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聖剣と魔女のミュトロジア  作者: 八雲 辰毘古
第四章 過去と思索
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第10話 邪悪なる胎動

 〝言葉〟を植物に見立てたのはどこのだれだろう? 少なくともはるか古代のだれかがそう言って、納得感があったのは確かなことだ。おかげで思考は植物の生育を追いかけるように天高く伸び上がり、巨大な《樹》のかたちをなしていた。


 茨文字の書物を手に取る。ルートにその言葉を読むことはできない。しかしまるで茨の茂みに手をかざして、絡め取られるように、それとも、植物が水を吸い上げるかのように、自分に《根》を張っていくのを感覚していた。

 この知識はあまりに膨大だった。計り知れない年月を経て、脈動し、積み上げられてきた巨大な構造物。マグダレーナはこれを受け継ぐと言っていたが、どちらかというとルート自身の意識がこの中に〝参加する〟というのが実感だった。


 そう、むしろ自分がこの知識の一部としれ組み込まれていくかのように──


〝読み終わりましたか〟


 マグダレーナの声で、我に返る。

 案外あっさりと継承が終わってしまった。これでほんとうに終わったのか、と疑いたくもなる。だが、魔女の面持ちを見る限り、継承は完了したようだった。


 そのことを告げると、彼女はそうですね、と微笑んだ。


〝案外そういうものです。歴代の樹の番も同じことを言いましたね〟

〝でも、それじゃあ、お母さんの霊魂が解放できたのかどうかすら……〟


 口答えしようとして、ルートは言葉を失った。


〝え、嘘だ。なんで〟

〝なにかあったのですか〟

〝お母さんが、いない〟


 その目はあらぬ場所を見ているように焦点が定まらない。


〝どこ。どこにいるの? お母さん──ボクは、うわッ、ここはどこ? 墜ちる──ッ!〟

〝落ち着いてください。あなたが見ているのは世界樹の持っている膨大な《記憶》です。いま、この場所にある霊魂の見ているものではないのですよ〟


 必死に声を掛けるマグダレーナの傍らを、唐突に通り過ぎるひとつの影がある。まぎれもない。アデリナだった。彼女は泣き腫らした目もそのままに、ルートの顔に思い切り張り手をかました。

 その動きは俊敏だったが、〈沈黙(もだし)の地〉では単なる無音の動きに過ぎない。


 だが、ルートは今度こそ我に帰ったのだった。


〝……リナ〟

〝お前の悪い癖だ。思ったとおりにならないとすぐに慌てる〟


 イタズラっぽく笑う。泣き腫らした目尻にシワが生まれる。

 ルートにはそれが無理をして笑っているように見えてならなかった。


〝リナには言われたくないね〟

〝よく言うぜ〟

〝ふんだ〟

〝へんだ〟


 言っておいて、ふたりは同時に笑った。全くばかげていた。こんなときに、こんなことをしなくてもよかった。でも、これがふたりにとって〝いつも通り〟になるための儀式のようなものだったのだ。

 ルートはあらためて魔女を見た。今度はちゃんと、相手のことが見れた気がした。


〝魔女エスタルーレの行方がわかりません〟

〝おかしいですね。樹の番をしている限り、彼女の霊魂はこの場所に縛られているはずなのに〟


 上を見る。黒い天空は変わらない。目を細める。


〝ルート、世界樹のかたちを連想してみなさい。わたくしの見当にまちがいがなければ、腐食している箇所があるはずです〟

〝腐食……? あ、あった!〟


 ルートは振り返った。そこには観念が生み出した巨大な《樹》がある。


〝この根の部分だ〟

〝急ぎましょう。もしかすると──〟


 三人は世界樹の根元がつくる門のようなくぼみをくぐった。まるで巨大な怪物がぽっかりと口を開けていたかのように、その空間は唐突に現れた。土が、岩が、地層がむき出しになったこの〈沈黙(もだし)の地〉の深層に、かれらは手探りで立ち向かわなければならなかった。

 不意に、空気の中に粘りを帯びた湿り気を感じた。それはまるで水中からさらに別の種類の水中に移動したかのような奇妙な体験だった。動きのひとつひとつがより緩慢で、息苦しいものになった。暑く、呼吸がしにくくなるくらいに胸を締め付けた。


 下降する穴を降りきったとき、三人はその正体をようやく知る。


〝これは……!〟


 最も古き魔女は目を瞠った。

 そしてすぐに険しい顔になる。


〝あなただったのですね。千年の時を経ても、あなたは滅びなかった。それもそうだ。あなたこそ滅びることを最も嫌ったのだから……〟


 その目が、かれら三人の目が見つめる先には──黒い煙のようなものがある。

 ゆらゆらと揺れ動く、それは煙でありながらも炎のようでもあった。〈忘れの河〉から水を吸い、しっかりと根を張った場所においてなお、その炎は消えずにいた。そして根の一部を、火の舌で舐めて、黒焦げにしようと目論んでいるのだ。


 魔女はその存在を《蛇》と呼んだ。


〝あなたが記憶破壊刑ダムナティオ・メモリアエからまだ残存していることには驚きました。しかしもう終わりです。こうして見つかった以上は──〟


 邪悪の思念は、その声に応答するように、出し抜けにむくりと起き上がった。そうとしか言いようのない挙動で、それは三人の前に立ちはだかったのだ。


〝消せるのかね? この世界樹を?〟


 マグダレーナは眉をひそめた。

 何を、と言いかけたとたん、追い打ちを掛けるように影は笑い転げた。その声が放つ霊魂の震動だけでも、不快な気持ちになるようなおぞましい哄笑だった。


〝おれの霊魂はすでに世界樹と一体化することに成功した。だから、お前らがおれを完全に抹消するということは、古代から続く魔術のいしずえを破壊するという意味なんだぜ。ええ? おれの良き伴侶、〈永遠の魔女〉よ〟


 マグダレーナは暗い面持ちになる。


〝あなたの志に賛同したことを、いまでは悔いていますよ〟

〝よせよ。お前が生きているおかげで、おれは滅びずに済んだのだ。いまさら名前を呼ばなくなったところで変わるまい。お前は心のなかでは、おれをいまだに名前で呼んでいる〟

〝そうかもしれませんね。そしてあなたは、わたくしの記憶に名前が残っていることを頼りにして、世界樹のなかからあなたに関わる過去をすべて消そうとしている。もう一度、完全に復活を遂げるために〟


 困惑するふたごを、マグダレーナは一瞥した。


〝名前を消された存在の話をしましたね? かれが、そうです〟


 ルートは、アデリナは、その存在を直視した。

 黒々とした影のような存在。ひとのかたちを取るでもなく、それはそこにあった。


〝オールドーだ〟


 クツクツと笑う。


〝記憶したかね? じゃあもうお前は用済みだ〟


 瞬く間に、マグダレーナの(くび)に血しぶきが舞った。


 言葉を発する暇もなかった。ふたごが叫んだ頃には、魔女はその目を虚ろにして、ゆっくりと膝を付き、倒れ込んだのだ。


 立て続けに、アデリナが吹き飛ばされる。

 壁に打ち付けられ、磔になった。苦悶の表情を浮かべて抵抗するも、見えない力で押さえつけられていて、どうすることもできない。


〝ルゥ!〟


 最後のひとりになった少年は、黒い影に取り囲まれていた。


〝さっきの話、聞いていたよ、〈深き深淵(ルートルット)〉に〈太陽の乙女(アデラフィーネ)〉。きみたちの父親を、おれの手下が粗相したみたいだね。その無礼は詫びよう。いま()がこうして活かしてもらっているのは、まぎれもなくきみたちのおかげだ。きみたちに私が名乗り、その名と実在をきみたちが憶えているからこそ、私はこの世界に留まることができるのだからね……〟

〝…………〟


 ルートは黙って相手の言葉の先をうながした。影は顔すら見えない。だが笑っているのは分かる。決して懇願するでもなく、憐れんでいる様子もない。

 影は次第にかたちを取り始めた。最初はヒトのかたちを取り、若い男の肉体にそれは変わった。筋骨が健康な、痩身だ。同時に黒いつむじ風が起こって、その身体を包みこんだ。


 やがて、両目が落ち窪んだおぞましい人間の立ち姿がそこに顕現したのだった。


〝ご覧。私は「死」を克服した。完全な死でさえも、魔法の根源に触れることで蘇ったんだよ。きみたちの両親だって蘇らせることができるだろう〟

〝……?!〟


 ふたごは全く同様の驚きに表情を強張らせた。

 ルートは、唯一拘束もされずにいる少年は、その存在に向かって口を開いた。


〝あなたは……あなたは一体何物なんですか?〟

〝ふん。殊勝(しゅしょう)な子だ。強いて言うなら、そうだな。魔法を統べるもの──「魔王オールドー」とでも呼んでくれるといいかな〟

〝魔王……?!〟


 その存在は興味深いものを見るまなざしで、ルートを見た。そしてそのおとがいを指で触れ、ゆっくり持ち上げる。とても冷たい。凍りつくような感触がした。


〝〈深き深淵(ルートルット)〉……いい名前だ〟


 独語する。その息すらも掛かりそうなほどの至近距離で、ルートは魔王の落ち窪んだ目に吸い寄せられる。


〝きみは私とよく似ているよ。霊魂(たましい)の質、といえばいいのか。その探究心に飽くことなく、真実を追う知性がある。そしてなによりも、この世の不正義に憤る感性すらも、持ち合わせている〟

〝何を……〟

〝魔女に言われるまで、きみは魔術で死者を蘇らせて、悲しみを和らげないかを考えた。ふつうの人間はそんなことは考えない。常軌を逸した思考だ。だがきみは、大切なもののためなら、その一線を踏み越えることを厭わない……〟


 ルートは気色ばんだ。


〝そんなことはない!〟

〝いいや。そうでもないさ。きみは可能性を否定しない。だからこそすばらしい。魔法とはつねに可能性だからね。諦めるなんてことはあってはならない。そのはてに私は真理をつかんだ。だが、まだその先があると信じている。探求は進められなければならない!〟


 ルートはなんとかそれを否定しようとした。しかし自分のありあまる言葉の渦の中でも、それを完全に論破することができないことに、気付いた。

 気づいてしまった。隠者になりたい夢も、ほんとうは世の中で生きているあらゆるどうでもいいことから逃げたかっただけなのだ。かれは自分の興味のあることだけに取り組みたかった。それは白魔術の研究だった。みんなが知らないことを知る。そのために無自覚にどこまでも努力できる自分の本音が、オールドーの言葉に共鳴している……


〝そんなことはない〟


 声に力が入らなかった。その気迫に、何を思ったか、オールドーはほくそ笑んだ。

 かれは少年の肩を抱くように、こちら側に連れ出すと、世界樹の奥にひろがるくらやみに向かって映像を結んだ。

 そこには黒い甲冑に身を包んだ男が、必死に黒竜デォルグと戦っているすがたが映っていた。お父さん……とルートの言葉がすっかり漏れ出る。


〝死んだのは事実だ。いまお前たちが見ているのは父親の残像だ。幽霊なんだよ。かれにもう肉体はない。きみたちの思い出の力だけで存在し続けているんだ。それも、時間が経てば記憶とともに風化する。この世界に留まっていられなくなるほど、過去というものはあっけなく消え去る。たとえ望もうと、望まざるとも〟


 オールドーは残念そうにため息を吐いた。


〝私はその不幸をなくすために魔法を研究している。過去形じゃない。いまもそうだ。なぜ自然は生きとし生けるものを死に追いやるのだろう? なぜ死によって永遠に別れていなければならないのだろう? なぜ失くした思い出は元に戻らないのだろう? ほかにもいろんな哀しみや苦しみがある。これをなくそうとすることの、どこが間違っていると思うのかね〟


 ルートは黙っていた。何かを喋ろうとしても、それが嘘になるとわかっていた。まるでその内面を理解したかのように、オールドーは手を差し伸べた。


〝きみがひと言、私の名前を呼び、ゆるすとさえ言ってくれれば──きっと、きみが心の隅で本当にねがっていることを叶えてあげられると思うよ。それは、私がいま克服したことの応用でできることだからね〟


 アデリナは、この一部始終をすべて聞いていた。そしてそれがまずいことだと直観では理解していた。

 だが、叫ぶことができない。魔王の力によって、霊魂を束縛されている。ただ見ていることしかできない。ただ怒りに震えていることしかできない。


 アタシは──と彼女は思った。こんなにも無力だったのか? なんのために戦う力を身に着けたと思っているんだ。なんのために頑張ってきたと思っているんだ。なんのために、なんのために……無数の思考が渦を巻いて、彼女の高ぶる精神を焚きつける。その力はまだ肉体を震わせて、決定的な行動に至るまでは足りていない。

 ほんとうに守りたいものを、守るためには。まだその力は足りていないのだ。


(負けたくない)


 アデリナは心の底から思った。


(神様、聖なる乙女──いいやだれでもいい。この祈りが届くなら、この言葉を届けてくれるなら、アタシはだれにだって祈ってやる。どうか、どうか……アタシが守りたいと思っているたったひとりの家族を、まちがった道に入る前に止めてくれ。だれかが「だめだ」と言わないと、だれもが間違ってしまうような迷路に突っ立っているそのたったひとりの大事な家族に、「だめだ」と伝える勇気と力を、くれ……!)


 自然と涙が流れた。悔し涙が、ポロポロと世界樹の根の空間に、したたる。


(母さん──)


 その時、光が生まれた。ルートが光に包まれて、それから。

 ひとりの女性が、少年をかばうようにしてオールドーとの間に立ちはだかっている。その見た目はやつれてはいるが、依然として美しい黒髪と、夜明けの空にも匹敵するような透き通った青い瞳であった。


〝あーあ。保護者の出番ってワケね〟


 魔女エスタルーレは苦笑していた。

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