第9話 忘却の霧に包まれて
騎士たちは、干し肉と木の実をかじり、堅焼きのパンを砕いて食べた。味は変わらずお粗末と言ってよく、どれも咀嚼するのに時間が掛かったし、味も全然弱かった。
干し肉の塩辛さをククルカの実の渋みでごちゃまぜにし、堅焼きのパンを唾液でふやかしたところに一気に飲み込む。こんなことの繰り返しだったから、アデリナは、いつしかルートの手料理が恋しくなってしまった。
(そういえばあいつ、料理やたらと美味かったんだな……)
べつにアデリナだけが食べ慣れてないというわけではない。
騎士たちも、エレヴァンを除いてだいたいが渋面をつくって延々と咀嚼の作業をし続けている。そんなところに、アデリナは奇妙な仲間意識を持った。とくに、イリエが愚痴っぽく辺境伯の城内で食べたという野鳥の香草焼きだとか乾酪を溶かして食べるパンなどを、聞かされるだけで耳に毒だったが、気持ちとしては非常によくわかった。
「さて、腹ごしらえも済んだことだし、状況の整理といこうか」
イリエが冗談めかして言うと、エレヴァンは目を細める。しかし口を開いてたしなめたのはクリスタル・ハミルトンだった。彼女は眠そうな目をゆっくりと向けて、それでも言い草は冷淡で、厳しかった。
「ちょっと。なんであんたが仕切るの」
「いいじゃんかよ、べつに」
「よくない。秩序が乱れる」
「おまえはいつから秩序の番人になったんだよ」
「騎士になってから、ずっと」
「あいあい、へんなことを言ったオレが悪うござんしたー」
さすがにここまで来ると、エレヴァンは苦笑した。
「その減らず口も頼もしいくらいだな」
「はッ、はやく話を始めな」
「ではそうしようか──」
エレヴァンが指摘したのは、クリスタル・ハミルトンが単独行動によって収集した瘴気の分布情報だった。
ルートが先行し、真っ先に倒れたことで、瘴気の発生と分布は想定よりも広く拡大していることが判明した。万が一の事態を想定しても、思念結晶がメリッサ村の遺構から採取可能なことを見越していたのだった。
おそらく〈祈りの碑〉は壊されてはいない──それが可能な魔獣はいまのところいないし、魔女がやったとしても運搬する利点が薄いからだ。ただ粉砕したとしても破片は残る。この観点からすると、そこまで考慮にいれるべきことではなかった。
いっぽうで、目標である共同墓地の古井戸のこともあった。
そのためメリッサ村の遺構を目的地とすることに変わりはない。
だが、その道程はより困難を極めている。
第一にリュウノコケラの群生や、貪る羆などの大型魔獣の徘徊が観測されたことがある。タリムを急襲した月狼の一群も、ひょっとしたらいるかもわからない。魔女の獣がいたらより厄介だった。
こうした直接的に害を及ぼすような魔獣だけではない。瘴気にのみ棲息する、幻覚作用を持った匂いを放つ魔性の植物や、ヒトの声に似た幻聴を発する怪鳥のたぐいもいるという先例もあって、かれらの懸念は時間とともに山積みになっていた。
「魔獣も危険度によって分類がなされていて、大型だからといって危険度が最大なわけじゃない。むしろ大型でも行動習性が単純で危険度が低いもの、その逆もありうる」
「まあだからといって、なんもしないわけじゃないんだけど、やり方は慎重に考えないとなわけですよ。アデリナさんよ」
右に左に、とにかく勉強ばかりのアデリナで、すでに頭がいっぱいいっぱいだった。
「とにかく、魔獣をいちいち倒してたらキリがないのは、わかった」
「そう、初心者はそういう理解でいいさ」
イリエはそれ以上を解説しようとした〝真面目な〟人々を一瞥した。
「まあそれもな。視界が開けてればっていう但し書き付きなワケですよ。瘴気は濃くなるとふつうの霧と同じで目が効かなくなる。へたに吸えば毒にもなるわけだから、鼻も利き難い。聞こうと思うと幻聴や、ヒトを騙すための鳴き声だったりする。だからほんとうに慎重に、念入りに、ゆっくりと進むのが潜入のコツなのよね」
というわけで、かれらは決め事を確認し合ってから、洞穴からの出発を決定した。
折しも太陽は上り調子だった。
アデリナの肌感覚ではここから村に入るのに二刻も掛からない程度の距離だった。ところがそれは自由に視界が利き、魔獣がいない時の話だった。いまこれから挑む移動は、アデリナが想像するよりも遥かに難易度が高く、遅々とした道中となっていた。
まず、一行は川沿いに登って、コケラブナの木立ちに隠れたけもの道を探す。
動物たちが魔獣に取って代わったからと言って、その生存の痕跡が消えたわけではない。だから、足元に踏み倒されたリュウゼンモウの下生えを見つけると、そこから向きを変えて瘴気の霧と正対した。
エレヴァンが先頭に立つ。
その片手には思念結晶を巻いた赤い布。
もう一方の手には龕燈があった。
「アデリナ、どっちだ」
エレヴァンが問う。
アデリナがけもの道の向こう側を指した。
「そこです」
言い終わるや否や、エレヴァンが思念結晶の一部を投げた。
瘴気にあたったそれは陽光を反射した金属片のようにチカッと輝き、地に落ちる。
光は消えない。
鋭く照り続ける。
一同はその光がなんら影を映さないことをよくみたうえで、龕燈を掲げた。
アデリナを含んだ騎士たちは、みな口を覆う装備を身に着ける。思念結晶が作り出す結界は、瘴気を無効化と言ってもいいほどに弱める働きを持つが、それでも万一のためと開発されたマスクだった。
全員、ゆっくりと霧の中に入る。
すると思念結晶の塊が入った龕燈が、真夜中の照明のようにあたりの霧を一気に晴らした。まるでそこだけ空気が別物になったかのように、霧が分かれたのだ。
言葉だけだと、結界という概念はアデリナは理解できなかった。しかしこのような形で可視化されると、さすがに白魔術のありがたみを感じずにはいられなかった。
一説に拠ると、瘴気を浄化する霊がこもった鉱石・結晶のことを思念結晶というらしい。触れた生命の思念に反応し、濁ったり、清められたりするのがその特徴だ。
一見すると白魔術は単なる知識や机上の空論のように見られることが少なくない。
しかし、あくまで白魔術とは、事物の判明している性質を活用する手立て一般を指す言葉だった。
それはわかりきった物理法則から、魔性のものに関わる法則──魔法による作用をも広く含んでいる。
騎士たちの活動はこうした知見のもと、集団で、だれでも活用できるように常に改善し続けられたものの上に成り立っている。
さて、思念結晶が生み出した移動する結界の中で、かれらは徐々に開けては後退し閉じていく視界をまさぐった。
霧にまぎれて林立するコケラブナやアザモミの枝に辟易させられながらも、一同は最初に投げた思念結晶を回収する。
その道中に異変はなし。
ただ、激しい緊張感があった。
「こういう場だから、ヒトが黒魔術にかかりやすいんだ」
イリエがおもしろおかしく、それでも冷や汗をぬぐいながら言った。
「白魔術と黒魔術の違いは知ってるよな? ああいうもの──特に黒魔術については、所構わず自由に使えるわけじゃない。むしろ術を使う側も使われる側も、〝なにが起きてもおかしくない〟って思うような状況を用意して、そのなかでしか使えないんだ」
「ん……どういうこと?」
「そうさなあ、かんたんに言えば、結界の中でしか黒魔術は使えないってそう覚えてもらえりゃいいさ」
「イリエ」とエレヴァン。
青年騎士は肩をすくめる。
「正しい知識は学校で習えばいい。いまは生き残るための知識だ。都度勉強しないとオレたち、余裕ないんだぜ?」
「それはそうだが……」
「アデリナさんよ、次はどっちだ?」
代わってイリエが問う。
アデリナは足元を慎重に点検してから、今度はコケラブナの木の陰を指さした。
エレヴァンが再び思念結晶を投げる。
また一同はゆっくりとその投げた方向に進路と取った。
一歩、一歩。進む。
足音すら大きく聞こえる。
気配をさぐる。
空をつかむ心地がした。
ただ似たような景色がある。
コケラブナ。
コケラブナ。
それからアザモミ。
下生えは絶えずある。
リュウゼンモウにヘビカズラ。
ときどきウツケソウ。
風が強く吹いた。
樹々が揺れる。梢が鳴る。
とっさに振り向いた。
霧の向こうに影はない。
ただ音だけが通り過ぎた。
それでも冷や汗を掻くには十分すぎた。
「くそっ」とイリエ。
「そういうのやめて」とクリスタル。
エレヴァンは無表情を貫く。
シュヴィリエールは顔を強張らせていた。
そしてアデリナは──
〝…ナ、リナ〟
(だれか、アタシを呼んでる?)
ふと、左右に首を振り、周囲を確認する。
その動作に気づかぬ騎士ではない。
「どうした?」とエレヴァン。
「わからない。けど、アタシを呼んでる声が聞こえるような……」
イリエが割って入った。
「まずいな。幻聴だぜ、それ」
「あれ、アタシにしか聞こえてない?」
「どうやらそうらしいぞ」
シュヴィリエールも困惑している。
ところが──クリスタルが口を開いた。
「いや、まって。金属音が聞こえる」
はたしてその通りだった。
カシャン、カシャンと擦り合う音が間隔を開けて近づいてくる。さすがに騎士一同みな剣を抜いた。だが、敵意も害意も感じない。それが余計に不気味さを煽った。
やがて、視界の端から結界にさぐりをいれるように金属の腕だけが入ってきた。
突き出された、金属の右腕──
あまりに唐突に侵入したので、シュヴィリエールが一瞬悲鳴を上げたほどだった。
とっさにクリスタルが口を塞いだが、シュヴィリエールはらしくないほどに動揺していた。はからずも目が潤んでいるようだった。
「おまえは……」
かれらが見たのは動く鎧──とでも言えば良いのか、中身が不明な甲冑姿だった。
黒い鎧の騎士。
しかし誰何の声には応えない。
「なんのために」困惑の声にも回答はない。
鎧は騎士たちの存在を察知すると、その籠手の動きだけで来るようにうながした。
最初は警戒して無視する。
だが、しばらく距離を取ったかと思うと、その鎧は思念結晶のかけらを拾ってよこした。どうやら害意はないらしい。それで信用せざるを得なかった。
「いったいなんだって……」とイリエ。
「そもそも、メリッサ村にはあのような鎧の騎士はいないはずだが」
「騎士でいうなら、父さん──ノエリク・ガルドがいたはずです。でも鎧なんてアタシ、家じゅう探してもどこにもなかったのに」
アデリナは始終ふしぎそうにしていた。
その間ずっと、カシャンカシャンと均一のリズムで鳴り響いている。
やがてかれらは、霧のむこうにそびえる物陰を見た。
太陽が傾き、その日差しを浴びながら、徐々に見せる輪郭をたどっていくと、それは動物や魔獣の侵入を防ぐためのシシ垣だということがわかった。通常の魔獣はここで侵入を遅延させられるのだ。だから、多少荒らされた痕跡はあったが、比較的無傷であることがわかった。動く鎧はよりにもよって、メリッサ村その場所に案内してくれたのだった。
「ありがとう。もう迷わないよ」
アデリナがそう呟いた。
しかしその意味はだれにもうまく伝わらなかった。
動く鎧はそのままメリッサ村の正面の門までたどりつき、そこで立ち尽くしていた。
アデリナはとっさの判断で霧のなかに飛び込む。騎士たちの非難を浴びながらも、彼女は前に進む。動く鎧の正体を確かめずにはいれなかったのだ。
しかし彼女がその鎧の中身を改めようとしたとき、ふと籠手が彼女の頭をなでた。なつかしい撫でられ方だった。
ゆっくり、ゆっくり。
大切そうに。
けれでも不器用そうに。
その感触だけが、ヒトのぬくもりの欠けた籠手越しに行われる。
「父さ──」言いかけて、澱んだ。
(アタシは何を言おうとしたんだ? そんなことは絶対ありえないのに)
だから、言葉が言葉として意味をなす前に、動く鎧は崩れて落ち、アデリナはメリッサ村へと連れ戻されたのだった。