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聖剣と魔女のミュトロジア  作者: 八雲 辰毘古
第三章 イドラの魔女
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第6話 母を喪うこと

 泣きつかれて眠ってしまったようだった。ルートが気がついたとき、あの天球儀の間にあるテーブルにうつ伏せになっていたのだ。

 目覚めた当初、とろんとしたまなざしで周囲を見回す──()()は夢だったんだ、そうだ、ボクは村でお母さんといっしょに、お父さんとリナの帰りを待っていて──ここまで思い起こして、急に我に返った。


(ちがう。あれは現実だ。あれこそが……)


 母のシワだらけの苦渋に満ちた手を思い出す。あれに触れていたときの感覚が、急激にかれにさまざまな記憶を呼び戻した。


 初めてつくったミートパイの味。

 お針ごとを習って指先に刺した痛み。

 やがてリナの服のほつれを直したこと。

 それに、風邪を引いて寝込んだ枕元で本を読んでもらったこと……


 かれは自分の手のひらを見た。

 母が不在の家庭で、絶えず料理を、掃除を、洗濯をし続けた自分自身のたなごころ──それは、まだ見ぬ母を探し求めて母のまねごとをした手でもあった。


(ボクはなんて無力なんだろう)


 魔女マグダレーナはルートに魔女の才能を認めた。だがそれはちっとも救いにはならない。《世界樹》を取り囲む魔獣への恐ろしさもある。だがそれ以上にルートの持っている能力は母の苦しみをなにひとつ改善してくれないのである。

 ぎゅっと手を握りしめる。その手は決して何もつかまない。ただの〝つかむ〟という動作だけが、延々と空振り続ける──


「あら。ひどい顔ね」


 ヴェラステラだった。赤金色の髪の少女は、天球儀の間で何かをずっと指計算している様子だった。それが一瞬こちらを向く。

 月明かりが穏やかに差すその場で、ヴェラステラの表情はいたって冷静で、確固たる存在に見えた。ルートは急に心細くなった。視線が心の裡を見透かしているような気がした。かれはいま、風でも吹いて、砂粒のように消えてしまいたいと思っていた。


 俯いて、さっさと部屋を出ようとする。


「お待ちなさいよ。ひとがせっかく声をかけたというのに」

「…………」

「いつまでも塞いでたって始まらないわよ。それとも、もう何かを始めようとしているのかしら。わたしにはわからないけども」


 ルートは()()とヴェラステラを見た。


「あなたにボクの気持ちがわかるものか」

「そうね。あなたの気持ちはあなたのものよ。べつにそれはどうだっていいじゃない」

「なら──」

「でもそれは、ひとの話を聞かない理由にはならなくてよ」

「…………」


 ヴェラステラはおもしろそうにルートの顔をうかがっている。

 そのさなか交わった視線に興味深いものを受け取ったのか──急に彼女は壁際に寄って、棚から札の束を引っ張り出してきた。近くの長机を指差す。


「来なさい」

「なんですか」

「いいから。あなたの()を観せてよ」

「ボクはべつにそんな気分じゃ」

「はやくなさい、〈深き深淵(ルートルット)〉」


 急に、たましいから延びた糸を引っ張られたような緊張がルートをおそった。ぴくっ、と本能がうずいている。

 意識に風穴を開けられたような驚きが、かれの内側にはあった。ひゅう、と気の抜けたため息を吐いた。


「いま、何を?」

「名前の本質に呼びかけたのよ。知りたいのなら、わたしのところに来ること。いい?」


 しぶしぶ、ルートは従った。

 座席に付く。

 相対して魔女はカードを切った。


「さて、どうしたものかしらね」


 ヴェラステラが広げた札は六十四枚。札を配置しながら、彼女はそれぞれの札が持つ役割を説明した。


「火。水。風。土。四つの元素霊がいて、それぞれに十六枚の札が割り当てられている。実際の配役は八つで、天と冥の属性が与えられたものが等分にあるだけ。同じ配役でも天と冥では意味が逆転することがある。これを、順繰りにめくっていって、捨て札を積み重ねていく。最後に残った札が、これからのあなたの運命を暗示するの」

「………」

「とりあえず、やってみなさい。わたしは補助霊として手助けするわ」


 めくった。風の加護を受けた〝奴隷〟の、冥属性にあたる札だった。


「これがあなたの最初の運命。めくって」


 手札が二枚。ルートは片方を捨てた。ヴェラステラもめくる。捨てた。

 めくると捨てるを繰り返す。火の元素霊の〝戦士〟の札、その天の属性が捨てられたかと思えば、他方で捨てられた冥の属性と巡り合う。同じ配役が天と冥で手元にそろうこともあった。そうなると自然と明るい道か暗い道のどちらかを選ばねばならない。


 札の取捨選択は、それが暗示する運命の取捨選択だった。


「さっきの名前っぽいもの──あれは、なんなの?」


 ルートが途中で訊く。


「名前の本質よ。名がそれを呼ぶときに秘められた言霊を、引き出すの」

「わかりにくいな」

「でしょうね。魔術の基本的な考え方は、まず〝呼びかける〟ことにある。何を〝呼ぶ〟かは術者次第。でも、少なくとも呼びかけるには名前が必要なのよ。それ自体を名指しして、ハッキリさせること。でないと《記憶》は目覚めてくれない」

「………」

「名前はね、ひとつの忘れられた《記憶》なの。その音の細切れや表象の並び方には、かつていろんな意味や想いが込められていた。どんな存在でも名前を呼ばれると自分のことだと思ってうっかり反応してしまうわ」


 めくる、捨てる。めくる、捨てる。


「世界のありとあらゆるものにはまず名前があって、それが呼ばれることによって初めて世界は反応するの。魔術というのはそうした〝呼びかけ〟と〝反応〟によって生み出される──単純だけどけっこう奥が深い仕掛けなのよ」

「でも、ボクの名前はルートだ」

「それは少し違う。あなたは自分がどんな祈りを自分の名に込めてもらったのか、それすらも知らない」


 めくる、捨てる。めくる、捨てる。


「ヒトは生まれながらにして忘れている生き物なのよ。名前は意味もなく付けられて、想いもなく呼ばれている。それはただのモノやひとを呼ぶ音にすぎないわ」

「…………」

「わたしたち魔女は──魔女だけじゃないけど、そうした名前のなかに忘れられた言霊を探りあてることから魔術の練習をするの。名前を知らなければ《記憶》を呼び起こすことができない。そして《記憶》を呼び出せなければ、魔法は決して起こり得ない」


 ルートは話を聞きながら、札を捨てる手を止めた。

 こんなのただのお遊びに過ぎないと思っていたが、妙に捨て難い札がある。風の〝魔女〟が二枚そろっているこの状況で、ルートは天と冥のどちらを手放せばよいのか。


「長考ね」

「うるさい」


 ヴェラステラはしばらく黙っていた。かつて自分が辿った道を振り返るようなまなざしで、ルートを見つめている。

 やがて、少年は恨みがましく口を開いた。


「母は──魔女エスタルーレは〝裏切り者〟じゃなかったんですか」

「裏切りよ。あんな非道な力を自分ひとりで使えると思って、教母さま以外、だれにも相談しないで使ってしまったんだから。自業自得よ。いくら子どもが可愛いからってね」

「……ッ!」

「あなたもそう思わないの? だれがそうしてくれって頼んだんだ、て思ったりしなかった? だとしたらとんだ温室育ちね。マントルピースの入った部屋でぬくぬくと本を読んで過ごしているからそんな甘ったれた考え方にあぐらをかけるのよ」


 ルートはうなずくにもうなずけない。行き場のない怒りだけがこみあげて、抑えきれずにヴェラステラにぶつけてやりたかった。


「あなたに母親はいないんですか」

「いないわ」


 風に相撲を取ったような虚脱感──

 ルートは急に恥ずかしくなった。


「……すみません」

「いいのよ。ちゃんと話しましょうか。わたしに〝母〟と呼べるひとはいない。いたとしてもそれは、決してわたしに温かい気持ちをもたらしてはくれなかった。〈真実の星(ヴェル・アステル)〉として紐づけられた本質も、振り返ってみれば呪いでしかないのよ」


 ヴェラステラは微笑んだ。


「ルート。あなたは、その点恵まれてると思うわよ。あなたはその名前に、まだエスタルーレの込めた祈りが生きている」

「それが、〈深き深淵(ルートルット)〉……?」

「ええ。万物の知識の眠る場所、その深奥に潜ることができるもの」

「……」

「あなたはすでに魔術の道を選んでしまった。だから捨てる札を迷っているのは、ただそれを受け止めきれていないだけ。単に《器》の問題なのよ。でも、あなたはそれをするに足るだけの知識と知恵がある。ためらう理由はないはずだわ」

「でも、ボクはまだこの選択に確信が持てない。本当にそれでいいのか、どうか──」


 ヴェラステラはようやく本音を話してくれたルートに、やさしく微笑んだ。


「わたしのエスタルーレの思い出を語りましょう。ほんの小さい頃、わたしはあなたを産む前のエスタルーレに面倒を見てもらったことがあるわ。なんなら、わたしの魔術の師はエスタルーレだった、ていってもいい」

「それ、ほんとう?」

「ええ。〈真実の星(ヴェル・アステル)〉の言うことが聞けないわけ?」


 ルートはなんとなくうさんくさいものを見るような目でヴェラステラを見た。


「失敬ね。じゃあこの話やめるわ」

「……スミマセンデシタ」

「ふーん」

「すみませんでした!」

「はい、よろしい」


 と言っても、大したことは話せないわよ、とヴェラステラは言った。それでいいよ、とルートはうなずく。

 ヴェラステラの記憶のなかにいる母の若かりし頃は、空に翼を広げる鳥のように活発で、水に潜んだ魚のように底が知れない。いたずら好きでよく構ってもらったこと、冒険心にあふれていて幼いころのヴェラステラとよく山野を歩いたこと、そしてそのくせやたらと物を見る目が鋭く、一瞥するだけで数々の本質を直観したこと──


「魔女エスタルーレは数ある魔術のなかでも、変身術の達人だった。それはね、ただ名前を知るだけでも無ければ、自分の持っている素質だけでもできる芸当じゃないの。自分の名前の本質から次々と連想して、なりたいもの、なりたいすがたかたちへと移りわたっていく──わたしはそれができなかった。わたしはそうするには、あまりに〝自分〟というものにこだわりすぎていた。

 生きているときの彼女はほんとうに自由だったわ。あらゆる鳥、けもの、魚のすがたすら取って自在に楽しんでいた。あこがれよ、はっきり言って。あんなふうに魔術が使えるなら、古代の魔法文明だってきっと素敵なものだったでしょう。そう思えるくらいに」

「でも、いまはもう、自由じゃない」


 ルートの暗い応答に、ヴェラステラはうなずいた。


「ひとは生きている間は自由なのよ。何者にでもなれる。本当はそうじゃないかもしれないけど、それを確信するために魔法がある。でも、死ぬことからは決して逃げられない。もし苦しみから逃れたいのであれば、死を受け入れるしかないのよ」

「まるで、一度死んできたみたいな言い方だね」

「そうね。わたしはある意味一回死んだようなものだから」


 ヴェラステラはそう言って、魔術刻印のある顔の片側に触れた。


「ヴェラステラはなぜ、魔女になったの?」


 ルートがうっかり口にした質問に、ヴェラステラは首を振った。


「それしかなかったからよ。それ以上も、それ以下もない。でも、これがわたしの生きる道で、生きるためにはわたしは魔女として戦わなければいけない」

「…………」

「たぶん、エスタルーレなら違う答えを持っていたでしょうね」

「そうかもしれません」

「それが、あなたが持っている〝取るべき選択〟なのよ」


 少年は黙ったまま、札を見た。捨てる札はもう決まっていた。その札に手をかけ、放り出す。そして次の番で引いた札で最後だった。かれはもう一度にらむように札を見つめ、ついに札を捨てた。

 最後に捨てた札の配役は、〝司祭〟だった。


「自分の運命は、決まった?」


 魔女の問いかけに、少年は静かに確信を持った面持ちでうなずいたのだった。

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