闘ではなく情報収集が主任務であり、白人の護衛も付くことを説明したが、両親にとっては、とにかく息子が兵隊になって前線に出て行く、それは危険だ、という理解しか無かった。

 ダンはチャーリーの説明を理解し、とにかく生きて戻れ、と言った。自分には自分の信念があって、質問二七にはイエスと答えなかったが、父母の事は自分に任せて、おまえは自分の信念に従えばいい、とも言ってくれた。

 チャーリーは、ツーレークからポート・ワイニミへ向かった。ミンディの家を訪ねるためだ。ミンディには手紙で知らせておいた。

 ミンディだけではなく彼女の家族にも会って、自分の考えを伝えたいと思っていた。例えなんと言われようと、生きてミンディや家族に会えるのはこれが最後の機会かも知れなかったから。


 チャーリーはドアをノックした。ミンディの父、ジョージ・ティーキャッシュがドアを開けた。

「こんにちは、ジョージ」

「やぁー、チャーリー。さぁ、入りなさい」

 ジョージはチャーリーと握手を交わして、招き入れた。ミンディがいた。

「ミンディ」

「チャーリー」

 ふたりは互いに駆け寄り、軽い抱擁をした。

 妹のジェニファーとミンディの母、スーザンも声を掛けてきた。

「こんにちは、チャーリー」

「こんにちは、ジェニファー」

「さぁ、チャーリー、座って。コーヒーはどう」

「ホワイ・ノット(いただきます)、サンキュー、スーザン」

 ミンディが訊いた。

「チャーリー、陸軍に入ったの」

「ああ、情報部だよ。収容所を出たあと日本語学校に六ヶ月行って、これから語学兵として南太平洋地域で日本軍の情報収集任務に就くことになっている」

 ジョージが訊いた。

「軍に入るという条件で収容所から出られたのか」

「そのとおりです。ダンは軍への志願を拒否して、両親と一緒にツーレークの収容所に移されました」

「私個人は、日系人だけが不当な差別を受けていると思っている。それなのに何故、君はアメリカのために命を賭けるのだ」

「僕はダンが間違っているとは思いません。同時に、僕も間違っているとは思いません。僕は、認めさせたいのです。僕や日系人を、この国やミンディ始めあなた方家族にも」

「私たち家族は日系人を差別するつもりは無いよ」

「だからこそ、あなた方のようなアメリカ人のためにも早く戦争を終わらせたいと思います。そのために、情報収集という仕事で貢献できればうれしく思います」

 スーザンがコーヒーカップを持ってきて、言った。

「ミンディのためには、あなたが不自由でも安全な収容所にいた方が良いのか、少しでも自由のある、でも危険な戦場にいる方が良いのか分からないわ」

「語学兵は、一般の戦闘員よりは安全だと聞いています。でも、残念な話ですが、アメリカ軍の軍服を着ていても味方から撃たれるかも知れないからと、白人の護衛が付くそうです」

「何ともひどい話しだ」

 ミンディが訊いた。

「収容所はひどいところだったの」

「ひどかった。家族はまだそこにいる。ひどいところだよ。例えばトイレに仕切りが無い。刑務所のトイレだって、仕切りくらいあるだろう」

「しかも、何も悪いことをしていないのに。私、大統領に手紙を書くわ。そんなことは間違っているって」

「それに、財産は全て失ったよ。父と母が二六年間懸命に働いて手に入れてきたものを全部だ。収容所に入れられるまでに二週間の猶予しかなかったから、持っていた物は全てただ同然の値段で買い叩かれた」

「なんということだ(マイ・ゴッシュ)」

 ジョージが同情した。

「日本がパール・ハーバーをアタックしたことは許せないが、康吉やヤスの責任では無い。ましてや君やダンは、アメリカの国籍を持っている。日系人への処遇は、アメリカ人として恥ずべき事だと思う」

「ありがとう、ジョージ。あなた方のようなアメリカ人もいるから、僕も救われます」

「私は、日本人はすばらしい民族だと思う。勤勉で、親は自分を犠牲にしても子供に高等教育を受けさせ、将来少しでも良い生活ができるように願っている。子供は親を尊敬し、大切にする。どんな国の移民より優れた点がある」

「僕は、あなた方のような家族と知り合えたことを誇りに思います」

 ジェニファーが初めて口を開いた。

「きっと、ミンディとチャーリーはふたりきりで話したいんじゃないの」

「その前に、皆さんにも聞いて欲しいことがあります。今日来たのは、ミンディにさよならを言うためです。」

「それはどういう意味」

 ミンディが驚いて言った。

「君も君の家族も、僕を差別しないでアメリカ人として扱ってくれる。でも、社会はそうじゃない。現に日系人は全員強制収容された。適性外国人と付き合っていると、いずれ皆さんにも迷惑がかかるも知れない。それと、僕はこれから戦地に行く。死ぬかも知れないし、いつ帰れるかも分からない。だから、いつまでも僕を待っていることはないと思う。それが僕の結論だ」

「チャーリー、あなたの考えは分かったわ。今度は私の考えを聞いて。私も私の家族も、人種差別的な考えは持っていないわ。むしろ、白人として恥じているくらいよ。これが自由の国、民主主義の国と言えるかしら。それと、私はあなたが帰るのを待ちたいのよ」

「君だけの問題じゃない。ジェニファーだって、僕のせいでボーイフレンドができないかも知れない。ご両親にも社会的な付き合いがあるから、日系人がかかわるのは良くない。ただ、皆さんにはとても感謝している」

「私があなたを待つのは、私の自由だわ」

「チャーリー、性急に結論を出さなくても良いだろう。ミンディは君を待ちたいと言っている。戦場が危険なことは分かっているが、君も言ったように語学兵は戦闘任務には就かないのだろう。確かにいつ帰れるか分からないが、しばらく様子を見てはどうかね。案外早く戦争が終わるかも知れないし、政府もいつまでも強制収容というような愚かな政策は続けないと思う」

 ジョージが、チャーリーとミンディの会話を取りなすように言った。

「ありがとう、ジョージ、分かりました。ありがとう、ミンディ。僕が戻ったら、また話そう。僕は絶対に生きて帰るつもりだけど、でも、いつまでも待っていて欲しいとは言えない。それは自分で判断して欲しい」

「それが日本人的な考え方なのかい。自分の望むことを遠慮無く言うのではなく、相手の身になって考える。美しい考え方だとは思うが、我々白人には思いつかない考え方だよ。とにかく、君は軍で日系人の存在意義を示し、合衆国への忠誠心を示す。ミンディは君を待つ。そういうことだ」

「そうね、チャーリー、私もミンディと一緒に待っているわ」

 スーザンが言った。

「チャーリー、私も待っている」

 ジェニファーも目に涙をためて言った。


 チャーリーはサイパンに送られた。

 護衛兵としてブライアンが付けられた。

 サイパンでは、補給が得られない日本兵がゲリラ戦を展開していた。

 チャーリーの仕事は、戦闘終了直後に日本兵の死体から情報収集の材料にするため手帳や手紙、メモなどを探る事から始まる。

 アメリカ兵の中には、土産や記念品にするために日章旗や日本刀などを漁る者もいる。戦友の復讐だと言って、日本兵の死体を蹴飛ばしたり、顔を踏みつける者もいるし、もっと残虐なことも目にした。

 収集した材料を前線本部に持ち帰り、翻訳、分析するのが、チャーリーの次の仕事だ。

 日本兵に投降を呼びかけるビラを作ることもある。捕虜になるなら死ね、と叩き込まれている日本兵を、一枚のビラで翻意させるのは不可能に近い無駄な努力とも思われたが、少しでもアメリカ兵の損害を減らし、さらに日本兵の命を救えるなら、とチャーリーは奮闘した。

「ヘイ、ジャップ、有益な情報を見逃さないでくれよ。俺はこの戦闘で戦友をひとり失ったんだから」

 同じ隊内でも、チャーリーはジャップと呼ばれることもる。それが、現実だった。ジャップやニップと呼ばれなくなるために、チャーリーは軍に志願し、前線で任務を誠実に遂行している。

 第一〇〇大隊や第四四二連隊は当たって砕けろ(ゴー・フォー・ブローク)を合い言葉に、驚異的に高い損耗率でヨーロッパ戦線を戦っている。それでも、まだ足りないというのか。

 サイパンの北端に近いマッピ山の麓で局地的な戦闘があった。進軍していた米軍に対し、ジャングルに潜んでいた日本軍が反撃してきたのだ。島の南西部海岸から上陸した米軍は、バンザイ突撃にうんざりしながら次第に日本軍を島の北部に追い詰めてきていた。弾薬も糧秣も援軍も無い日本軍守備隊は、全滅は避けられないと覚悟の上の、文字通り死にもの狂いの抵抗を継続した。

 そして戦闘が終了したと報告を受けて、チャーリーと護衛のブライアンは現場に向かった。

 銃で撃たれ、砲で吹き飛ばされ、戦車に引き千切られた無惨な両軍の死体が、ジャングルに散らばっていた。血が地面に染み、ジャングルの木々に塗られていた。硝煙の臭いと血の臭いがする。死体にはもう蝿が集っている。

 チャーリーはいつの間にか、吐き気を堪えることができるようになっていた。

 米兵の死体から、認識票(ドッグ・タグ)が回収されている。日本兵の死体から、戦利品を物色している兵隊もいる。

 チャーリーは、日本兵の死体の階級章を一通り確認した。階級の高い者から順に、その所持品を検査するためだ。片膝をついて、少尉の死体から回収した手帳をめくっているとき、銃声が聞こえた。

 チャーリーは伏せた。そばに立っていたブライアンが倒れた。チャーリーが叫んだ。

「ブライアン」

 彼は目を開けることさえ無かった。

 語学兵のチャーリーは、小銃を携帯していない。腰のホルスターからコルト・一九一一を抜いて、周囲を見回した。

 数人の味方がジャングルに向けて撃っているが、敵は見えない。悲鳴が聞こえた。また、味方がひとりやられたらしい。

 チャーリーは叫んだ。

「敵は何処にいる」

 誰かが答えた。

「分からない。とにかくぶっ放せ」

 チャーリーにとっては初めての戦闘だ。そのせいか、恐怖はあったが意外に冷静な部分もあった。

(マガジンの予備(スペア)は二個しかない。弾丸の合計は二一発、威嚇射撃も必要だが、無駄撃ちはできない)

 チャーリーは、敵の姿か発砲炎が確認できるまでは撃たないことにした。そう決心しながらも、体は恐怖で震えていた。死ぬかも知れないと、現実的な恐怖を生まれて初めて感じた。

 戦闘は終わったものと判断され、残っていた米兵は戦利品漁りの三、四名だけだった。それに語学兵のチャーリーと、護衛兵のブライアン一等兵。ブライアンは死んだ。もうひとりの兵隊も死んだらしい。チャーリーは拳銃しか持っておらず、実戦経験が無い。残りの二、三人の兵隊が頼りだ。

 また悲鳴が聞こえた。

「ちくしょう(ファック)、肩をやられた」

 相変わらず銃声の方向を見ても、敵の姿が見えない。狙撃兵かも知れない。

 チャーリーは肩を撃たれた兵隊に駆け寄った。

「ジェイソンか、俺につかまれ。一緒に逃げよう」

「ありがとう。これからはジャップとは呼ばない」

「遠慮せず、もう一度ジャップと呼んでみろ。だが、上官侮辱罪で軍法会議にかけてやる。他に誰がいる」

「ブライアンとクリスがやられたから、あとはティムだけだ」

 チャーリーが叫んだ。

「ティム、無事か」

 直ぐに返事があった。

「ああ、ここにいる」

「逃げよう。ジェイソンが肩を撃たれた」

「分かった。俺が援護するから、ジェイソンを連れて退却してくれ」

「三人一緒だ」

「いや、あんたは護衛兵がつくほどの貴重な戦力だ。俺が援護するから逃げろ」

「分かった。二五ヤード退却したら今度は俺が援護するから逃げるんだ、いいな」

「分かった。行け」

 ティムが叫ぶのと同時に、チャーリーはジェイソンの左腕を抱えて走り出した。

 一〇ヤードも行かないうちに、チャーリーの右腿にバットで殴られたような感触があった。次に激痛が襲った。ジェイソンと一緒に倒れた。

(ちくしょう(ガッデム)、撃たれたな)

 傷を確認した。弾は腿の肉を幅一インチほど削いで、擦っていったようだ。チャーリーはベルトで太ももを縛って、血止めをした。

「ティム、俺も撃たれた。かすり傷だが足に当たって走れない。俺が援護するから退却しろ」

「分かった。頼むぞ」

 チャーリーは一九一一を、ティムが撃っていた方向目がけて撃った。

 ティムが上半身を低くして走ってきた。

 コルト一九一一とは違う銃声が一発、響いた。

 ティムが前のめりに、手もつかずに頭から倒れた。

(何てことだ(ワッタヘル)、ティムもやられた)

「ジェイソン、ティムもやられた。おまえは肩を撃たれて小銃を捨てているし、俺は足を撃たれて一九一一とスペアマガジンが二個あるだけだ。くそ忌々しいが、降伏しよう」

「ジャップは捕虜にならないそうだが、我々の降伏を受け付けるのか」

「白旗くらい分かるだろう」

 チャーリーは木の枝を折って、白いハンカチを結んで振った。そして、日本語で叫んだ。

「おーい、降伏する、撃つな、撃つな。聞こえるか」

 日本兵が応答した。

「おまえは誰だ。アメリカ軍じゃないのか」

「アメリカ軍だ。降伏する。ふたりとも負傷している」

「日本語が分かるのか」

「僕の両親は日本からアメリカに移民した」

「貴様、日本人のくせにアメリカの味方をしているのか」

「両親は日本人だが、僕はアメリカ生まれのアメリカ人だ」

「二世か」

「そうだ。いいか、出て行くぞ。撃つなよ」

 前田伍長が指揮官の石塚少尉に言った。

「少尉殿、毛唐の味方をするやつが出てきたところを撃ってやりましょう」

「止めろ、伍長。白旗を上げている敵を撃ってはいかん」

「やつは日本人のくせに、アメ公の味方についているんです」

「やつは日本語を喋っても、アメリカ生まれのアメリカ人だ」

「そうですか」

 前田伍長はふてくされて、地面につばを吐いた。

 石塚少尉が呼びかけた。

「よし、両手を挙げてゆっくり立ち上がれ」

「ひとりは肩を撃たれて、右手が挙げられない」

 チャーリーは両手を挙げ、ジェイソンとゆっくり立ち上がった。

 日本兵が八人近づいて来た。

 石塚が訊いた。

「名前と階級は」

 チャーリーが答えた。

「こっちはジェイソン・ウィーマン上等兵。僕はチャールズ・オカダ准尉」

「手当をしてやりたいが、医薬品は底をついている。できるのは血止めくらいだ」

「ジェイソンの血止めをさせて下さい。消毒剤と包帯は携帯しています」

 チャーリーは、ジェイソンの肩の傷に消毒剤を振りかけ包帯を巻いた。次に、自分の腿の傷にも同じ事をした。

 ふたりは日本軍の拠点に連行された。拠点と言ってもテントで、兵員はジャングルで会った八人だけだ。

 ざっと見回して、資材の少ないことが分かる。トラックもジープも無い。燃料のドラム缶も無い。無線機はある。武器は各自が携帯している小銃と、機関銃が一挺だけ見える。砲は無い。弾薬も食糧も乏しそうだ。

 肩を負傷しているジェイソンは両手を前にして、チャーリーは後ろにして、縛られた。ジェイソンは出血が多いせいか、座っていても苦しそうだ。チャーリーは腿を撃たれているので、杖を使っても歩くのがやっとだ。

 石塚が言った。

「貴様達を尋問する。所属部隊は」

 チャーリーが答えた。

「こっちはジェイソン・ウィーマン上等兵。認識番号は」

 チャーリーはジェイソンの認識票(ドッグ・タグ)を手に取って読んだ。

「八〇八二四一三九。僕はチャールズ・オカダ三等准尉、認識番号O(オー)二三〇〇〇七八」

 石塚がいらいらして言った。

「違う。所属部隊だ」

「少尉、我々捕虜は、姓名、階級、認識番号のみ答えます」

「生意気なことを言う。おまえは日本語ができるから、我が軍の情報収集をしているのだろう」

「僕は与えられた任務を果たしています」

「その任務とやらは何だと訊いている」

「アメリカ合衆国陸軍三等准尉、チャールズ・オカダ、認識番号O(オー)、、、」

「黙れ。いつまでそんな強がりが通用すると思っている。大体、捕虜になって恥ずかしくないのか」

「捕虜は恥ずかしいことではない。前線で戦っていたからこそ捕虜になるのだから、むしろ名誉だ。それに、絶望的な戦いは無意味だ。無駄に死ぬくらいなら捕虜になって、脱走を考える方が良い」

「脱走できると思っているのか」

「まだ分からないが、脱走するのは捕虜の義務だ」

「ははは、、、アメリカ人の考え方はおもしろいな。捕虜になることが名誉で、負ける戦いはしない、脱走することが義務だとは、な」

「日本軍は、生きて虜囚の辱めを受けず、と教育されていることは知っている。全滅するまで戦うことも知っている。でもどうして、捕虜が恥なのだ。味方の情報を漏らしたりすれば恥だが、降伏すること自体は恥では無い。補給も援軍も無しで、全滅するまで戦うのは、非合理的だ。それなら一旦捕虜になって、脱走の機会を狙うべきだ。そうすれば、また祖国のために戦える」

「黙れ。アメ公に何が分かる」

「僕はアメリカではジャップと呼ばれ、日本人にはアメ公と呼ばれている」

 ジェイソンがぐったりと地面に横たわった。

 チャーリーが石塚に訊いた。

「ここに軍医か衛生兵はいますか」

「ここにはいない。医薬品も無い。助けてやりたいが、な」

「どこかに軍医はいないのですか」

「どこかにいるかも知れないが、我々も知らない」

「水をやって下さい」

「水は貴重だが、仕方ない。澤村、腕の縄を解いて、水をやれ」

 ジェイソンは水筒を受け取って、一口、二口と飲んだ。二口で取り上げられた。それでもジェイソンは礼を言った。

「サンクス」

 チャーリーが唇をなめ回した。

 石塚が澤村一等兵にうなずいた。

 チャーリーも縄を解いて貰い、が水筒を受け取って二口飲んで、澤村一等兵に返した。

「貴重な水をありがとうございます」

「貴様はアメリカ人かも知れないが、両親は日本人だろう。それに、両親とは日本語を喋っていたのだろうから言葉も達者だ。顔つきも、どう見ても日本人と変わらない。貴様は我々を敵と考えているのか。貴様の生まれはアメリカか知らんが、貴様の両親の祖国と戦うことに何の疑問も無いのか」

「少尉、あなた方も、ジェイソンは当然ですが、私を敵と考えていますね。日本人の顔をしながら、日本の情報を収集して、英語に翻訳する敵だと考えているのでしょう。日本が真珠湾を攻撃したことで、ハワイや本土の日系人がどれだけ迫害されたか知っていますか。みんな強制収容所に入れられました。日本は、日本人である私の両親などのことを少しも考えず、アメリカに戦争を仕掛けました。日系人に対する差別を無くするために、両親を収容所から出すために、二世は軍に志願して戦っています」

「戦争を仕掛けたのは日本かも知らんが、そう仕向けたのはアメリカだ」

「それは政府同士の問題です。一兵士の僕は、アメリカに忠誠を尽くすしか生きる道はありません。僕個人は、日系人を強制収容したアメリカ政府の政策は誤っていると思っています」

「貴様は自分の国の政府を批判するのか」

 そう言って、石塚はジェイソンにタバコを差し出した。

「自分の信じるところを述べただけです」

 ジェイソンはタバコを吸う気力もないらしく、首を振った。

 石塚は、お前は、と言う目でチャールズを見た。

 チャールズは右手を挙げて断った。

「僕は吸いません。日本にも戦争でつらい目に遭っている人は一杯いるでしょう。父親や息子や兄弟を亡くしたりして」

「お国のために、気をつけ、天皇陛下のために死ぬことは名誉だ」

「祖国に命を捧げることは崇高な行為です。しかし、悲しむ人はいるはずです。そんな人たちが、悲しみを表現することはできないのですか」

「そんなことは許されない」

「人間の自然な感情です。そこまで国家は介入できません」

「それがアメリカの自由というものか」

「そこまで大げさに考えなくても、家族が死んだら悲しいし、悲しいと言うだけです。日本には、そのような基本的な自由も無いと言うことですか」

「今は個人の自由より、この戦争に勝つことが重要だ」

「アメリカも戦争に勝ちたいと考えています」

「しかし、最後に勝つのは日本だ」

「日本はミッドウェイ海戦から不利な状況になってきています」

 思わず澤村が叫んだ。

「貴様、毛唐の味方をしやがって。そんなはずはない。日本は絶対勝つ」

「確かにあなた方の様に、全滅するまで戦う軍隊は強力です。でもここには、トラックもジープも見あたりません。弾薬や食糧は充分ありますか。さっき、水が貴重だと言ったでしょう」

「大和魂がある」

「アメリカ軍では、死傷率の高い部隊の指揮官は能力が無い、と判断されます。我々には、うまいものではありませんが食糧は欠かさず支給されます。戦闘が終われば、シャワーも浴びます」

「シャワーを浴びて戦争ができるか」

「そうではなくて、戦闘が終わったらシャワーで汗を流すと言うことです」

 石塚が澤村をたしなめた。

「澤村、もういい」

 ジェイソンが地面に横たわって、荒い呼吸をしている。チャーリーはもう一度、石塚に頼んだ。

「少尉、ジェイソンを何とか救ってやってください。軍医を探して下さい。お願いします。ジェイソンが死んでしまう」

「気の毒だがどうにもならない。軍医は何処にいるか分からんし、生きているかどうかも分からない。しかし、医薬品が無いことだけは確かだ。だからもし軍医を連れてきても、どうにもならないだろう」

「チャーリー、俺は死ぬのか」

「ジェイソン、傷はひどいが大丈夫だ。軍医を頼んでいる」

 石塚が訊いた。

「ふたりで何を話した」

「ジェイソンが、僕は死ぬのか、と訊いた。傷はひどいが、軍医を頼んでいると答えた。軍医がいないとは言えなかった」

 チャーリーは続けた。

「どうして日本軍は、軍医がいなくて医薬品も食糧も水も充分に無くても戦えるのですか」

 澤村が答えた。

「大和魂がある」

「精神力や士気の高さは大切ですが、それに見合った武器や食糧も必要なはずです。どちらか一方だけでは、戦えません」

「大和魂が毛唐の手先に分かってたまるか」

 また石塚が澤村をたしなめた。

「澤村、もう止めておけ」

 その時、ジェイソンが喉を鳴らして息を吸い込み、吐きだした。そして、もう息を吸わなくなった。

 チャーリーがジェイソンのドッグ・タグを首から外して、軍服の胸ポケットに仕舞った。そして、呟いた。

「彼はアメリカ人の義務を果たした」

 石塚が訊いた。

「どういう意味だ」

「ジェイソンは国家に忠誠を尽くし、愛する家族を守るために命を捧げた」

「我々もお国のため、気をつけ、天皇陛下のために命を懸けている」

「天皇陛下、、、。どうして、家族でもない人のために命を懸けるのですか。アメリカ人は、大統領のためには命を懸けません」

 澤村が叫んだ。

「畏くも、気をつけ、天皇陛下は毛唐の大統領などとは違う」

「アメリカの大統領は選挙で選ばれます。国民が選んだ大統領です。天皇陛下は日本人が選んだのですか」

「貴様、陛下を侮辱するなら、今すぐ撃ち殺すぞ」

 澤村が銃を構えた。

「撃つな、澤村」

 チャーリーが続けた。

「侮辱していません。知りたいのです。アメリカの日系人には、帰米組という人たちがいます。アメリカに移民して、その後日本で教育を受けたり一時期生活をして、またアメリカに帰った人たちです。そう言う人たちは、少しは日本人の考え方や文化を知っています。でも私は、一度も日本へ行ったことが無いので、日本のことや天皇陛下のことを知らないのです」

 石塚が突き放すように言った。

「説明しても貴様に理解できるとは思わん。それより貴様は、そうやって日本人の考え方を理解したり、情報を収集しようとしているのだろう。その手は食わんぞ」

「なるほど、そうか。少尉殿、こんなやつ今すぐ処刑しましょう。どうせアメ公の捕虜にやる水も食糧もありませんから」

「食糧が無いなどと余計なことは言うな、馬鹿者」

「今は私が捕虜ですが、全体の状況としてはアメリカ軍が圧倒的に有利です。アメリカ軍は弾薬も食糧も豊富です。日本軍は弾を一日に一人五発しか支給しないそうですが、それでは戦えません。無益な戦闘を止めて、生き延びて日本に帰って、家族のために働いてはどうですか。それが国家に尽くすことにもなります」

「貴様も間抜けなやつだ。捕虜になっているのは貴様だ。捕虜の貴様が、俺たちに降伏しろと言うのか」

「もちろん直ぐには信じられないかも知れませんが、状況を振り返ってみて下さい。食糧、弾薬もですが、援軍も派遣されないし、燃料も飛行機も船も修理部品も医薬品もすべが不足しているのではありませんか」

 石塚が反論した。

「我が国は、そのための資源を手に入れるために東南アジアに進出しているのだ。それをアメリカが邪魔したから、戦争になった。アメリカもヨーロッパもアジアやアフリカを植民地にして、食い物にしているくせに、我が国にはそれを止めろと言う。勝手な言いぐさだ」

「それは分かります。私も有色人種として差別を受けていますから。しかし戦局は、皆さんに非常に不利です。日本軍の全滅は避けたいのです。命を無駄にして欲しくないのです。皆さんに玉砕しろと命令している大本営は、援軍も食糧も送ってきません。撃つ弾も不足しています。でも軍上層部は、ごちそうを腹一杯食べています。部下に玉砕を命じて、自分だけ逃げる司令官もいます」

 澤村がチャーリーに銃剣を向けて言った。

「貴様、日本軍を侮辱するのか」

「本当のことです。皆さんが戦い続けると、アメリカ兵にも損害が出ます。アメリカ兵も日本兵も、無駄に死んではいけません。私のような語学兵の任務は、戦闘で敵を殺すことではなく、情報収集や通訳、投降文の作成、投降の呼びかけなどで日本兵の命を救い、アメリカ兵の命を救うことです」

 日本兵を説得するために、チャーリーはつい自分の任務を喋ってしまった。

「おまえの言うことは、わからんでもない。理性では、分かるような気もする。しかし、我々はそのような教育を受けていない。育った環境が違うから、正しいかも知れないと思っても完全には理解できないし、納得できない。皇軍は、気をつけ、天皇陛下のために戦う。玉砕も厭わない。捕虜にはならない。七生報国と言う言葉がある。例え死んでも、七回生まれ変わってお国に尽くす、と言う意味だ。それが日本人だ」

 石塚が本心を言った。

「私には、どうしてそこまで他人に命をかけられるのかは理解できませんが、日本の兵隊はそのように訓練され教育され、簡単には説得できないことは経験で知っています。ただ、弾が無くなったら、食糧が無くなったら、降伏も考えて下さい。決して恥ではありません。皆さんは最後まで勇敢に戦ったのですから」

「もう我慢できない。くたばれ、毛唐の手先が」

 澤村が銃剣で、チャーリーを右後ろから刺し殺した。

 澤村は、単純にチャーリーを理解できなかったのだ。日本人の顔をして、両親が日本人で、例え国籍はアメリカでも、日本を敵としてアメリカの軍服を着ているチャーリーに我慢ができなかった。澤村は単純で、ある意味善良な、しかし愚かな日本兵だ。石塚は、これ以上チャーリーと会話を交わすと自分が今まで信じてきたものがぐらつくかも知れないことを、感じていた。また、兵隊達の士気が低下するかも知れないことも感じていた。それで、澤村の行為を咎めなかった。

 しかし石塚少尉のどこかに、義務と自由という二つの言葉が残った。

 チャーリーは自分や両親への差別を無くすために、文字通り命をかけて戦った。それが日系二世である彼の戦争だった。

 彼を殺したのは、澤村の銃剣なのか、アメリカとの戦争を決定した日本という国なのか、日本を戦争に追い込んだアメリカ合衆国なのか、それとも単に人類の愚かさなのか、石塚には分からなかった。


 質量分析の原理

「大統領、ウラニウムには、ウラニウム二三四、ウラニウム二三五、ウラニウム二三八などの種類があります。ウラニウム二三四は〇・〇〇六パーセント、ウラニウム二三五は〇・七パーセント、ウラニウム二三八は九九・三パーセントの比率で存在します。

 各種ウラニウムの中で、核分裂反応を起こすのはウラニウム二三五だけです。核爆弾を製造するには、ウラニウム二三五とウラニウム二三八を分離する必要があります。つまり、濃度九〇パーセント以上のウラニウム二三五が必要なのです。

 ところが、これらウラニウムの化学的性質はほとんど同じであるため、化学的な技術で精製することが困難、または不可能であることが分かってきました。

 そこで我が国の核爆弾開発プロジェクトは、各ウラニウムの質量が僅かに違う事に着目して、質量分析という技術を開発しました。

 物質は原子でできています。原子は、原子核と電子などでできています。原子核の周りを電子が回っています。あたかも、太陽の周りを地球や火星が回っている様なものです。

 原子核はプラスの電荷を持ち、電子はマイナスの電荷を持っています。プラスとマイナスの電荷が同じであれば、電荷同士打ち消しあってプラスでもマイナスでもない、安定的な中性(ニュートラル)な状態です。

 ところで電球にはフィラメントと呼ばれる部品があり、それに電流を流すと、発熱し、発光します。同時にフィラメントからは、電子も放出されているのです。それを、熱電子と呼びます。

 電球と同じ原理で熱電子を発生させ、それをウラニウム原子に衝突させます。ウラニウム原子の周りを回っている電子が、熱電子衝突のショックで周回軌道から飛び出ます。

 するとそのウラニウム原子は、電子を一個失った分だけプラスの電荷が大きいことになります。即ち、陽イオンとなるのです。ウラニウムがイオン化されたのです。

 このイオン化はウラニウム以外の余計な原子が存在しないように、高真空の環境下で行います。

 陽イオンとなったウラニウムは、マイナスの高電圧で吸引することができます。陽イオンはプラスであり、マイナスの電圧とは互いに引き合うのです。ちょうど磁石のN極とS極が引き合うように。

 乾電池の平らな方がマイナス、中心部の出っ張っている方はプラスです。マイナスを基準にすれば、電池の電圧は例えばプラス一・五ボルト、と言うことができます。プラスを基準にすれば、電池の電圧はマイナス一・五ボルト、と言うこともできます。マイナスの電圧とは、そう言う意味なのです。

 さて大統領、ここまでで、ウラニウムをイオン化し、電圧で引きつけるところまで説明しました。ここからは、ウラニウム二三八からウラニウム二三五を分離する技術をご説明します。

 ウラニウム二三五と二三八は、質量が違います。これを利用するのです。

 高電圧でウラニウムイオンを引きつける、即ち、ふわふわ浮いている状態から電極方向へ加速します。イオンは次から次へと、高速で飛んできます。これをイオンビームと呼びます。

 イオンビームの飛ぶ軌道を、ビームラインと言います。ビームラインの途中に、電磁石を設置します。

 イオンは電圧だけでなく磁力で引きつけたり、反発させたりすることができます。磁石で、このイオンビームを約九〇度曲げます。

 すると、高速で直線状に飛んできたイオンは、磁力で曲げられるとき、重いイオンと軽いイオンで、曲がり方に差が出ます。重いイオンは曲がりきれず、軽いイオンより外側に飛びます。軽いイオンが適切な軌道を通るように電磁石の強さを調整すると、重いイオンはそれより外側を通り、そこに遮蔽物を置けば、それ以上先には進めません。

 ここで、軽いイオン、即ち二三五と、重いイオン二三八が分離できたのです。化学的な反応による精製ではなく、物理的な分離です。我々はこの技術を、質量分析と名付けました」

「それだけかみ砕いて説明して貰うと、何とか理解できるよ。しかし、質問がある。原子を一つずつイオン化して質量分析して、一〇〇ポンドもの二三五を集められるのか」

「大統領、それはとても良い質問です。確かに、原子一個から始まって一〇〇ポンドのウラニウム二三五を集めるのは、気の遠くなるような作業です。しかし、質量分析装置の数をそろえて、装置の運転に必要な電力を確保できれば必ず成功します。」

「よろしい、我が国の力を信じよう。計画を進めてくれ。事前の実験に一発、実用に予備を含めて二発、つまり合計三発は欲しいな」

「大統領、このウラニウム二三五タイプは濃縮に莫大な電力を必要とし、ウラニウム二三五濃縮に使用した電力を蓄積したものと考えて、その莫大な電力を爆発で一瞬に放出させるようなものです。つまり、エネルギー効率の良いものでありません。これに比して、もうひとつのプルトニウムタイプは極めて効率の良いもので、こちらも二発から三発製造する計画です」

「それができれば、ジャップは終わりだ、な」

 ボブ・グラハム大統領が病死し、副大統領から昇格したウォルト・サリバン大統領は、右手で自分の首を切るジェスチャーをした。


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