第3話 茨文字の手帖
晩ご飯を片付けると、ふたごはさっそく家捜しを始めた。
「まずリナはあっちの物置きから調べてよ。ボクはこっちの長持ちを探してみる。何かそれっぽいものがあったらテーブルの上に並べること。いい?」
「よし任せろ!」
そしておよそ半刻が過ぎた頃──
ふたごはテーブルを挟んで座りなおした。
卓上にはその成果がずらりと並んでいた。
さまざまな鍛治道具。
つぎはぎだらけの大きな上衣。
そして、極彩色の不気味な箱。
端的に言ってこれだけだった。しかしふたこが思っていたよりも充実した成果だった。
「まあこの辺はいいとして、最後のこれだ。この箱は一体なんなのか、ていうことだね」
ルゥが指差したのは、極彩色の紋様を施された小箱だった。
これこそは長持ちの上げ底の下に隠されていた品物だった。
しかしその蓋は鎖のついた錠で閉じられており、固く沈黙を守っている。
「ルゥでも知らないことってあるんだな」
「そりゃそうだよ。ガーランドさんみたいに大学都市に行ってるわけじゃないんだし」
「別に大学行ってる人がなんでも知ってるわけじゃねーと思うけど」
「それは……まあいいや。いったんそれは傍に置いておこう」
ルゥは改めて箱を持ち上げる。二、三回振ってみると、重たい感触を得た。
金属音も混じっている。複数個、重なって鳴っているのがわかった。
「金貨っぽいな。五枚ぐらいはありそう」とリナ。
「へそくりだったりするのかな」
「ありそう」
「それにしてはやけに重いね」
「金塊でも入ってるんじゃないのか?」
「ううん、そういう感じでもないんだけど」
「なら、ちょっと貸せよ」
リナはふたごの弟から箱を奪い取ると、いささか乱暴に箱を振った。
ジャラジャラと金属音が、確かにある。しかしそれは妙にくぐもっていた。
リナは眉をひそめた。
「わけわかんねえな」
「でしょ?」
片眉を上げて応答するルゥだったが、いよいよ真剣に困った顔をする。
「こんな箱の鍵、うちにあったかな?」
「納屋の鍵は?」
「全部試した。ダメだった」
「じゃあ、あれだ、家の鍵」
「冗談で言ってる?」
「いや、他にないのかよ」
「ないよ。だから困ってるんじゃないか」
「ちきしょう、なんだってんだよ」
リナはくしゃくしゃと頭を掻いた。
「だったら方法はひとつしかないだろ」
「なに」
「ぶっ壊す!」
持っていた箱を、そのまま床に叩きつける。
ルゥが立ち上がるより前に、リナは動いていた。
床に転がった箱に、足で追い討ちを掛ける。力の限り踏み抜こうとするが、全く壊れる気配を感じなかった。
そこで、とうとう我慢できなくなったリナは、家屋の裏手に走り出す。戻ってきたその右の手には、薪割り用のナタがあった。
もはやルゥには、止められない。
「あー、もうボク知らないっと」
そう言って耳をふさぐ。
リナは構わず、ナタで箱を木っ端微塵に破壊してみせたのだった。
「開いたぞ」と彼女は言った。
ルゥが見たのは、見るも無残な光景だ。
彩色が施された木材の破片。
鎖が未練がましく付いた箱の残骸。
重たそうな麻布の袋。
そして、黒い表紙の本が一冊。
散らかっているのはともかく、ふたごの姉が、いちおう中身が傷つかないよう工夫していたのはわかった。
「でもさ、これは『開いた』ではないよね」
「いいんだよ、終わり良ければ全て良し!」
「暴論なんですけど」
「気にしすぎ、気にしすぎ!」
彼女はナタを片付ける。とは言っても、壁に立てかけただけだったが。
ルゥはそのあいだに、本を手に取った。
本の表紙は黒い革でできており、表紙には白い線で十字と複雑な記号が刻み込まれていた。見慣れない紋様だった。歴代の〈聖なる乙女〉が受け継ぐ原罪のしるしのようにも見えたものの、全くの別物である。
むしろ魔女結社の刻む異端の五芒星のほうが近いかもしれない。
しかしこれとも異なるものだ。
全体としては線が交差し合った星形の六角形で、均一感はない。さながら一筆書きでスッと描き切ったような鋭さすら感じる。
その六角形の中央に、原罪のしるしを暗示する十字があるのだった。
このように刻まれた記号を、ルゥは知らない。
「なんだ、この本」とリナ。
「わからない。けど、すごく不気味だ」
「不気味どころじゃねえぞ」
ごくり、とルゥはつばを呑み込む。
恐る恐る、本に手を掛ける。漆黒の扉を連想するその表紙は、底知れぬ異界への入り口にも見えた。
本読みだからこそよくわかる。書物は知識が詰め込まれた宝箱のようなものなのだ。
教導会が広める聖典『神聖叙事詩』をはじめ、世界の多くの知識が、本のかたちに閉じ込められている。
書物をひもとくことは、その閉ざされた世界の知識を開くことだった。ゆえにルゥはまだ見ぬ世界を想い、あこがれとよろこびを胸に抱え、読書にいそしんできた。
ところが、今回はそうではなかった。
この本は開かないほうがいいかもしれない。そう、直感が叫んでいる。多くの読書体験を経たからこそ、無意識にその本を読むことを拒絶している自分に気がついた。
じわりと手に汗が浮かぶ。
まるで本の表紙が重い鉄門扉になったかのように、ぴくとも動かない。
それを察したのか、リナが不機嫌そうに手を出した。ルゥの視界をさえぎるように、ひらひらと注意を外に向けさせる。
「おーい。もしかして父さんや母さんが魔女宗派だった、なんて思ってないよな?」
「そ、ソンナコトナイヨ」
「……図星か」
はあ、とため息を吐く。
「誤魔化したってムダだぞ。ルゥの考えてることは、わかりやすいから」
ルゥはうなだれる。リナはそっと、本の表紙に手を伸ばした。
「大丈夫だって。変なこと書いてたって、アタシたちの父さん母さんが知らない人になるってわけじゃない……と思う」
「最後ぼかさなければカッコ良かったよ」
「う、うるさい! さっさと読もう!」
乱暴に留め金を外し、本を開いた。
しかし彼女の期待は裏切られることになる。
なぜなら開いた最初の一ページ目──扉絵の部分から、未知の文字がていねいに書き込まれていたからだった。
リナは決して文字が読めないわけではない。
青の日に執り行われる礼拝の折、つねに聖典の読み聞かせがある。そのときにルゥが持ち込んだ手写本を読み合わせ、簡単な読み書きができる程度には物を知っていた。
ところがこの本には彼女の知らない文字が一面にびっしりと詰まっていた。
さながら茨の茂みに出くわしたかのような心地だった。実際に文字そのものも、茨のように棘があり、複雑に絡まり合って解きがたい様相を示している。
こうして写本に取り組んでいるときのことだった。
リナは、ふと隣りで異変が起こりつつあるのを目の当たりにした。
「……ルゥ?」
彼女が見ているのは、ふたごの弟の目から、次第に光が失われている光景だった。
その青藍石のような瞳が、だんだんと色あせている。
おまけに彼の唇から、ぼそぼそと知らない言葉が漏れている。まるで小声で音読しているようでもあったが、リナにはそれがどこの言語なのか、わからない。
とにかく直感で理解したのは、このままではまずい、ということだった。
「ルゥ!!」
大きな声でその名を呼ぶ。
だが反応はない。
あわてて肩を揺さぶる。それでも意識が戻る様子はなかった。
こうなったら、と最後の手段に出た。
とっさに手を振り上げ、ルゥの顔をはたく。乾いた音が、張り詰めた空気を破裂させたかのように響いた。
「……あれ?」とルゥ。
赤くなった顔の左半分に、手を当てる。
その目はろうそく灯りを受け、輝きを取り戻していた。
「しっかりしろよ。まるで本に吸い込まれてるみたいだったぞ」
ルゥはしばらく惚けた顔だったものの、やがて状況を理解した。
ほおをさすって、眉をひそめる。
「痛いよ。リナ」
「仕方ねえだろ、こうでもしなきゃ、戻ってこなかったんだから」
「まあ、そこはありがとう」
だが文句は言い足りないらしい。ルゥはしばらくぶつくさと口ごもっていた。
と、そのとき。
村の寺院の鐘が鳴った。
ひとつ、ふたつ、みっつ……
音がすべて鐘の音に吸い込まれた。
よっつ、いつつ、むっつ……
ふたりは黙って虚空を見つめていた。
ななつ、やっつ、ここのつ……
鐘の残響が、引いた潮のように静けさを運び込んだ。
「もう夜なのか」とリナ。
「なのに全然進展なし」
「誰かさんが本に熱中してたからな」
「それは、だってさ……」
ルゥは名残惜しそうに、黒い装丁の写本を見やった。それはまだ床の上でページを開きっぱなしになっていた。
しかし、リナがそれを閉じた。
「ダメだ」
「でも」
「ダメって言ったらダメ」
「……はい」
しょんぼり落ち込む。その横顔から、黒くて長い髪が、こぼれるように垂れ下がった。
リナは頭をくしゃくしゃと掻いた。
「とにかく! こういう本をよく知らないまま、アタシたちで扱うのは危険だと思う」
「そんなことない。聖典の『箴言集』にも〝茨の秘密はおのれの手を血で染めねば決して開かれ得ぬ〟ってあるじゃないか。危険に手を伸ばせない人には何もつかむことができないって意味だよ」
「屁理屈ばっかり言いやがって。手掛かりが欲しいならこっちの袋を調べてみれば──」
そう言って袋を手に取ったとたん、袋の口から小金貨が五枚、こぼれ落ちた。
これは城市で半年は暮らせるほどの大金である。そのためふたりは一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
「やっぱりへそくり?」とリナ。
「……みたいだね」
と言いつつも、ルゥは最後に落ちた獣皮紙片を拾い上げた。
先ほどのこともあったため、少し警戒はしたものの、好奇心は抑えきれない。
開く。予想に反し、ごく普通のつづりで、次のように書かれていた。
〝来るべき日に備えて。
運命に打ち剋つために。
そして子供たちの未来のために。
追伸:母さんの墓参りを頼む〟
「どゆこと?」とリナがのぞき込む。
「さあ」
ルゥは首をかしげた。
その時リナの脳裏に、あることがはたと閃いた。
火打ち石を打ち付けたときのような、束の間の光がほとばしる。しかしそれは燃える対象を見つけられず、ただ虚しく目の端によぎった幻のように残像だけを映している。
「ちきしょう、なんだってんだよ」
わしゃわしゃと頭を掻きむしる。
「よし、寝よう」
「へ?」
「考えるの、疲れた」
「そんなめちゃくちゃな」
ぼやくルゥを尻目に、彼女はベッドに潜り込んだ。
「書き置きがあるんだったら、その通りに母さんの墓参りに行けば良いんじゃないか? その方が手っ取り早そうだし、なにより眠い時に無駄に頑張るのは止そうぜ。アタシはあした忙しいしさ」
「リナ……」
「なに?」
「いや、なんでもない」
ルゥは苦笑で誤魔化した。ほんとうは、リナの正論にすっかり舌を巻いていたのだった。散らかった木片やら、小物の整理やらを片付けてから、遅れてベッドに入る。
そばで寝息を立てているふたごの姉のことを考えながら、そういえば司祭さまとガーランドさんはお父さんを見つけられたのかな、といまさらのようにルゥは思った。
しかしそれは考えても答えがない。割り切って、そのまま眠りに落ちていった。