第2話 失踪した父親
「ラストフが、お父さん?」
「そんな名前だったか?」
ふたごは顔を見合わせた。
司祭の慌てようは尋常ではない。
「いや、待て。待ってくれ。ふたりとも何も知らんのか? 親の名前もわからなくなってしまったのかね?」
「ええ、あの……」
ルゥが首をかしげて、
「そんな人、初めて知りました」
「ああ、〈聖なる乙女〉よ。これが悪い夢ならどうか醒めてください……」
血の気も引いて、ヘルマン司祭はいまにも卒倒しかねない勢いだった。
しかし実際に倒れたのはリナだった。急に糸が切れたようにひざを付き、ゆっくりと地にひれ伏した。一連の動作があまりにも静かに進んだため、ルゥは振り返ってもすぐにその異変に気づけなかったくらいだ。
「……リナ?」
目をこする。もう一度見る。
「リナ!」
「どうした?」
ひざを突いてリナを抱きおこすルゥ、それを見てヘルマン司祭は落ち着きなく左右に助けを探し求めた。
さいわい、救いの手はすぐそばから差し出された。
「どうかしたんですか」
ガーランドだ。
大学都市を出た医術師、白魔術の徒、村の頼りな訪問医、物好きな好青年──彼を巡っては、無数の箔のついた呼び名が飛び交う。ギルドの決まりを受けてこの村に赴任しているこの男は、メリッサの生活にすっかり馴染んで、欠かすことのできない存在だった。
特に単眼鏡を掛けたその顔は、彼の代名詞と言っていい。
そのガーランドは、ついさきほど村のはずれに住むユリア婆さんの往診を終えてきたばかりだった。
ふだんであれば、日に二度──朝早くと日暮れ前に往復する乗り合い車に乗って、城市のギルド宿舎に戻るだけだった。ところがその帰路、事態に出くわしたのである。
急患は、彼にとって任務だった。
ガーランドは事情を聴くなりリナのからだを抱きかかえて、最寄りの家屋に入った。
背をややかがめ、扉をくぐる。すかさずベッドの位置を認めると、そこへリナを横にした。間をおかずに手をかざす。熱を測った。同時にのどや脈を診て、風邪ではないことは理解すると、ほうっと息を吐く。
「どうも、強いショックを受けて気絶してるような感じだね」
「実は……」
ルゥは、リナが倒れる直前に起きたことを順序立てて説明した。
ガーランドは次第に険しい表情になる。
「記憶喪失……?」
「まさかとは思うけど、魔獣が近くに出たんじゃないかと」
「瘴気を吸ったのか。界嘯の兆しは?」
「いえ。ボクはなにも……」
言いかけて、ルゥは急に我に返った。
「ボクはなにも見てないです」
ガーランドの目が、単眼鏡越しにスッと細くなった。
「そうか。でも、だったらなおさら調べなきゃいけないね」
ヘルマン司祭を呼んで、はなれ山近辺に捜索隊を出すべき旨を伝える。大人たちの会話のなかには、緊張が走っていた。
魔獣が現れる兆し──教導会はそのふしぎなできごとを界嘯と名付けた。この世ならざるものが世界に触れる、その瞬間に発する不気味なねじれ。そこから魔獣は現れるのだ。
このとき発生した近辺では空気が変わる。ヒトの直感でしか察知し得ない、さむざむとした、得体の知れないおぞましい気配が忍び寄る。錯覚ではない。むしろ吸えば直接害が出る。毒気そのものだ。
この〝瘴気〟を吸いすぎると、ヒトは息ができなくなって気絶する。あまりに激しい毒のため、記憶を失うとも言われていた。
だが、逆に瘴気の発生は、魔獣の発生を裏付けるものでもあった。
「すぐに戻る。はなれ山の、森のほうだったね?」
「はい。〈不入の森〉のあたりです」
「禁域か。やりにくいな」
独りごちる。
ルゥは急に不安になった。
「あの、ボクたちはどうしたら」
「まずリナの容体を診ててくれ。界嘯のことはわかったらまた連絡する」
ヘルマン司祭がどたどたと駆け出すのを目で送って、ガーランドはふたたび家屋に入った。
リナは正常に呼吸している。それを見て、ガーランドは手袋を嵌めた。
「術式は止しておこう。強制的な治癒術はからだに強く負担をかけるから、本来あるべき回復を遅らせてしまうんだ」
ガーランドはそう言うと、簡単な薬を処方して、ルゥに手渡した。
起きたら呑ませてね、と付け加え、彼は心配そうにしている司祭とともに家を出た。
「なるべく早く、ラストフを探し出すさ。それまで心ぼそいかもしれないけど、どうか耐えてくれ」
彼はそう言うと、バタンと扉を閉めてしまった。
ぽつん、と訪れた沈黙。冬が来たわけでもないのに、急に背筋が冷えた。ぶるっと身体を顫 わせて、ルゥがつぶやいた。
「また、ふたりだけになっちゃったね」
リナは無言だった。
まだ気を失っているのだろうか。
ルゥはそれ以上は何も言わず、淋しそうな顔をして、リナの寝顔を眺めていた。前にもこんなことがあった。それはそんなに遠くもない日のことだった。しかしそれを思い返すには、心が落ち着かない。
なぜこんなときに父はいないのだろう。
どうしてリナが気を失ったんだろう。
そして、なによりもボク自身が何も思い出せないでいるのだろう──
ルゥがうんと考え込んでいたそのとき、リナが目覚めた。彼女はまるで何もなかったかのように、うんと背伸びをする。
「むにゃ。あ、おはよう」
「……何も憶えてないの?」
「ほへ?」
「いや、なんでもない」
気まずい思いがして、素早くうつむく。リナは眉をひそめるものの、あんまり気兼ねせずにベッドから降りた。
「もう身体は平気なの?」
「うん。それがもう、ばっちりでさ」
と、言いながら腕をブンブン振り回す。しかしすぐに間の抜けた音が、お腹のあたりから鳴り出した。
つかの間の沈黙。ルゥは目を点にしていたが、それが空腹の音だと理解するに到って笑い出した。失礼なほど、大声で笑った。
「な、なんだよ」
「いやあ、リナの腹時計は正確なんだなぁ、て」
「ふざけてんのか!」
「まじめもまじめ、大まじめー」
なんだか、リナと一緒にいればどんな最悪な事態も笑い飛ばせてしまいそうだ。ルゥはかまどのほうに足を向けながら、そんなことを思っていた。
いっぽうリナは、弟の気など知らず、むすっとしている。その間にも腹の虫がごうごうと喚き立てているものだから、いつしかこれが空腹によるものなのか、不満を代弁しているのかが自分でもわからなくなっていた。
そしてとうとう、こう言い出した。
「早くメシ出せ! 怒るぞ!」
「はいはい、言われなくてもやってるてば」
やがて繰り返し文句を言われながらも、ルゥはサトムギのパンと、丸ネギやコゼニマメの煮込み汁を持ってきた。
木椀に容れられた煮込み汁には、腸詰めの肉や、裏の菜園から採ったナツナの葉も入っており、彩り豊かだった。リナは飛びかかるように食べ物を手に取ると、猛烈な勢いでほおばり始めた。
その下品すれすれの食べ方に、ルゥは眉をしかめる。
「ちょっと、もう少し落ち着いて食べてよ」
「いいらんはよ、べふに……」
「食べながら喋らないで!」
とは言いつつも、ふたりは淡々と食事を進めていった。
素朴で麩の多いパンの、独特な噛みごたえを味わいながら、煮込み汁と一緒に食べていく。パンを木椀に入れて、十分に汁を吸わせてから口に運ぶのだ。リナはとうとう、パンそのものを匙のように自在に使いこなして、具のひとかけらも残さないよう、そそくさと食べ尽くしてしまう。
そんな姉を見ながら、ルゥはゆっくりとパンを咀嚼し、飲み込んだ。
「そういえばそろそろ粉が無くなるかも」
「うん」
「また城市の粉屋に行かなきゃいけないよ」
「うんうん」
「お肉ももらって来ないと」
「たしかにそうだなー」
「……こんな大事な時期に、お父さんはどこに行っちゃったんだろうね」
リナは顔を上げた。まだ食べ物をほおばったまま、口をモゴモゴさせている。
ルゥはと言えば、ろくに顔も見合わせることができず、うつむいていた。食べ物もようやくのどを通るぐらいだったのだ。
ぎゅっ、と上衣のすそを握る。
「やっぱり何か、おかしいよ。このまま何も無かったかのように過ごすのは、できない」
リナはごくりと音を鳴らし、飲み込んだ。それから空の食器を静かに積み重ねてから、ようやく口を開いた。
「ルゥのやりたいことなんてわかってるよ」
よっこいしょ、と椅子の上にあぐらを掻くと、リナは不敵に笑った。
「父さんの手がかり、探そう」