第3話 伝説は何も語ってくれない
竜とノエリクの戦いは、終盤だった。数々の刃が繰り返し鱗の鎧を傷つけて、絶え間ない火炎が黒い鎧を焼いた。
魔術を生み出す結界はそのたびに摩耗する。まるで重い天井を支える石の柱が、激しい破壊に晒されているかのように、〈コの場所〉の精霊を使い果たそうとしていた。
〝ばかめ〟と竜は念じた。〝お前は一度おれに負けたんだぞ。それを、小癪な真似をしてはいるが、忘れるな。魔術はおれの十八番なんだ。おれは──〟
〝最後の魔法使いの弟子、なんだろう?〟
黒竜は初めて鼻白んだ。
〝なぜお前が……〟
〝《記憶》というものは、そう簡単に消えない。語り継ぐものがいる限り、だれかが知ろうとする限り、それは思わぬだれかに伝わることだってある〟
剣を構えた。
なんの変哲もない、しかし頑強な剣を。
〝〈忘れの河〉にもぐったくらいで、その《記憶》が洗い流せると思うな〟
黒竜は憤怒の火炎を撒き散らした。
翼を広げ、雄叫びを上げる。
遺跡がますます瓦礫の山と化し、崩壊した天井の岩を、ノエリクはゆらりゆらりと躱している。
そのさなか、突如として剣が振りかざされた。粉塵を切り裂き、竜の腹に深々と血がほとばしるほどの切り傷が食らいつく。
またしても、やられた。
竜は人間だった頃の弱さを思い出し、すばやくその回想を打ち止めた。だめだ、そんなことを思い出したら弱くなる。せっかくヒトのかたちを忘れ、強くなったというのに──
〝おのれぇぇええエエエエ〟
顎を開く。牙を剥く。
炎が、爪が、牙が。
あらゆる武器が、破壊と無をもたらす。
〝貴様は無に還れ! ノエリク!〟
やがて、努力が功を奏した。突如として黒い鎧が立ちすくみ、がっくりと膝をついた。もうこれ以上動けない。かつて人間以上の振る舞いを見せたそれは、いまや氷漬け寸前のけものにも似て緩慢とした動きを見せた。
遺跡の結界が破れたのだ。
じきに鎧から霊魂も抜け落ちるだろう──そのとき、かのものはふたたび〈忘れの河〉を渡る。
〝…………〟
ノエリクは、しかし後悔はしなかった。
思い残すことはある。
山程ある。
死んでも死にきれないほどある。
心配だって有り余る。
それでも。
かれの命はここで終わっていた。
だから、これはただの夢なのだ。
死者が生者を想って見る、つかの間の夢。
ふと天を仰いだ。
図らずもノエリクは、その瞬間同様に娘アデリナが魔眼を仰ぎ見たことを知らない。
降りるために舞い戻ったアデリナの霊魂と、時を迎えて昇天するノエリクの霊魂が、つかの間、すれ違った。
それは火打ち石が打ち金と擦り合って起こる花のような輝きが、青白く咲く。散る。
〝リナ……あとは任せた〟
ついでに言った。
〝不甲斐ない親でごめんな〟
†
目が覚めたのと、はなれ山のほうで竜の咆哮が轟いたのはほとんど同時だった。
アデリナは自分を押さえつけている無数の腕を感じ取った。そして、その視界の中央に、シュヴィリエールの翠の瞳を見た。
泣きそうな顔だった。
あまりに事態が急なので、アデリナもどう受け止めていいのか少し考える時間がほしいくらいだった。
しかし、竜の咆哮は轟轟と響き渡る。
それから突風が周囲の霧を薙ぎ払うように、騎士たちを襲った。シュヴィリエール、エレヴァン、イリエ、クリスタルの四人がおのおのの判断でとっさに身を伏せた。
アデリナもすかさずそれに倣うが、次第に竜が飛び立とうとしていることに気がつくと、顔を上げる。
そこに、開かれた悪夢の本体があるはずだった。
だが。
それすらも、竜の飛翔で蹴散らされた。
黒竜は大型の魔獣をものともせずに、天空を駆けて去った。その腹は大きく地上にさらされていた。みなが伏せているそのさなか、アデリナだけが竜の腹の傷を見た。
そして、その血の滴をまともに顔面に浴びたのだった。
「ゲッ」
真っ赤になった顔をこすり、血を口に含む。鉄の味がした。
非常にまずい。
吐き出したくなるほどの苦みと、焼け付くようなヒリヒリする感じがした。
おもわず手で拭い、近くの泥で血を落とそうとするが、その手も爛れるような熱さだ。異変に気づいたシュヴィリエールが、「なにをしている」と声を掛ける。
「さっき竜が血を」
「馬鹿者! なぜ口に含んだ!」
エレヴァンをとっさに見る。イリエが口を開いた。
「近くの井戸は?」
アデリナは指さした。クリスタルは軛を逃れたけもののように坂を駆け下った。
水が来た。
手桶に汲まれた水は、とても冷たい。冬の訪れを示すようなこの潤いが、灼熱に焚かれた真っ赤な鉄の刃のようにジュッと音を立ててアデリナの顔を、手を洗い流す。
激痛が彼女をこの世に引き止めた。
これ以上空気だって握れやしない──それほど焼け付くような痛みを、手と顔と喉に刻印したアデリナだったが、ふしぎとやけどはなかった。代わりにいつまでもかゆい感じが抜けないままだった。何度も何度もクリスタルに手伝ってもらって、魔獣の血を落としたはずだったが、疼痛は残った。
「仕方ない。現今の竜属も血は毒なんだ。古代種の血を受けて死ななかったどころか、やけども後遺症もないだけましだ」
エレヴァンはそううそぶいたのだった。
結局、一同は諦めて下山の道をたどるしかなかった。竜は退治できず、おそらく縄張りを飛び出してタリムへの侵攻を行うだろう。なにせ一体で領国ひとつ分を破滅に追い込めるほどの脅威だった。いち早く知らせないといけない。
だが、連絡手段がなかった。エレヴァンの指示のもと、いくつか事前に試みたが、霧のなかでは魔獣をおびき寄せるばかりだった。これではいけない、とメリッサ村の廃墟までの道を戻ってはみたものの、どうすることもできないままだった。
結局、霧のかなたから夜が舞い降りるのを見守る以外に、思念結晶の光で身を守るので精いっぱいだった。
メリッサ廃墟での野営は三度目だった。急ぎたい気持ちは山々だったが、竜の移動に伴ってか魔獣たちの動きが不穏だった。
けものの唸り声や、紅の眼光が霧の向こうで曳行する。森がざわめいている。生きとし生けるものが異変に怯え、これから起こる変化に備えているかのようだった。
「いったい何が起ころうってんだ」
薪を集め、周囲を警備していたイリエが、戻って来るなりこうぼやいた。
「ひでえぞ。貪る熊の一体、二体じゃ気がすまないくらいだ。おれら生きて山を降りるのすら夢物語かもしらん」
「…………」
「やっぱり竜を暗殺するってこと事態がナンセンスだったんだよ。歴史上だれもそんなことをやり遂げてない。かの英雄アスケイロンだって……」
ふと、アデリナは気になった。
「あれ。アスケイロンって竜をどうやって退治したんだ?」
シュヴィリエールが答える。
「伝承では、アスケイロンは聖なる乙女が下賜した名剣:アンスラードで、逆鱗と呼ばれる鱗の下を貫いたことで斃したとされている。つまり、喉笛だ。白魔術が明かしたことに拠れば、逆鱗は竜属特有の息吹を溜める袋と、呼吸器官の切り替えを行う重要な器官だということだ。だから、そこを破壊すれば、現存種の竜に関しては窒息死する」
「うええ。意外だ……」
ここにエレヴァンが割って入る。
「だが古代種は魔術の心得がある。すなわち魔法結界を張り、そのなかでは無敵の存在になれる、ということだ。アスケイロンの伝承にはその魔法をどうくぐり抜けたかについての記述が乏しい。聖なる乙女の協力がそれを可能にしたという説もあるし、そうじゃないという説もある。できることなら、敵に知られずにその様子を伺いたかったんだが」
「その前に、だれかさんが暴走したり、魔法結界に巻き込まれたりでおじゃんになったってワケ」
「ちょっとイリエ」とクリスタル。
「だって、事実じゃんか」
アデリナはさすがに申し訳なくなった。
「すみません。アタシ、なんかそのあたりぼんやりしてて……」
エレヴァンは、焚き火越しに微笑んだ。
「どこかのタイミングで、開かれた悪夢の魔眼にとらわれていたのかな? 少なくともきみの症状はそれによく似ていた」
「わからないんです。でも、へんな夢をたくさん見た気がします……夢のなかで、アタシに呼びかけてくるような……」
「夢、か」
騎士は空を仰いだ。
「夢は黒魔術が跋扈しやすい領域だ。だからなにものかに魔術を仕掛けられていた可能性が高い」
エレヴァンは左右を見た。
「もしかすると、最初からわれわれははめられていたのかもな。竜を眼前にした唯一の生存者、アデリナ。そのものの夢にあらかじめ魔術を掛けておけば、戻ってきた時にだれが来るかすぐわかるって寸法だ。きみは図らずも二重の意味で役に立った。われわれの作戦にも、そして、敵の作戦にも」
「そんな……」
アデリナはうなだれた。
だが、エレヴァンは容赦なく続けた。
「魔術を敵に戦う、ということはそういうことなのだ。自分が自分だと思って、確信した行動でさえも疑わないといけない。気がついたら敵の思う壺ってことが、魔女結社との戦いでも少なからずあった。異端審問がつねに身内を疑うのも、そのせいでもある」
だが、だからこそ──と、エレヴァンは首を振った。
「なぜアスケイロンの伝説で、古代種の竜の魔術に打ち勝てたのかが失伝しているのか。それが、どうも気に食わない」
「──魔術は便利ですからねえ」
イリエが、呑気に言った。青年騎士は眉をひそめた。
「どういうことだ?」
「べつに。言葉のまんまだよ。こういう話をすると、〝真実を隠していると都合のいいヤツがいる〟とかいう話になりがちだ。でもおれは違うと思うな。
便利で、使い勝手が良くて、自分に都合の良いモノはね──特に自分の生活に肌身はなさず持ってるような事柄は、自然と庇いたくなるんだ。自分に旨味があると、どうしても〝これは良い奴なんだ〟って思って、それ以外の側面を見ないようにしがちなんだ」
息継ぎをする。
「だから、そういうことをしているうちに忘れたんであって、べつにどこかのだれかだけが悪いわけじゃないんだ。まずおれたちがそのことに無関心だったのがいけないんだ。悪用すればどうとでもなるやべーもんと隣り合わせに生きてるってことを、非常事態でもないと思い出せない、おれたちはとても残念な生き物なんだよ」
語るたびに、イリエの目が少し真剣になっていた。その言葉の含意を汲んで、エレヴァンは少し俯いた。
「すまない。アデリナ。きみを責めたかったわけじゃない」
「なら、隊長。これからどうするかをはやいとこ決めてほしいモンだね」
イリエの言葉は辛辣だった。さすがにクリスタルも眉をしかめたが、言っていることを被せて否定するような真似はしなかった。
結局、どん詰まりを解決する手段は見つかっていない。
だが翌朝山を降りることに変わりはなかった。一刻もはやく、行かねばならなかった。




